- 家康は秀吉より五つ下、秀長より二つ下です。あさひ(旭姫)が嫁いだ天正十四年の時点で、秀吉は数えで五十、秀長は四十七、家康は四十五でした
- 秀長は天正十九年に五十二で、秀吉は慶長三年に六十二で世を去ります。家康はそこからさらに十八年生きて、七十五で没しました
- 家康が年齢差を計算したうえで頭を下げたことを示す同時代の史料はありません。ただ結果として、年回りは家康の側に味方しました
- 第四十回の予告で家康がつぶやく「秀吉と秀長……今すぐ死んでくれんかのう」は、この五つと二つの差を踏まえた一言として受け取れます
徳川家康は、羽柴秀吉より五つ、羽柴秀長より二つ年下です。あさひ(旭姫)が浜松へ嫁いだ天正十四年、秀吉は数えで五十、秀長は四十七、家康は四十五でした。戦の強さでも知略でもない、ただの年回りです。しかしこの差は、最後にはっきりとものを言いました。秀長は五年後に、秀吉は十二年後に世を去り、家康は秀吉の死からさらに十八年を生きます。ここでは三人の生没年と、節目ごとの年齢を並べて、何が起きたのかを追ってみます。

三人はいつ生まれ、いつ死んだのか
秀吉と秀長は尾張中村の同じ家に生まれた兄弟で、年の差は三つです。家康は三河岡崎の松平家の嫡男として生まれ、秀長よりさらに二つ下になります。生まれも育ちもまるでちがう三人ですが、没した順番は、生まれた順番とは一致しませんでした。
| 生まれ | 没した日 | 享年 | |
|---|---|---|---|
| 羽柴秀吉 | 天文六年(一五三七) | 慶長三年八月十八日 | 六十二 |
| 羽柴秀長 | 天文九年(一五四〇) | 天正十九年正月二十二日 | 五十二 |
| 徳川家康 | 天文十一年十二月二十六日(一五四二) | 元和二年四月十七日 | 七十五 |
秀吉の生年には天文五年とする説も、秀長の生年には天文三年とする説もあって、どちらも確定しているわけではありません。ただ、通説どおりに並べれば、兄弟のあいだは三つ、秀長と家康のあいだは二つ、秀吉と家康のあいだは五つです。秀吉の死後に天下がどう動いたのかは、秀吉の死後、なぜ天下は家康に傾いたのかでくわしく追っています。
節目ごとに三人は何歳だったのか
年齢を並べてみると、三人の関係がどの時点でどう傾いていたのかが見えてきます。以下はいずれも数え年です。
| できごと | 年 | 秀吉 | 秀長 | 家康 |
|---|---|---|---|---|
| 本能寺の変 | 天正十年 | 四十六 | 四十三 | 四十一 |
| 小牧・長久手の戦い | 天正十二年 | 四十八 | 四十五 | 四十三 |
| 石川数正の出奔と天正地震 | 天正十三年 | 四十九 | 四十六 | 四十四 |
| あさひの輿入れ、家康の上洛 | 天正十四年 | 五十 | 四十七 | 四十五 |
| 秀長の死 | 天正十九年 | 五十五 | 五十二(没) | 五十 |
| 秀吉の死 | 慶長三年 | 六十二(没) | ─ | 五十七 |
| 関ヶ原の戦い | 慶長五年 | ─ | ─ | 五十九 |
| 征夷大将軍 | 慶長八年 | ─ | ─ | 六十二 |
| 家康の死 | 元和二年 | ─ | ─ | 七十五 |
あさひが嫁いだ天正十四年の時点では、五十と四十五ですから、差はたいして大きく見えません。けれども秀吉が将軍にあたる地位で天下を押さえていられたのは、ここから十二年です。家康が征夷大将軍になったのは六十二のときで、これはちょうど秀吉が死んだ歳と同じでした。つまり家康は、秀吉が死んだ歳になってようやく、秀吉が握っていたものを自分の手に移したことになります。この年の家康の動きは第四十回「あさひの輿入れ」あらすじ予想と史実でも触れています。
あさひと家康は何歳ちがいだったのか
ここでもう一人、あさひ(旭姫)を並べてみます。旭は天文十二年の生まれで、家康より一つ下です。輿入れの天正十四年には、家康が四十五、旭が四十四でした。
「四十四歳の花嫁」と聞くと、ずいぶん年の離れた相手のもとへ送られたように思えますが、実際はほとんど同い年の夫婦です。むしろ不釣り合いだったのは年齢ではなく、嫁ぐために前の夫と別れさせられたという事情のほうでした。旭の一生は旭姫(朝日姫)の生涯にまとめています。
年の釣り合いが取れていたのには理由があります。秀吉には娘がいませんでした。若い姫を送って縁を結ぶという、戦国でいちばんよく使われた手が使えなかったのです。差し出せる身内は妹か母しかなく、その妹がたまたま家康と同年代だった。旭姫と大政所:秀吉はなぜ妹と母を差し出したのかで書いたとおり、豊臣の人質外交は選択肢の少なさのうえに成り立っていました。
