松江城は宍道湖のほとりに建つ現存天守で、黒い下見板に覆われた重厚な姿から千鳥城とも呼ばれます。堀尾吉晴が月山富田城の山を下りて築いた城で、以後、京極氏、松平氏と受け継がれました。長く重要文化財だった天守が国宝に指定されたのは近年のことで、その決め手になったのは一枚の古い札でした。
- 堀尾吉晴が山城を捨て、宍道湖のほとりに築いた出雲の城
- 現存十二天守のひとつで、地下に井戸をもつ唯一の天守
- 祈祷札の再発見で築年が確定し、国宝に指定された
- 廃城令のとき、地元の人々が私財を投じて天守を買い戻した
松江城とは:宍道湖のほとりに開かれた城下町
松江城は島根県松江市殿町、亀田山という小高い丘の上にあります。北に宍道湖、東に中海が広がり、その間を大橋川が結ぶという水に囲まれた土地で、堀にはその水が引き込まれています。城のまわりをめぐる堀は今もほぼ完全な形で残り、船で一周できるのはこの城ならではです。
天守は四重五階、地下一階。外観は黒い下見板に覆われ、装飾の少ない実戦的な姿をしています。屋根に載る千鳥破風が羽を広げた鳥を思わせることから千鳥城と呼ばれてきました。松本城や犬山城と同じく、大きな入母屋の上に望楼を載せる古い形式です。

大手の広場から見る石垣と櫓。城域は堀に囲まれ、いまも水がめぐっています。
堀尾吉晴と、五年の普請
関ヶ原ののち出雲と隠岐を与えられた堀尾吉晴と子の忠氏は、まず月山富田城に入りました。ところが山の上の城では城下を広げられず、政務にも不便です。父子は新しい城地を探し、宍道湖に臨む亀田山を選びました。忠氏が先に世を去ったため、普請を指揮したのは老齢の吉晴です。慶長12年(1607年)に始まった工事は五年ほどで仕上がりました。
なぜ天守は黒いのか|完成を急いだ吉晴
松江城の天守は、壁の大部分が黒い下見板張りで覆われています。白い漆喰の壁は、塗っては乾かすことを何度も繰り返さなければならず、仕上がるまでに長い時間がかかります。これに対して板を張る黒い壁は、はるかに早く仕上げることができました。吉晴が完成を急いだ背景には、跡継ぎと頼んだ忠氏が慶長九年(1604年)に二十八歳の若さで急死したことがあったと考えられています。残されたのは幼い孫の忠晴で、老いた吉晴は、自分が生きているうちに孫のための城を仕上げなければなりませんでした。天守の完成を祈る祈祷札には慶長十六年(1611年)正月の年号が記されていますが、吉晴はその年の六月、城の完成からおよそ半年で世を去ります。黒い天守は、息子を失った父が孫に遺した城でもあったのです。吉晴の生涯は堀尾吉晴:戦に明け暮れた生涯をご覧ください。
ところが堀尾氏は三代で跡継ぎを失って断絶し、次に入った京極忠高も一代で絶えます。三度目に入ったのが、結城秀康の子で徳川家康の孫にあたる松平直政でした。以後、松平家が十代にわたって明治まで松江を治めます。七代の治郷は不昧の号で知られる茶人で、この時期に松江の菓子と茶の文化が育ちました。
国宝になるまでに何があったのか
現存十二天守のうち、国宝に指定されているのは五つです。松江城はそのなかで最も遅く国宝になりました。理由は、天守がいつ建てられたのかを示す確かな証拠が長らく見つからなかったことにあります。

黒い下見板に覆われた天守。屋根に載る千鳥破風が羽を広げた鳥を思わせ、千鳥城の名がつきました。
天守を支える工夫
松江城の天守には、見学するとすぐ気づく特徴がいくつもあります。ひとつは地下に井戸があること。籠城したときに水を得るための備えで、現存する天守のなかではここだけです。もうひとつは柱に板を巻いて金輪で締めた包板という手法で、太い良材が足りないなかで強度を確保するための工夫でした。三百本を超える柱のうち、かなりの数にこの処理がほどこされています。
階と階をつなぐ通し柱の使い方も独特で、二階分ずつを一本の柱で貫き、それを互い違いに積み上げていく構造になっています。長い材を上まで通さずに高さを出せるため、材の調達が楽になります。実際に上ってみると、階段の段差の大きさや床の板の厚みから、この建物が見せるためではなく使うために建てられたことが伝わってきます。

城跡を示す石碑。木立の下に静かに立っています。
取り壊されかけた天守を救った人たち
明治の廃城令によって、松江城の建物も次々と売り払われました。天守も競売にかけられ、解体して材木として売られる寸前まで進みます。これを止めたのが、地元の豪農だった勝部本右衛門と、元藩士の高城権八らでした。私財を投じて天守を買い戻し、保存にこぎつけます。
もし彼らが動かなければ、現存十二天守は十一になっていました。城跡には後年、その働きを伝える碑が建てられています。国宝の指定を伝える知らせが松江に届いたとき、真っ先に喜ばれたのはこの人たちの名だったといいます。
堀をめぐる船と、城下の町
松江城のもうひとつの魅力は、城を守った内堀と外堀がほとんど埋められずに残っていることです。堀尾吉晴が城と城下町を築いたときに掘られたこの堀を、屋根つきの小舟でめぐるのが「ぐるっと松江堀川めぐり」です。約五十分かけて城のまわりを一周し、途中で十七もの橋の下をくぐります。橋のなかには高さの低いものがあり、そのたびに船の屋根が下がって、乗っている人も身をかがめてくぐり抜けます。冬の間はすべての船がこたつ船になり、雪の城を水面から眺める人も少なくありません。
水面から見上げると、陸を歩いているときには気づきにくい城の守りが見えてきます。堀に沿って高い石垣が続き、その上の塀や櫓には、鉄砲を撃つための「鉄砲狭間(てっぽうざま)」と、弓を射るための「矢狭間(やざま)」が並んでいます。丸や三角の小さな穴は外からは狙いにくく、内側からは堀を渡ろうとする敵を狙い撃てるように開けられたものです。狭間だけではありません。塀の内側には板の足場が設けられ、兵はその上に乗って塀の上から上半身を乗り出し、鉄砲や弓で真下の敵を撃つこともできました。堀と石垣と狭間をひと続きの仕組みとして見られるのは、船ならではの楽しみです。
北側の塩見縄手には武家屋敷が残り、松江に暮らした文学者の小泉八雲の旧居と記念館が並んでいます。城と堀と屋敷町がひとつづきに残っている町並みは全国でも数が限られており、城跡だけを見て帰るのはもったいない場所です。
松江城・場所とアクセス
島根県松江市殿町1-5。JR松江駅からバスで十分ほど、県庁前で降りればすぐです。天守は有料で、日本100名城のスタンプは天守内の受付に置かれています。月山富田城跡へは車で四十分ほど、鳥取城や広島城とあわせれば、山陰から山陽への流れをたどれます。出雲大社や足立美術館とも組み合わせやすい立地です。

見上げた天守。最上階には高欄をめぐらせた望楼があり、宍道湖まで見渡せます。
