- 第40回「あさひの輿入れ」は10月18日(日)放送の予定です。徳川との決戦の直前に大地震が起き、家康は秀吉の妹・あさひの輿入れを和睦の条件に持ち出します
- 史実の天正地震は天正13年(1585)11月29日の夜に起きました。秀吉は正月に予定していた家康攻めを取りやめます
- 旭(あさひ)が浜松で家康に嫁いだのは天正14年(1586)5月で、このとき44歳でした。夫と離縁させての輿入れだったと伝わります
- ドラマでは家康が輿入れを求めますが、一般には秀吉の側から持ちかけた縁組とされています。その違いもあわせて見ていきます
伝えられているあらすじによると、第40回は徳川との決戦が目前に迫ったところで、大地震が起きるところから始まります。戦どころではなくなった豊臣方に対して、家康(松下洸平)は秀吉の妹・あさひ(倉沢杏菜)を自分に嫁がせることを和睦の条件として突きつけ、秀吉と秀長はぎりぎりの選択を迫られます。妹の暮らしを壊すのか、天下のための縁組を選ぶのか。兄弟ふたりが「身内」をどう扱うかが問われる回になりそうです。
放送後、この枠を「大河ドラマではこう描かれました」に差し替えます。
第39回で石川数正が徳川家を去り、豊臣と徳川の関係は一気に張りつめます。それを一夜で変えてしまったのが、天正13年の暮れに中部から近畿を襲った大地震でした。秀吉は武力で家康を従わせる道をいったん閉じ、代わりに差し出したのが、四十を過ぎた実の妹です。第40回は、豊臣家の天下取りが「戦」から「縁組」へと切り替わる転換点を描く回になりそうです。

この回の舞台で実際に起きたこと
天正13年(1585)11月29日の夜、のちに天正地震と呼ばれる大地震が起きました。被害は飛騨・美濃・尾張・近江・伊勢から畿内にまで及び、飛騨では内ヶ島氏の帰雲城が山崩れに呑まれて一族ごと消え、近江の長浜城も倒れて、城主の山内一豊は幼い娘を失ったと伝わります。そして家康攻めの前線になるはずだった美濃の大垣城も倒れ、蓄えていた兵糧も失われたとされます。
秀吉はこの直前、翌年の正月に家康を攻めるつもりで準備を進めていて、家臣にあてた書状にもその意図が見えます。しかし前線の城と兵糧、そして近畿一円の領国が大きく傷んだことで、出陣は取りやめになりました。年が明けた天正14年の正月、織田信雄が岡崎で家康と会い、両者の和睦を取り持ちます。旭の輿入れは、その和睦を形にするためのものでした。
補助線①:天正地震はなぜ家康を救ったのか
小牧・長久手の戦いのあと、秀吉は家康を外交で包囲しつつ、最後は武力で決着をつける構えを崩していませんでした。その足場がそっくり揺さぶられたのが天正地震です。もし地震がなく、正月に家康攻めが始まっていたら、徳川家は数正の出奔で手の内を知られたまま大軍を迎えることになっていました。「徳川の天下は一夜の地震から始まった」とも言えるこの出来事は、天正大地震とは:帰雲城が消えた夜と、秀吉が家康攻めを断念した理由で詳しく追っています。

補助線②:旭とはどんな女性だったのか
旭は天文12年(1543)ごろの生まれで、秀吉の妹です。父は竹阿弥とされ、秀長と同じ父母をもつ妹だったとも言われます。もとは尾張の百姓の娘で、秀吉が出世する前に、身分の高くない武士に嫁いでいました。この前夫については佐治日向守とも副田甚兵衛ともいわれ、はっきりしません。家康との縁組のために前夫と離縁させられたと伝わり、前夫が自ら命を絶ったという話もありますが、こちらは裏付けのない話です。
天正14年5月14日、旭は浜松城で家康と婚礼をあげました。家康は45歳、旭は44歳です。家康の正室だった築山殿は天正7年に亡くなっていて、旭は正室の座に迎えられ、駿府に移ってからは「駿河御前」と呼ばれました。
補助線③:秀吉はなぜ身内を差し出したのか
名家の出ではない秀吉には、大名と結ぶための娘や姉妹がほとんどいませんでした。だからこそ、少ない身内をここぞという場面で使うことになります。旭の輿入れでも家康は動かず、秀吉は半年後に母の大政所までも岡崎へ送ることになります。血縁の乏しさを交渉のカードに変えた秀吉のやり方は、旭姫と大政所:秀吉はなぜ妹と母を差し出したのかで整理しています。ドラマで秀長が兄の決断にどう向き合うのかは、この兄弟の関係を考えるうえで大きな見どころになりそうです。
補助線④:旭のその後
家康の正室となった旭ですが、夫婦として過ごした時間は長くありませんでした。天正16年(1588)に母の病を見舞うため上洛し、そのまま京にとどまり、天正18年(1590)1月14日に聚楽第で亡くなります。48歳でした。墓は京都・東福寺の南明院にあり、駿府にも供養の寺が残ります。兄の天下のために嫁ぎ、その天下の完成を見ないまま世を去った人生でした。
次回以降に効いてくること
第41回「家康の野望」では、秀吉がついに実の母を人質として岡崎へ送り、家康が上洛します。大坂に着いた家康が泊まったのは秀長の屋敷で、その夜に秀吉が自ら訪ねてきたと伝わります。秀長がこの対面の舞台を用意したことが、兄弟の物語のなかでどう描かれるのかが見どころです。
浜松城の現在の姿は浜松城で、地震で被害を受けた大垣城は大垣城で紹介しています。
よくある疑問
Q. 第40回はいつ放送ですか?
A. 十月十八日(日)の予定です。
Q. 「あさひ」と「旭姫」は同じ人ですか?
A. 同じ人物です。後世には「旭姫」と呼ばれることが多く、名を「朝日」と書く史料もあります。
Q. 旭は家康に嫁いだとき何歳でしたか?
A. 天文12年ごろの生まれとすると、天正14年の婚礼のときは44歳です。
Q. 天正地震はどのくらいの規模でしたか?
A. 震源や規模には諸説あり、いくつもの断層が続けて動いたとする見方もあります。被害は中部から近畿の広い範囲に及びました。
▶ 第1回からの放送回を一覧で見る:豊臣兄弟!全話一覧(サブタイトル・放送日・史実の舞台)
まとめ
第40回「あさひの輿入れ」は、天正地震で家康攻めが消え、秀吉が妹を家康に嫁がせることで和睦を形にする回になりそうです。史実の旭は44歳で前夫と離縁して浜松へ嫁ぎ、正室として迎えられながら、わずか四年で京に没しました。ドラマでは家康が輿入れを求める形になりますが、身内を差し出してでも家康を上洛させたかったのは、むしろ秀吉の側だったと考えられます。放送後、ドラマでどう描かれたかをこの記事に追記します。
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