家康は本当に秀長を暗殺しようとしたのか|天正14年の上洛で命を心配されたのはだれか ─ 大政所の人質、岡崎の薪、秀長の屋敷の夜

秀長の屋敷で対面する家康と秀吉(イラスト)
この記事のポイント
  • 『豊臣兄弟!』第41回「家康の野望」のあらすじでは、上洛した家康が秀長の暗殺をたくらむとされていますが、それを裏づける史料は見当たりません。ドラマの創作と考えられます
  • 史実で命の危険を心配されていたのは、むしろ家康のほうでした。徳川の家臣たちは、大坂へ向かう家康が討たれることを恐れていました
  • そのため秀吉は母の大政所を岡崎へ送り、家康の身の安全を保証しました。家康が秀長を討てば、大坂にいる家康自身と岡崎の大政所の両方が危うくなる関係だったのです
  • 上洛した家康は秀長の屋敷に泊まり、その夜に秀吉が訪ねてきたと伝わります。秀長は、家康を迎える「受け皿」の役でした

家康は秀長を暗殺しようとしたのか。結論からいうと、そうした計画があったことを示す史料はありません。『豊臣兄弟!』第41回「家康の野望」で描かれるという秀長暗殺のくわだては、ドラマの創作と考えてよいでしょう。ただ、天正14年(1586)の家康の上洛が、命がけの駆け引きだったことは確かです。この記事では、だれがだれの命を心配していたのかという視点から、上洛の数日間をたどります(第41回「家康の野望」あらすじ予想と史実)。

郡山城の石垣の上から城下と奈良盆地を見渡す秀長の後ろ姿のイメージ(イラスト)
郡山から大和の国を見わたす秀長のイメージ(イメージイラスト)
目次

■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■

当サイトがデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります

秀吉・秀長グッズを見る ▶

※当サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。

命の危険を心配されていたのは家康だった

小牧・長久手の戦いのあと、秀吉は家康に上洛して臣下の礼をとるよう求め続けました。家康がなかなか応じなかったのは、大坂へ行けばそのまま討たれるかもしれない、という恐れがあったからです。徳川の家臣たちの多くも上洛に反対しました(家康はなぜ秀吉に臣従したのか)。

秀吉は妹の旭姫を家康の正室として送り、さらに天正14年10月、母の大政所を岡崎へ送ります。名目は娘の旭姫に会うためでしたが、実際には家康の身の安全を保証する人質でした。大政所が岡崎に入るのと入れ替わるように、家康は大坂へ向かいました(大政所(なか)とは)。

岡崎の薪 ─ 徳川方の「もしも」の備え

岡崎で大政所の宿所を預かった本多作左衛門重次は、宿所のまわりに薪を積み上げたと伝わります。もし大坂で家康の身に何かあれば、すぐに火をかけるという構えです。この話がどこまで本当かはわかりませんが、徳川方が「主君が討たれたら」という場面を本気で想定していたことをよく表しています(本多作左衛門はなぜ大政所の宿所に薪を積んだのか)。

つまりこの上洛は、大坂の家康と岡崎の大政所が、互いの命を担保にしあう形で成り立っていました。家康が大坂で秀長に手を出せば、家康自身の命も、岡崎の大政所の命も危うくなります。家康の側から暗殺をたくらむ理由は、まず見当たりません。

▽ よく語られる話
家康は、上洛の機会に豊臣家の要である秀長を除こうと考えていた。
▼ 史実ではこうです
秀長暗殺の計画を伝える史料はありません。家康が大坂に着いたのは天正14年10月26日、わずかな日数の滞在で、そのあいだ泊まったのは秀長の屋敷でした。もし手を出せば、家康は敵の本拠のまん中で孤立します。家康がこの上洛で選んだのは、秀吉に頭を下げて臣下となる道でした。

秀長の屋敷の夜に何があったのか

大坂に着いた家康は、秀長の屋敷に入りました。その夜、秀吉がひそかに訪ねてきて、翌日の対面での振る舞いを頼んだという話が伝わります。翌27日、家康は大坂城で秀吉に対面し、諸大名の前で臣従の礼をとりました(家康はなぜ秀長の屋敷に泊まったのか)。

秀長の屋敷が宿所に選ばれたのは、秀長が家康を迎える「受け皿」だったからだと考えられます。秀吉の弟であり、豊臣家の内側で取次を担う秀長の屋敷なら、家康にとっても、豊臣家にとっても、いちばん角の立たない場所でした。家康が秀吉の陣羽織を所望したという有名な場面も、この対面のときの話として伝わります(家康はなぜ秀吉の陣羽織を所望したのか)。

では、家康の「野望」はどこにあったのか

家康がこのとき天下をあきらめたのかといえば、そうとも言えません。臣従の見返りに、家康は正三位権中納言という高い官位と、東国の取りまとめ役という立場を得ます。北条家や真田家との問題を抱えていた家康にとって、秀吉の後ろ盾を得ることには大きな利点がありました(臣従した家康は何を得たのか)。

家康の「野望」は、秀長の命を狙うことではなく、豊臣政権の中で力をたくわえることだった、と見るのが自然でしょう。秀長が天正19年に亡くなり、秀吉もこの世を去ったあと、家康は少しずつ天下に近づいていきます。秀長が長生きしていたら何が変わったのかは、もし豊臣秀長があと十年生きていたらで考えています。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第41回「家康の野望」は10月25日(日)放送予定です。伝えられているあらすじでは、秀長(仲野太賀)が接待の場で家康(松下洸平)に胸の内を語り、豊臣と手を取り合うべきか見極めてほしいと告げる一方で、家康はこの機に秀長の暗殺をたくらんでいるとされます。史実にない場面をどう落着させるのか注目です。放送後にこの枠を更新します。
▶ 第41回「家康の野望」をもっと知る

あわせて読みたい:「家康の野望」とは何か?第41回のタイトルを4つの候補から予想する

よくある質問

Q. 家康が秀長を暗殺しようとした話は史実ですか?
A. 史料には見当たらず、ドラマの創作と考えられます。

Q. 家康はいつ上洛したのですか?
A. 天正14年(1586)10月26日に大坂に着き、27日に大坂城で秀吉に対面しました。

Q. 上洛した家康はどこに泊まったのですか?
A. 秀長の屋敷に泊まったと伝わります。その夜に秀吉が訪ねてきたという話があります。

Q. なぜ大政所が岡崎へ送られたのですか?
A. 上洛する家康の身の安全を保証する人質としてです。名目は娘の旭姫に会うためでした。

まとめ

家康が秀長を暗殺しようとした史料はなく、第41回の暗殺のくわだてはドラマの創作と考えられます。史実の上洛では、命を心配されていたのはむしろ家康で、秀吉は母の大政所を岡崎へ送ってその身を保証しました。大坂の家康と岡崎の大政所が互いの命を担保にする中で、家康は秀長の屋敷に泊まり、大坂城で臣従の礼をとります。家康の「野望」は、刃ではなく、豊臣政権の中で時を待つことに向けられていたのです。

参考:『家忠日記』/『徳川実紀』/柴裕之『徳川家康』平凡社/黒田基樹『羽柴秀長の生涯』平凡社新書

  • URLをコピーしました!
目次