今治城の堀の水は、海水です。瀬戸内の海から直接引きこんでいるので潮の干満で水位が上下し、堀にはクロダイやボラが泳いでいます。築いたのは藤堂高虎。城内に船着き場を設けて軍船が直接出入りできるようにし、海に面した側だけを高石垣で固めました。高松城・中津城と並んで日本三大水城に数えられるこの城は、高虎が「海を味方につけたらどうなるか」を試した作品でもあります。いま建つ五重の天守は昭和の再建ですが、鉄御門や多聞櫓は木造で復元され、犬走りを持つ独特の石垣も残っています。
- 堀に海水を引きこんだ、日本三大水城のひとつ
- 城内に船入を設け、軍船がそのまま出入りできた
- 海側は高石垣、陸側は土塁という、向きで守り方を変えた縄張
- 石垣の足元に犬走りがあり、砂地の地盤に合わせた造りとされる
- いまの天守は昭和の再建。当時の天守の姿を伝える資料は残っていない
海水を引きこんだ堀

水をたたえた堀の向こうに石垣が立ち上がり、その上に天守と櫓が並ぶ。堀の水面は静かで、石垣と建物を映している。
今治城が築かれたのは、瀬戸内海に面した砂浜の上でした。ふつう城は丘や台地に築くものですが、高虎はあえて海際の平地を選んでいます。理由は海にありました。堀を海とつなげば、水を汲む必要も、涸れる心配もない。そのうえ船をそのまま城へ入れられます。写真の堀の水は、いまも海から引きこまれたもので、潮が満ちれば上がり、引けば下がる。淡水では生きられない魚が泳いでいるのを見ると、この堀が海の一部であることが実感できます。瀬戸内は村上水軍が支配してきた海で、船で動くことが力そのものだった土地です。小早川隆景が築いた三原城も同じ発想の海城でした。高虎はその流れを引き継ぎ、より徹底した形で城に落としこんだのです。
向きによって守り方を変えた縄張

まっすぐな土橋の先に門が構え、その左右に白壁の櫓と多門櫓が連なる。橋の両側には桜が咲いている。
今治城でおもしろいのは、同じ城なのに方角によって守りの作り方がまるで違うことです。海に面した側は本丸も二の丸も高い石垣で固められています。ところが陸側は、土塁を盛っただけ。ふつうなら陸のほうを厚くしそうなものですが、逆になっている。理由は攻め手がどこから来るかを考えればわかります。この城の正面は海であり、船で近づいてくる敵に対しては石垣の高さがそのまま壁になる。一方、陸側は三重の水堀と城下町がすでに緩衝帯になっていて、土塁で足りる。限られた費用と時間を、効く場所に集中させたわけです。藤堂高虎はなぜ築城の名手になったのかで書いたとおり、高虎の強みは新しい技術を発明したことではなく、その場所で何が効くかを見極める判断の速さにありました。写真の土橋と門も、まっすぐ入らせておいて門の内側で折らせる構えになっています。

門をくぐった先の四角い空間。三方を高石垣と白壁に囲まれ、逃げ場のない造りになっている。正面に木組みのあらわな門が見える。
こちらは鉄御門(くろがねごもん)の内側です。門を抜けた先が四角い広場になっていて、三方を石垣と白壁に囲まれている。これを枡形といいます。門を破って飛びこんだ敵は、この箱のなかで足を止められ、四方から狙われることになる。鉄御門と多聞櫓は近年になって木造で復元されたもので、柱も梁も木で組まれています。石垣をよく見ると、下のほうに一段の平坦な帯がめぐっているのがわかるはずです。これが犬走りで、砂地の地盤で石垣が沈んだりはらんだりするのを防ぐための工夫とされています。ふつうの城ではまず見かけない造りで、海際に城を築くという無理を通すために、高虎が足元から考え直した跡です。
天守はあったのか

桜の枝の向こうに五重の天守がそびえる。最上階には高欄がめぐり、白壁に黒い格子窓が並ぶ。
層塔型天守の始まり ─ なぜ「築城の革命児」なのか
今治城で高虎が建てたとされる五重の天守は、当時最新の層塔型だったと考えられています。それまでの天守は、大きな入母屋造りの建物の上に物見の望楼を載せる望楼型で、一棟ごとに形がばらばらでした。層塔型は四角い天守台の上に、少しずつ小さくなる同じ形の階を積み重ねる方式です。規格化した部材を使えるため、早く、安く、同じ品質で建てられます。この考え方は江戸時代の天守の主流になりました。
石垣を高く積むこと、海を堀に変えること、天守を規格化すること。高虎が「築城の革命児」と呼ばれるのは、城づくりのやり方そのものを変えたからです。高虎が大改修した伊勢の津城や、秀長のもとで普請に関わった和歌山城と比べてみると、その変化がよくわかります。

