- 督姫(とくひめ)は、徳川家康の次女です。永禄8年(1565)に生まれ、元和元年(1615)に51歳で亡くなりました。母は側室の西郡局です
- 天正11年(1583)、徳川と北条の和睦の証として、北条氏直に嫁ぎました。家康はこれで北条家と縁を結び、背後を固めます
- 天正18年(1590)の小田原攻めで北条家が降伏すると、氏直は高野山へ送られ、翌年亡くなりました
- その後、督姫は秀吉の仲立ちで池田輝政に再嫁し、姫路城主となった輝政とのあいだに多くの子をもうけました
督姫は、徳川・北条・池田という三つの大名家をつないだ、家康の娘です。徳川と北条の同盟の要となり、北条家の滅亡を見届け、その後は池田家に嫁いで、子どもたちを大名に育てました。『豊臣兄弟!』では、家康と北条氏政の関係が描かれる第40回前後に、名前が出てくるかもしれません。この記事では、督姫の生涯を紹介します。
家康の次女として
督姫は永禄8年(1565)、家康の側室・西郡局の娘として生まれました。西郡局は三河の鵜殿氏の娘とされます。家康の子としては、長男の信康、長女の亀姫に続く子でした(徳川家康の妻たち一覧)。
北条氏直に嫁ぐ ─ 和睦の証
天正10年(1582)、本能寺の変のあと、家康と北条家は甲斐・信濃・上野をめぐって争いました。同じ年に両家は和睦し、その証として督姫が北条氏政の嫡男・氏直に嫁ぐことが決まります。天正11年(1583)8月、督姫は小田原へ輿入れしました。
この縁組で家康は北条家の当主・氏直の舅となり、両家は固い同盟で結ばれました。天正14年(1586)には、家康と氏政が国境の黄瀬川のあたりで会見しています(家康と北条氏政の会見)。

小田原攻め ─ 実家と婚家のはざまで
天正18年(1590)、秀吉が北条家を攻めると、督姫の父・家康は秀吉軍の主力として北条を攻める側に立ちました。督姫にとっては、実家が婚家を攻めるという、つらい戦いでした。家康は北条家に早く降伏するよう働きかけたといわれます。
7月、北条家は降伏します。義父の氏政は切腹を命じられましたが、夫の氏直は家康の娘婿であったことから命を助けられ、高野山へ送られました。督姫も夫に従ったとされます。氏直はのちに許されましたが、翌天正19年(1591)、30歳で亡くなりました(北条氏政とは/小田原征伐)。
池田輝政に再嫁
夫を失った督姫は、文禄3年(1594)、秀吉の仲立ちで池田輝政に再び嫁ぎました。輝政は、信長の重臣・池田恒興の子で、恒興は小牧・長久手の戦いで家康の軍と戦って討ち死にしています。父を家康の軍に討たれた輝政が、その家康の娘を妻に迎えたことになります。
関ヶ原の戦いのあと、輝政は播磨姫路五十二万石の大名となり、いまに残る姫路城の大天守を築きました。督姫は輝政とのあいだに、忠継・忠雄・輝澄らの子をもうけ、子どもたちは岡山や鳥取などの大名となります。家康の娘を母に持つ池田家は「西国の将軍」とも呼ばれるほどの勢いを持ちました。
最期
督姫は元和元年(1615)2月、51歳で亡くなりました。法名は良正院。徳川・北条・池田の三家をつないだ生涯でした。
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よくある質問
Q. 督姫は誰の娘ですか?
A. 徳川家康の次女で、母は側室の西郡局です。
Q. 督姫は誰と結婚したのですか?
A. 最初は北条氏直、氏直の死後は池田輝政に嫁ぎました。
Q. 督姫と北条氏直の結婚はなぜ行われたのですか?
A. 天正10年の徳川と北条の和睦の証として、天正11年に行われました。
Q. 「毒饅頭」の話は本当ですか?
A. 後世の俗説で、確かな史料はありません。
まとめ
督姫は、徳川と北条の和睦の証として北条氏直に嫁ぎ、両家の同盟の要となりました。小田原攻めで北条家が滅びると、夫とともに高野山へ移り、夫の死後は池田輝政に再嫁して、姫路の池田家を支えました。家康の娘として、三つの家をつないだ生涯でした。
参考:『徳川実紀』/『池田家履歴略記』/黒田基樹『北条氏直』ほか
