荒子城(あらこじょう)は、前田利家が生まれ育った城です。尾張の西のはずれ、庄内川と新川にはさまれた低い土地にあり、柵と濠をめぐらせただけの小さな平城でした。利家は本来この城を継ぐ立場にありませんでしたが、織田信長の命によって兄に代わり城主となります。城跡は現在の名古屋市中川区にあり、冨士権現社の境内に石碑が残るのみで、堀や土塁は残っていません。
- 前田利家の生誕地とされ、兄に代わって城主となった城
- 柵と濠をめぐらせた小規模な平城で、天守も石垣も持たなかった
- 家督の交替は信長の命によるもので、利家が兄を追ったという話とは経緯が異なる
- 城跡には石碑が残り、荒子駅前には利家の騎馬像が立つ

荒子駅前に立つ「前田利家公初陣之像」。槍を手に馬を進める若き日の姿で、台座に初陣の文字が刻まれている。
荒子城はどんな城だったのか
荒子城が築かれたのは天文年間とされ、前田利春(利昌とも)が城主でした。前田氏は尾張海東郡荒子を本貫とする土豪で、この地域の有力者として織田氏に従っていました。城といっても、周囲に濠と柵をめぐらせた館に近い構えで、規模は二町四方ほどだったと伝わります。石垣も天守もありません。
この一帯は庄内川の下流にあたる低湿地で、田と水路が広がる土地です。高い場所に拠るのではなく、水路と湿地そのものが防御になる立地でした。同じ尾張でも、台地の上に構えられた那古野城や清洲城とは、城のつくりの前提が違います。利家はこの水郷のような土地で、天文七年(一五三八)ごろに生まれました。
兄に代わって城主になった経緯
利家は前田利春の四男でした。家督は長男の利久が継ぎ、荒子城主となっています。ところが永禄十二年(一五六九)、信長は利久から家督を取りあげ、利家に前田家を継がせました。四男が当主になるという、通常ではありえない交替です。
出仕を止められた若き日
利家は十四歳ごろから信長に小姓として仕え、槍を得意としたことから「槍の又左」と呼ばれました。赤母衣衆に加えられ、信長の側近として戦場を駆けています。ただ、その前半生は順調だったわけではありません。永禄二年(一五五九)、信長の同朋衆であった拾阿弥を斬ったため、出仕を止められました。理由は笄を盗られたことへの遺恨と伝わりますが、細部は史料によって異なります。
この間、利家は無断で桶狭間の戦いや森部の戦いに加わり、首級を挙げて許されたとされます。信長に追放された家臣がふたたび用いられた例として知られる話ですが、追放の期間や復帰の経緯には諸説があり、年次を一本の線で結ぶことはできません。荒子城主になるのは、この復帰から十年ほどのちのことです。

像を横手から見る。馬は前脚を上げ、背に旗指物を立てた姿。像の詳しい由来は前田利家像の記事でも紹介している。
荒子を出て、越前から能登・加賀へ
荒子城主となった利家は、越前一向一揆の平定などに従い、天正三年(一五七五)に越前府中を与えられます。佐々成政、不破光治とともに府中三人衆と呼ばれた時期です。荒子城はこのとき前田家の手を離れ、やがて廃されました。城としての歴史は、利家が尾張を出るまでの数十年にとどまります。
天正九年(一五八一)、利家は能登一国を与えられ、七尾城に入りました。山城での統治は不便だったため、まもなく麓の小丸山に城を移しています。柴田勝家の与力として北陸を転戦し、賤ヶ岳の戦いでは戦わずに戦場を離れました。この行動は裏切りとも、勝ち目を見きわめた判断とも語られます。
戦後、利家は秀吉から加賀二郡を加増され、金沢城に入りました。翌年には佐々成政が能登の末森城を攻めますが、利家はこれを退けています。加賀百万石と呼ばれる前田家の基礎は、この時期に固まりました。妻のまつが江戸へ人質として下るのは、利家の死後のことです。

木立にかこまれて立つ石碑。荒子城跡と伝わる一角にあり、案内板がなければ見のがしてしまうほど静かな場所にある。
荒子城跡の訪ね方
荒子城跡は、あおなみ線の荒子駅から歩いて数分の冨士権現社(天満天神宮)の境内にあたります。石碑が立つほかは住宅と道路で、城の輪郭をたどれるものは残っていません。低い土地であることだけが、当時の立地を今に伝えています。
駅前の広場には前田利家の騎馬像があり、近くの荒子観音(浄海山圓龍院観音寺)は前田家ゆかりの寺として知られます。多宝塔は室町期の建築で、名古屋市内では古い部類の木造建築です。城跡そのものは小さくても、駅から寺までを歩けば、利家が育った土地の広がりは感じられます。
所在地:〒454-0869 愛知県名古屋市中川区荒子4
