日本二十六聖人とは|バテレン追放令から9年後、なぜ長崎で26人が処刑されたのか ─ サン・フェリペ号事件、12歳の少年、西坂の丘

冬の長崎の港を見おろす丘に十字架が並び、人びとが祈るイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 日本二十六聖人とは、慶長元年12月19日(1597年2月5日)、秀吉の命令で長崎の西坂の丘で処刑された26人のキリスト教徒のことです
  • きっかけは、前の年に土佐に流れ着いたスペイン船サン・フェリペ号の事件でした。秀吉は京と大坂でフランシスコ会の宣教師と信者を捕らえさせました
  • 26人のうち外国人は6人、日本人が20人でした。いちばん若いルドビコ茨木は12歳でした
  • 天正15年のバテレン追放令では処刑者は出ていません。秀吉の時代にキリスト教徒が命を奪われたのは、この二十六聖人が初めてでした

バテレン追放令を調べていくと、「追放令では誰も処刑されなかった」という事実に行きあたります。では、秀吉の時代にキリスト教徒の血が流れたのはいつだったのか。それが、追放令から9年後の慶長元年(1596)に起きた、日本二十六聖人の殉教です。この記事では、なぜ9年後にこの事件が起きたのか、処刑された26人はどんな人たちだったのかをたどります(バテレン追放令で追放・処罰されたのは誰か)。

冬の長崎の港を見おろす丘に十字架が並び、人びとが祈るイメージ(イラスト)
長崎の港を見おろす丘で祈る人びとのイメージ(イラスト)
目次

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始まりは土佐に流れ着いた船

慶長元年(1596)の秋、フィリピンからメキシコへ向かっていたスペインの大型船サン・フェリペ号が、嵐にあって土佐の浦戸に流れ着きました。積み荷は秀吉の奉行の増田長盛によって取り上げられます。

このとき、船の乗組員が「スペインはまず宣教師を送りこみ、そのあとで国を奪う」という意味のことを口にしたと伝わります。この話がどこまで本当かはわかりません。ただ、これが秀吉の耳に入り、宣教師への疑いを一気に強めたといわれています。

港町の南蛮寺の前で宣教師と語らうキリシタン大名たちのイメージイラスト
宣教師たちが布教していた南蛮寺のイメージ(イラスト)

京と大坂での逮捕

12月、秀吉は京と大坂にいたフランシスコ会の宣教師と、その信者たちを捕らえるよう命じました。フランシスコ会は、イエズス会よりあとにフィリピンから来た修道会で、追放令などおかまいなしに、京で目立った布教を続けていました。

捕らえられた人びとは、京の町を引き回されたあと、冬の道を歩いて長崎へ送られました。その途中で、彼らを世話していた信者2人も加わり、26人となります。

日付(慶長元年) できごと
8月ごろ サン・フェリペ号が土佐に流れ着く
12月 秀吉、京と大坂でフランシスコ会の宣教師と信者を捕らえさせる
12月〜 京の町で引き回され、長崎へ送られる。途中で2人が加わり26人に
12月19日(1597年2月5日) 長崎の西坂の丘で処刑される

26人はどんな人たちだったのか

26人のうち、外国人はフランシスコ会のスペイン人宣教師ら6人、残る20人は日本人でした。日本人の中には、イエズス会の修道士パウロ三木のように説教にすぐれた人もいれば、大工や医師、少年たちもいました。いちばん若いルドビコ茨木は、わずか12歳でした。

区分 人数 主な人物
フランシスコ会の外国人宣教師など 6人 ペドロ・バウティスタ(一行の長)
イエズス会の日本人修道士ら 3人 パウロ三木
日本人の信者 17人 ルドビコ茨木(12歳)、アントニオ(13歳)、トマス小崎(14歳)ほか
岬の先に教会と町ができはじめた長崎の港を、高台から武将と宣教師が見おろすイメージ(イラスト)
キリスト教の町として育った長崎の港のイメージ(イラスト)

西坂の丘 ─ 長崎を見おろす場所

処刑の場に選ばれたのは、長崎の港を見おろす西坂の丘でした。イエズス会の町として栄えた長崎の、すぐ目の前です。大勢の信者が見守るなかで、26人は十字架にかけられました。

なぜ長崎だったのか。キリスト教の中心地でみせしめにすることで、信者たちに秀吉の力を示そうとしたのだと考えられます。秀吉が天正15年に長崎を直轄地にしていたことも、この処刑を可能にしました。

▽ よく語られる話
秀吉はバテレン追放令のころから、キリシタンを次々と処刑していた。
▼ 史実ではこうです
天正15年の追放令では処刑者は出ていません。秀吉の時代にキリスト教徒が処刑されたのは、9年後の二十六聖人の殉教が初めてでした。そのきっかけも、サン・フェリペ号の事件という、追放令とは別のできごとでした。

なぜ9年もあいだがあいたのか

追放令から二十六聖人まで、9年の空白があります。そのあいだ、秀吉は南蛮貿易の利益を手放したくありませんでした。ポルトガルの商人たちとの取引は、宣教師の仲立ちで成り立っていた面があり、宣教師を厳しく取りしまれば貿易にもひびきます。

ところが、サン・フェリペ号の事件で、宣教師の背後にスペインの国の力があるという疑いが一気に現実味を帯びました。目立った布教を続けていたフランシスコ会がまず狙われたのも、そのためでしょう。貿易の利益よりも、国を奪われる恐れが上回った瞬間だったのです(コエリョとは)。

✎ 筆者の考え
筆者が胸をつかれるのは、12歳の少年ルドビコ茨木が、命を助けてやろうという役人の申し出を断ったと伝わることです。この話がどこまで正確かはわかりません。ただ、追放令から9年、宣教師だけでなく、ふつうの町の人びとや子どもたちの心にまで信仰が根を張っていたことを、二十六聖人の顔ぶれは物語っています。

その後 ─ 聖人として

26人は、文久2年(1862)にローマ教皇によって聖人に列せられました。昭和37年(1962)には、処刑の地である西坂の丘に日本二十六聖人記念碑と記念館が建てられ、いまも多くの人が訪れています。

江戸時代に入ると、禁教はさらに厳しくなり、多くのキリスト教徒が命を落とします。二十六聖人の殉教は、その長い迫害の始まりでもありました(慶長の禁教令とは)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』は秀長の死までを描く予定のため、慶長元年の二十六聖人の殉教はドラマの範囲外となりそうです。第42回「北野大茶湯」(11月1日放送予定)では、キリシタン追放令に恨みを抱く者による刃傷沙汰が描かれるようです。追放令からその後へと続く流れを知っておくと、ドラマの場面がより深く見えてくるはずです。

よくある質問

Q. 二十六聖人はいつ処刑されましたか?
A. 慶長元年12月19日、西暦1597年2月5日です。

Q. どこで処刑されましたか?
A. 長崎の西坂の丘です。いまは記念碑と記念館があります。

Q. なぜ処刑されたのですか?
A. サン・フェリペ号の事件をきっかけに、秀吉が宣教師への疑いを強めたためと考えられます。

Q. 最年少はだれですか?
A. 12歳のルドビコ茨木です。

まとめ

日本二十六聖人は、慶長元年に長崎の西坂の丘で処刑された26人のキリスト教徒です。サン・フェリペ号の事件をきっかけに、秀吉は京と大坂でフランシスコ会の宣教師と信者を捕らえ、長崎で処刑しました。追放令では一人も出なかった犠牲者が、9年後に出たのです。

参考:松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』中公文庫/結城了悟『日本二十六聖人』/日本二十六聖人記念館 案内

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