同じ形の階を少しずつ小さくしながら積み重ねた姿。再建天守ですが、層塔型の形がよくわかります。
高虎が去ったあとの今治

本丸に立つ騎馬像。馬上の武将が海のほうを向き、その左手奥に天守がそびえる。
高虎が今治にいた時間は、実はそう長くありません。城の完成から数年で伊勢の津へ移され、津城の大改修に取りかかります。今治には養子の高吉が二万石で残りましたが、その高吉もやがて伊賀の名張へ移り、代わって久松松平家の松平定房が入って、以後は明治まで松平氏の城となりました。写真の騎馬像は本丸に立つ高虎の像で、海のほうを向いています。城を築いた人物が、その城を長く使わないまま去っていく。高虎の生涯にはこの形が何度も出てきます。大洲城も篠山城も、高虎が関わった城は各地にありますが、彼自身が腰を据えた城は多くありません。城をつくることそのものが、この人の仕事でした。
槍の勘兵衛が差配した普請
今治城の普請奉行をつとめたのは渡辺了、通称「槍の勘兵衛」です。武辺者として名の知られた人物で、戦場での働きぶりが評判でした。その男に城づくりの現場を任せたところに、高虎の人の使い方が見えます。築城は測量と土木と人夫の管理がすべてで、腕っぷしとは別の能力が要る仕事です。それでも高虎が勘兵衛を選んだのは、海際の砂地に城を築くという前例のない工事に、現場をまとめきる力の強い人間が必要だと考えたからでしょう。堀を海とつなぐ工事は、潮の動きを読み違えれば水浸しになります。石垣の下に犬走りを設けたのも、実際に掘って積んでみた現場の判断が入っているはずです。設計図どおりにいかないことが起きる工事だったと考えると、この人選は腑に落ちます。
訪ね方と見どころ
所在地は愛媛県今治市通町。日本100名城の七十九番です。JR今治駅からバスで十分ほど、車でも市街地なので迷いません。まず堀の外側を一周してください。水面に石垣と櫓が映る眺めがこの城の看板で、犬走りもここからよく見えます。潮の時間が合えば、堀の水が動いているのがわかるはずです。それから土橋を渡って鉄御門へ。枡形の内側に入って、三方を囲まれる感覚を体で確かめてから本丸へ上がります。本丸には吹揚神社が鎮座していて、城跡がそのまま神域になっている。天守の最上階からは瀬戸内海としまなみ海道が見わたせ、晴れた日は島影が幾重にも重なります。城を出たら、しまなみ海道や来島海峡へ足を伸ばすと、この城が押さえていた海の広さが実感できるでしょう。日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。
- 四国平定・九州平定 ─ 総大将・秀長が輝いた天下統一の総仕上げ
- 長宗我部元親はなぜ「姫若子」から「鬼若子」になったのか
- 豊臣秀長はなぜ四国攻めの総大将に選ばれたのか
- 第36回「姫若子と鬼若子」─ 四国攻めはなぜ二か月で終わったのか
- 十河存保とは何者か ─ 阿波と讃岐を失った三好最後の大将
- 湯築城跡(伊予)─ 石垣も天守もない河野氏の城
- 一宮城(阿波)─ 秀長の本隊が取りついた山城
- 勝瑞城跡(阿波)─ 土塁を持たなかった三好氏の館
- 仏殿城跡(川之江城・伊予)─ 四国の十字路
- 白地城跡(阿波)─ 元親が四国経営の根拠地とした城
- 来島城跡(伊予)─ 潮が守った村上水軍の島
今治藩/松平家3万5千石:松平定法 早くから新政府軍に従い江戸や会津征伐まで参戦した今治藩
今治城の地を治めた今治藩が、幕末をどう生きたかをまとめています。
【現地取材】雨の今治城を歩く ― 本家の松山藩は朝敵に、分家の今治藩は会津へ
運営者が実際に現地を歩いた、写真つきの記録です。
今治城・場所とアクセス
〒794-0036 愛媛県今治市通町3-1-3
