高松城跡(玉藻公園):堀に潮が満ちる日本三大水城と、海へ開く水手御門

高松城は瀬戸内海に直接面して築かれた城で、三重の堀すべてに海水が引き込まれています。堀に鯛が泳ぎ、城の北側には海へ開く門がそのまま残る、日本でも数えるほどしかない海の城です。天守はすでになく、明治の半ばに老朽化のため解体されましたが、月見櫓と水手御門、艮櫓が江戸時代の姿をとどめ、海に向かってひらかれた城の性格をいまに伝えています。

この記事のポイント
  • 三重の堀に海水を引き込んだ、日本三大水城のひとつ
  • 海へ直接開く水手御門が現存する、全国でも珍しい城
  • 生駒氏の改易のあと、水戸徳川家から松平頼重が入って完成させた
  • 天守は明治の半ばに解体され、いまは天守台だけが残る
目次

海に浮かぶ城:堀に潮が満ち引きする

高松城の堀は海とつながっていて、潮の満ち引きに合わせて水位が上下します。淡水の堀なら水草が生い茂るところに、ここでは鯛や黒鯛が泳ぎ、内堀では餌やりを楽しむこともできます。今治城、中津城とならんで日本三大水城に数えられ、いずれも瀬戸内から豊前にかけての海に面した城であることは偶然ではありません。船で兵と物資を動かせる海は、この時代の大名にとって最良の街道でした。

城の北側は、もとは波打ち際でした。いまでこそ埋め立てが進んで海岸線は遠ざかりましたが、藩主は城の内から小舟に乗り、沖に待たせた御座船へ乗り移って参勤の旅に出ています。その乗り降りに使われたのが水手御門で、海に直接開く門が今日まで残っている例はほとんどありません。

高松城の月見櫓と水手御門

左が月見櫓、中央の門が海へ開く水手御門、右が渡櫓。藩主はこの門から小舟に乗り、沖の御座船へ向かった。

生駒親正が選んだ港町

秀吉の四国攻めが終わると、讃岐十七万六千石を与えられた生駒親正が国入りします。はじめは東讃の引田城に入りましたが手狭で、次に宇多津の聖通寺城へ移り、それでも国を治めるには不便だとして、天正16年(1588年)に野原と呼ばれていた港町の一角、玉藻浦で新しい城の普請を始めました。二年ほどで城の形が整い、讃岐の政治の中心はここへ移ります。

この場所が選ばれた理由ははっきりしています。瀬戸内の海運を押さえられること、そして讃岐平野の物資が集まる港であることです。城下町も同時に整えられ、海に向かって開いた城と町が一体で設計されました。

▽ よく語られる話

高松城の縄張は黒田官兵衛が引いた。堀に海水を引き込む発想は、官兵衛ならではのものだった。

▼ 史実ではこうです

官兵衛が関わったという話は江戸時代の書物に見え、細川忠興の名を挙げる伝えもありますが、築城当時の確実な史料で裏づけられているわけではありません。海水を引く城づくりは瀬戸内から九州にかけて同じころに複数の城で採られた手法で、誰か一人の発案と言い切るのは難しいところです。同じ三大水城の中津城が官兵衛の城であることから、話が結びついた面もありそうです。

高松城の月見櫓を陸側から見上げる

石垣の上に建つ月見櫓を陸側から。唐破風の飾りが、海から城を望む者に向けられている。

生駒騒動と、松平頼重の入封

生駒家は四代高俊の代に家中が二派に割れ、藩政をめぐる争いが幕府の裁定を仰ぐところまで拡大します。生駒騒動と呼ばれるこの内紛の結果、生駒氏は出羽矢島一万石へ大きく減らされて讃岐を去りました。代わって入ったのが、水戸徳川家の初代頼房の長男で、水戸光圀の兄にあたる松平頼重です。十二万石で高松に入った頼重は、生駒氏が残した城を大きく造り替えていきます。

本丸と二の丸をつなぐ橋を架け直し、三重の堀を整え、天守を建てたのも頼重の時代でした。城の南西にあった庭園にも代々手が入れられ、百年近い歳月をかけて栗林公園として仕上げられていきます。隠居所というより、藩主が客を迎え、政務の合間に憩うための下屋敷として使われた場所でした。丸亀城を持つ西讃の京極家とならび、高松の松平家は幕末まで讃岐を二分して治めます。

天守はどんな姿だったのか

頼重の代に完成した天守は三重で、内部は四階に分かれていたと伝えられます。最上階が下の階よりも張り出す造りで、岩国城などに見られる南蛮造りと呼ばれる形式でした。小倉城の天守を手本にしたとも言われます。古写真が残っているため姿はよくわかっており、明治十七年に老朽化を理由として解体されるまで、海から高松へ近づく船の目印になっていました。

天守台はその後に積み直しの工事が行われ、上まで登れるようになっています。ここに立つと、内堀の水面と瀬戸内の空、そして市街地の向こうに屋島の影までが一続きに見えます。天守が建っていたころ、この眺めの手前はすべて海でした。

高松城の内堀と城舟

内堀では海水に棲む鯛が泳ぎ、和船に乗って堀をめぐる体験もできる。石垣のすぐ足元まで潮が満ちてくる。

十二万石の高松藩を支えたもの

高松藩の十二万石という数字は、讃岐一国十七万石余りのうち東側を占める石高です。西讃は丸亀城の京極家が治め、讃岐は二つの藩に分かれました。平野は瀬戸内式の気候で雨が少なく、米だけを頼りにできる土地ではありません。そこで藩が力を入れたのが、砂糖と塩と綿、のちに讃岐三白と呼ばれる特産でした。

沿岸には塩田が広がり、干拓地では綿が栽培され、砂糖の原料となる甘蔗の栽培と製糖の技術も藩の後押しで根づいていきます。これらは船で大坂へ運ばれ、藩の財政を支えました。海に開いた城が港と一体だったことは、軍事だけでなく経済の面でも理にかなっていたわけです。城下には水を確保するためのため池も無数に掘られ、讃岐平野の景色そのものが藩政の産物になりました。

幕末の高松藩と、戦わずに明け渡された城

高松藩は水戸徳川家から分かれた親藩で、鳥羽伏見の戦いでは幕府方として兵を出しました。敗戦のあと朝敵の名を負わされ、城には土佐藩の兵が迫ります。藩内では抗戦を説く声もありましたが、家老が責めを負って自刃し、藩は新政府への恭順を決めました。城は戦火を受けることなく明け渡され、堀も石垣も壊されずに残ります。

もっとも、明治以降に三の丸の堀が埋められ、城域は大きく削られました。それでも本丸と二の丸、内堀と中堀が今日まで伝わり、重要文化財の月見櫓・水手御門・渡櫓と艮櫓、大正期に建てられた披雲閣が公園のなかに残っています。

高松城の艮櫓

艮櫓。もとは東の丸にあった三重の櫓で、いまは旭橋のそばへ移されて城の顔になっている。

玉藻公園(高松城跡)・場所とアクセス

香川県高松市玉藻町2-1。JR高松駅から歩いて三分、ことでん高松築港駅は堀のすぐ脇にあり、電車の窓から石垣が見えるほどの近さです。園内は有料で、日本100名城のスタンプは東門と西門の管理事務所に置かれています。内堀の鯛の餌やりや城舟の体験は時期によって実施されるため、訪ねる前に確認しておくと確実です。同じ讃岐の丸亀城、海を渡って今治城や湯築城跡とあわせれば、瀬戸内の城の性格の違いがよく見えてきます。

瀬戸内と四国の城

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