伊予松山城は、現存十二天守のひとつでありながら、そのなかで最も新しい天守を持つ城です。加藤嘉明が築いたときの天守は五層でしたが、次の代で三層に改められ、その建物も落雷で焼けました。いま建っているのは幕末に再建されたものです。つまり「現存」ではあっても「築城当初のまま」ではない。それでもこの城が別格なのは、大天守と小天守、二つの隅櫓を渡櫓で結んだ連立式の本壇が丸ごと残り、重要文化財に指定された建造物が二十一棟もあるからです。そして山の斜面を這うように登る登り石垣という、めったに見られない遺構もあります。
- 大天守・小天守・二つの隅櫓を渡櫓でつないだ連立式。姫路城と並ぶ形
- いまの天守は幕末の再建で、現存十二天守のなかで最も新しい
- 重要文化財の建造物が二十一棟。現存する城郭建築の数では屈指
- 山の斜面を登る登り石垣が残る。朝鮮出兵で使われた技術の流れをくむ
- 「松山」という地名は、この城を築いたときに生まれた
加藤嘉明と、「松山」という名の誕生

こんもりとした緑の山の頂に、白い天守と櫓が並んで見える。城のある勝山が市街のただ中にあることがわかる。
加藤嘉明は、賤ヶ岳で名を上げた武将のひとりです。関ヶ原で東軍について功を立て、伊予十万石から二十万石へ加増されました。それまでの居城は海沿いの正木(松前)城でしたが、二十万石の政庁としては手狭で、嘉明は内陸の勝山に新しい城を築くことにします。写真のこんもりとした山がその勝山で、標高は百三十メートルほど。平地のなかに独立して盛り上がった山で、日本三大平山城のひとつに数えられます。普請奉行をつとめたのは家臣の足立重信で、彼は城づくりだけでなく川の付け替えまで手がけ、いまも松山を流れる川にその名が残っています。そしてこのとき、嘉明はこの地を「松山」と呼ぶことに決めました。全国にいくつもある松山という地名のうち、伊予の松山はこの瞬間に生まれています。賤ヶ岳の七本槍と呼ばれた男たちのなかで、嘉明は最も長く大名として生き延びた一人でした。
城主が三度替わった二十数年
ところが嘉明は、城の完成を見ないまま会津へ移されます。二十万石から四十万石への大出世でしたが、二十年以上かけて築いた城を置いていくことになりました。嘉明が入ったのが会津若松城です。代わって松山に入ったのが蒲生忠知で、松坂城を築いた蒲生氏郷の孫にあたります。二十四万石。ところが忠知は参勤交代の途中で急死し、跡継ぎがなく蒲生家は断絶してしまいました。一時は隣の大洲の加藤泰興が城を預かる在番という形になり、そのあと松平定行が十五万石で入って、ようやく落ち着きます。以後は明治まで松平家の城でした。二十数年のあいだに城主が三度替わっているわけで、この時期の大名の立場がどれほど不安定だったかがわかります。
五層から三層へ、そして幕末の再建

広場の向こうに、大天守を中心として小天守と櫓が並び立つ。それぞれが渡櫓でつながり、ひとつの建築群になっている。
連立式の本壇 ― 姫路城と並ぶ形

石垣の上に天守と櫓が重なって見える。白漆喰の壁と黒い下見板、幾重にも折り重なる瓦屋根。
松山城の本丸北側には本壇と呼ばれる区画があり、ここに大天守、小天守、南隅櫓、北隅櫓が置かれ、三棟の渡櫓でつながれています。これが連立式天守です。四つの建物が四方を囲み、その内側に中庭のような空間ができる。攻め手はまず渡櫓の門を破らねばならず、破って中へ入れば四方から見下ろされることになります。同じ形式を持つのは姫路城くらいで、現存する城のなかでは非常に貴重です。写真のように下から見上げると、どこからどこまでが一棟なのか判別できないほど建物が重なって見えます。それが狙いでもある。攻める側から見れば、目標がどこにあるのかわからない壁が立ちはだかっているのと同じです。
登り石垣 ― 斜面を這い上がる壁

石垣の上に櫓が建ち、手前には狭間のあいた白い土塀と瓦屋根の門が重なる。城内の通路から見上げた眺め。
松山城でぜひ見ておきたいのが登り石垣です。ふつう石垣は曲輪の縁を水平に囲みますが、登り石垣は山の斜面を縦に、麓から山上へ向かって這い上がるように築かれます。目的は、山腹を横切って移動されるのを防ぐこと。山上の城と麓の居館を石垣の壁でつなぎ、その内側を安全な通路にしてしまうわけです。この技術は朝鮮出兵の際に日本の武将たちが築いた城で使われたもので、帰国した大名がそれを持ち帰りました。嘉明も朝鮮出兵に加わった一人です。国内で登り石垣が明確に残るのは彦根城、洲本城、そして松山城くらいで、なかでも松山城のものは規模が大きい。海を渡った戦の経験が、伊予の山に形として残っているということになります。
二十一棟の重要文化財

雲の多い空を背に、天守と櫓が石垣の上に並ぶ。白い壁と黒い板張りの対比がくっきりと浮かぶ。
松山城の価値は天守だけにあるのではありません。戸無門、筒井門、隠門、太鼓門といった門、野原櫓、乾櫓、紫竹門、そして土塀に至るまで、江戸期の建造物が二十一棟も残り、いずれも国の重要文化財に指定されています。現存する城郭建築の数でいえば、姫路城に次ぐ規模です。とくに野原櫓は、望楼型天守の原型を伝える現存唯一の櫓ともいわれ、建築史の上で重要な建物とされています。隠門も見逃せません。表からは見えない位置に隠された門で、攻め手が筒井門に取りついた背後から討って出るための仕掛けです。天守まで一直線に登ってしまうと、こうした細工をすべて見落とすことになります。福山城でも大洲城でも、いちばん古いものは天守の外にありました。
訪ね方と見どころ
所在地は愛媛県松山市丸之内。日本100名城の八十一番です。山上まではロープウェイとリフトがあり、歩いて登る道もいくつか通じています。おすすめは行きをリフト、帰りを徒歩にすること。降りる道で登り石垣や石垣の積み方を見られるからです。山上に着いたら、いきなり天守へ向かわず、まず戸無門から筒井門、隠門と続く順路をていねいにたどってください。門と門のあいだで道が折れ、視界が切り替わるのがわかります。本壇に入ったら、中庭に立って四方を見上げてみる。連立式の意味が体でわかる場所です。大天守の最上階からは松山平野と瀬戸内海、晴れていれば石鎚山まで見えます。城を下りたら二之丸史跡庭園へ。大井戸遺構という巨大な水の遺構があり、城の暮らしを支えた仕掛けが見られます。日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。
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伊予松山藩/松平家15万石:松平定昭 鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍についたため朝敵となり追討軍を送られた松山藩
伊予松山城の地を治めた伊予松山藩が、幕末をどう生きたかをまとめています。
松山城・場所とアクセス
旅の計画に
ここを歩くコースがあります
姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」に、行程・所要時間・駐車場までまとめた実走コースがあります。
1泊2日:荒川の要塞と秩父路(車・1泊2日)
日帰り:上杉・北条・武田が奪い合った激闘の城(車・日帰り)
〒790-0008 愛媛県松山市丸之内1