旭は天正十八年正月に四十八で世を去ります。家康はそこからさらに二十六年を生きました。
秀長が先に逝ったことの重さ
この表でいちばん目を引くのは、秀長の行です。秀長は秀吉より三つ下に生まれながら、七年早く死にました。享年五十二。大和・紀伊・和泉を預かり、九州攻めでは総大将を務め、諸大名の取り次ぎを一手に引き受けていた人が、天正十九年の正月に世を去ります。家康はこのとき五十でした。
家康が上洛して秀吉に頭を下げた天正十四年、その前夜に家康が泊まったのは秀長の屋敷でした。豊臣と徳川のあいだを取り持っていたのは、ほかでもない秀長です。その秀長が最初にいなくなったことは、豊臣家にとっては柱を一本抜かれたようなものでした。このあたりの経緯は家康はなぜ秀長の屋敷に泊まったのかにまとめています。
秀長が死んだあと、豊臣家では鶴松の死、秀次の自刃、朝鮮への出兵と、家中を揺らす出来事が続きます。秀吉の晩年から関ヶ原までの流れは史実ではこの後どうなる?第三十八回以降の年表で追えます。
家康は年齢差を計算していたのか
ここは慎重に書いておきたいところです。家康が「自分のほうが若いのだから待てばよい」と考えていたことを直接示す同時代の史料は、見あたりません。書状にも日記にも、そうした打ち明け話は残っていません。年齢差が効いたというのは、結果を知っている私たちが後から言えることです。
ただし、当時の人にも見えていたことはあります。天正十四年の時点で、五十になる秀吉には跡を継ぐ実子がいませんでした。第三十九回で秀長が茶々をめとるよう勧めるのも、そこに理由があります。豊臣家の先行きが人ひとりの命にかかっていることは、秀吉自身がいちばんよく分かっていたはずです。寧々(北政所)はなぜ茶々の側室入りを認めたのかでも触れたとおり、この問題は家中の誰もが見ないふりをできないところまで来ていました。
「待った」のではなく「生き延びた」
年齢差の話は、ともすると家康がはじめから長生きを当て込んで動いていたかのように聞こえます。しかし家康の側から見れば、生き延びること自体がまったく当たり前ではありませんでした。三十一のときには三方ヶ原で武田信玄に大敗し、身代わりに討たれた家臣のおかげで浜松城へ逃げ帰っています。あのとき討たれていれば、年齢差もなにもありません。くわしくは三方ヶ原の戦いとはをご覧ください。
秀吉に頭を下げた天正十四年以降も、家康は小田原攻めに従い、関東へ移され、朝鮮への出兵では渡海こそしなかったものの名護屋に詰めています。そのあいだ、豊臣家に背く機会をうかがっていた様子はありません。家康はなぜ秀吉に臣従したのかでも書いたとおり、家康がしたのは逆らうことではなく、豊臣の秩序のなかで生き残り、位と領地を積み上げることでした。結果として、その積み上げが秀吉の死後にものを言います。

第三十九回の放送後に流れた次回予告では、家康(松下洸平)が「秀吉と秀長……今すぐ死んでくれんかのう」とつぶやく場面がありました。第四十回「あさひの輿入れ」は十月十八日(日)の放送です。
和睦を受け入れる側に回りながら、腹の底ではまるで納得していない。この一言は、相手より年下の者がこぼした本音として見ると、すっと腑に落ちます。そして史実では、家康のその願いは言葉どおりに叶うことになります。
よくある疑問
Q. 徳川家康と豊臣秀吉は何歳ちがいますか?
A. 五つちがいです。秀吉が天文六年、家康が天文十一年の生まれで、家康のほうが年下です。
Q. 家康と豊臣秀長は何歳ちがいますか?
A. 二つちがいです。秀長は天文九年の生まれで、こちらも家康が年下になります。
Q. 秀吉が死んだとき、家康は何歳でしたか?
A. 数えで五十七です。秀吉は慶長三年八月十八日に六十二で没しました。
Q. 家康は何歳で征夷大将軍になりましたか?
A. 六十二です。秀吉が死んだ歳とちょうど同じでした。
Q. 家康とあさひ(旭姫)は何歳ちがいますか?
A. 一つちがいです。家康が天文十一年、旭が天文十二年の生まれで、輿入れの天正十四年には四十五と四十四でした。ほぼ同い年の夫婦です。
Q. 三人のなかでいちばん早く死んだのは誰ですか?
A. 秀長です。秀吉より三つ下に生まれながら、七年早く、天正十九年に五十二で世を去りました。
まとめ
家康は秀吉より五つ、秀長より二つ年下でした。あさひが嫁いだ天正十四年には五十・四十七・四十五と並び、差はさほど目立ちません。しかし秀長は五年後に、秀吉は十二年後に没し、家康はそこからさらに十八年を生きて七十五で世を去ります。家康が将軍の宣下を受けたのは六十二、秀吉が死んだ歳と同じでした。年齢差そのものは誰にも動かせない条件ですが、頭を下げてでも生き残るという選び方と組み合わさったとき、それはいちばん効く武器になりました。

