大洲城:古写真とひな型模型が支えた木造復元天守と、江戸のまま残る台所櫓・高欄櫓

大洲城の天守は、鉄筋コンクリートではありません。木で組まれた四重四階の天守で、戦後に建てられた木造復元天守としては最大級のものです。しかも「だいたいこんな形だったろう」という想像で建てたのではなく、解体前の古写真と、江戸時代につくられた精密な木組みのひな型模型という一級の資料が残っていたから実現しました。城そのものも、伊予の宇都宮氏に始まり、小早川・戸田・藤堂・脇坂と持ち主が替わり、最後に加藤家が明治まで治めた、四国でも屈指の変遷を持つ城です。

この記事のポイント
  • 天守は木造で復元された四重四階。戦後の木造復元天守としては最大級
  • 古写真と江戸期のひな型模型が残っていたことが、忠実な復元を可能にした
  • 台所櫓と高欄櫓は江戸末期の建物がそのまま現存し、国の重要文化財
  • 肱川と久米川が合流する地蔵ヶ岳に築かれ、水運と街道を同時に押さえた
  • 大洲に入ったのは加藤嘉明ではなく、別人の加藤貞泰
目次

肱川に臨む城 ― なぜこの丘だったのか

肱川ごしに見た大洲城の天守と櫓

川の向こう、緑に覆われた丘の上に天守と櫓が並んで建つ。水面に空と木立が映りこんでいる。

大洲城が建つのは、肱川と久米川が合流する地蔵ヶ岳という丘です。写真のとおり、川がそのまま城の堀の役目を果たしています。肱川は伊予の内陸と海をつなぐ水の道で、河口の先には外港の八幡浜がある。そこへ伊予を南北に結ぶ街道が交わるのですから、ここを押さえれば人も物も止められます。四国の城はどこも水との距離が近く、丸亀城が瀬戸内の港を見下ろし、徳島城が河口の中州に構えたのと同じ理屈が、内陸の大洲でも働いています。城を築いたのは伊予の守護だった宇都宮氏で、はじめは中世の山城に近い構えだったと考えられています。

六つの家が入れ替わった城

石垣の下から見上げた大洲城の天守と台所櫓

石垣の下から見上げた天守と、手前に構える櫓。白壁の下に黒い下見板が張られ、曇天に輪郭が浮かぶ。

南伊予の宇都宮氏は、まず中国から伸びてきた毛利氏に押されて降り、次に四国統一を目指す長宗我部元親の侵攻を受けてこの地を追われました。その長宗我部も秀吉の四国攻めで屈し、大洲は毛利家臣の小早川隆景の手に落ちて、伊予三十五万石の支城になります。隆景が九州へ移ると戸田勝隆が入り、次に藤堂高虎、そして脇坂安治と、名の知れた武将が続けて城主になりました。天守を含む近世城郭の姿が整ったのは、この藤堂・脇坂の時代です。高虎がどこで築城の腕を磨いたのかは藤堂高虎はなぜ築城の名手になったのかにまとめました。脇坂安治のほうは賤ヶ岳で名を上げた七本槍の一人で、その後の人生は賤ヶ岳の七本槍で追えます。一つの城にこれだけの家が出入りしたのは、大洲が四国の要地として奪い合われ続けたからにほかなりません。

大洲に入ったのは「嘉明」ではなく「貞泰」

▽ よく語られる話

大洲城の城主となったのは、伊予松山の加藤嘉明である。

▼ 史実ではこうです

同じ伊予の大名で名前も似ているため混同されがちですが、元和三年に大洲へ入ったのは加藤嘉明ではなく、別人の加藤貞泰です。貞泰は豊臣家臣・加藤光泰の子で、関ヶ原では東軍について功を挙げ、伯耆米子から大洲へ移りました。嘉明のほうは松山城を築いた人物で、まったくの別家です。以後、加藤家が明治維新まで大洲を治め続けました。

天守と櫓をつなぐ ― 複合連結式という構え

大洲城の木造復元天守と、両脇に建つ台所櫓・高欄櫓

中央に四重の天守、その左右に櫓が並び、渡り櫓でつながっている。白壁と黒い下見板の対比がくっきりしている。

写真を見ると、天守が単独で建っていないことがわかります。北に高欄櫓、西に台所櫓を置き、それぞれを渡り櫓でつないでいる。この構えを複合連結式といい、天守だけを孤立させないことで、攻め手が天守に取りつく前に何段も手前で止められるようになっています。層塔型の四重四階という規模も、十万石に満たない藩の城としては立派なもの。とくに大洲城の場合、天守と櫓が一体の建築群として設計されているところに、藤堂高虎や脇坂安治といった実戦を知る武将が関わった痕跡が見えます。単に高い建物を建てるのではなく、どう守るかから形を決める。同じ四国で高虎が手がけた今治城とあわせて見ると、その発想の共通点がわかります。

台所櫓と高欄櫓 ― 江戸のまま残った二棟

城下の町並みごしに見た大洲城の天守と櫓

手前に白壁と瓦屋根の町家が連なり、その向こうに天守と櫓が頭を出している。城下と城が地続きであることがわかる眺め。

大洲城でいちばん古いのは、実は天守ではありません。台所櫓と高欄櫓です。どちらも江戸時代末期の再建で、台所櫓は安政六年、高欄櫓は万延元年に建て直されたと伝わります。きっかけは安政の大地震でした。高欄櫓はその名のとおり西面と南面に高欄をめぐらせた二重三階の櫓で、城内で最も装飾的な建物です。両櫓とも国の重要文化財に指定され、解体修理を経て今日まで保たれてきました。復元された天守に目を奪われがちですが、本物の江戸の建物が二棟すぐ隣に建っているというのが、この城の価値です。福山城でも平戸城でも、いちばん古いものは天守ではなく櫓と門でした。

なぜ木造で建て直せたのか

明治になると大洲城の天守は取り壊され、城は石垣と二棟の櫓だけの姿になりました。それから長い時間が過ぎて、市制の記念事業として天守の復元が持ち上がります。ここで効いたのが資料の質でした。取り壊される前に撮影された古写真が残っていたこと。そして江戸時代につくられた精密な木組みのひな型模型が伝わっていたこと。模型は天守の構造をそのまま縮小したもので、これがあれば柱と梁の組み方まで再現できます。さらに発掘調査で、模型と合致する位置から礎石が見つかりました。想像で補った部分がほとんどない、という点で、この復元は全国でも例外的です。もうひとつ壁になったのが法律でした。当時の建築基準法では、これほど高い木造建築を新築するのは難しかった。ところが大洲城跡が県の史跡に指定されていたため、法の適用除外という形で木造での復元が認められたと伝わります。資料と制度、その両方がそろって初めて、鉄筋ではなく木で建てることができた。篠山城の大書院が木造で復元されたのと同じ考え方が、天守という大きな建築で実現した例です。

城下町とうかい ― 大洲の歩き方

大洲は城下町の町並みがよく残っている土地でもあります。白壁と格子の家が並ぶ一角は昭和の連続テレビ小説の舞台になり、その名を取った通りが今も人を集めています。城のすぐ下を流れる肱川では夏に鵜飼がおこなわれ、屋形船から篝火と鵜匠の手さばきを見られる。城と川と町が近い距離にまとまっているので、半日あれば全部まわれます。もうひとつ寄っておきたいのが臥龍山荘です。肱川の淵に臨んで建つ数寄屋造りの建物で、明治の豪商が贅を尽くして建てたもの。庭と川と建築が一体になった空間は、城とはまったく違う種類の凄みがあります。

訪ね方と見どころ

所在地は愛媛県大洲市大洲。日本100名城の八十二番です。JR伊予大洲駅から歩いて二十分ほど、車なら城のすぐ下まで入れます。順路は、まず天守に上がってください。木造なので、階段も床も柱もすべて木。鉄筋の復元天守とは足裏の感触からして違います。最上階まで登ったら、窓から肱川の蛇行を見下ろす。城がこの位置に置かれた理由が、そこで一目でわかります。降りたら台所櫓と高欄櫓へ。天守から続けて入れるので、復元された木の匂いと、二百年近い時間を経た木の色の違いを、同じ日に見くらべられます。川の対岸から城を見上げる眺めも忘れずに。写真のように、緑の丘の上に天守が載る姿は、この城のいちばん美しい角度です。日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。

大洲城・場所とアクセス

〒795-0012 愛媛県大洲市大洲903

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