- 天正地震が起きた天正13年11月29日の夜、秀吉は近江の坂本城(滋賀県大津市)にいたと伝わります。家康攻めの前線基地・大垣城を見回った帰りでした
- 宣教師ルイス・フロイスは、秀吉が「手がけていたいっさいを放棄し、馬を乗り継いで」大坂へ逃げ帰ったと記しています
- 大坂城は倒れなかったものの余震が続き、秀吉は家康攻めをあきらめて、翌年の和睦へと方針を切り替えました
- ドラマでは秀吉が残った兵糧を民に分け与える場面があるようですが、史実でそうした記録は確認できません
『豊臣兄弟!』第40回では、大地震のあと、秀吉が大坂城の天守に一人座り込み、駆けつけた秀長と無事を確かめ合う場面が描かれるようです。では史実の秀吉は、天正地震のときどこにいて、何をしたのでしょうか。被害を受けた城の一覧は天正地震で壊れた城一覧にまとめています。
地震の夜、秀吉は坂本城にいた
天正13年(1585)の秋、秀吉は家康を攻める準備を進めていました。11月には美濃の大垣城に兵糧蔵を建てて米を蓄えさせ、自らも大垣城の様子を見に出かけています。その帰り、秀吉は琵琶湖のほとりの坂本城に立ち寄りました。坂本城は、かつて明智光秀が築いた城です。
11月29日の夜、その坂本城で、秀吉は大地震に遭いました。

「飛ぶように大坂へ」 ─ フロイスの記録
宣教師ルイス・フロイスの『日本史』は、このときの秀吉の様子を、手がけていたいっさいを放り出し、馬を乗り継いで、飛ぶように大坂へ逃げ帰ったと伝えています。天下人の秀吉も、この地震には大きな恐怖を感じたのでしょう。
大坂城は大きく揺れましたが、倒れることはありませんでした。ただ余震が続いたため、秀吉は妻たちとともに建物の外で過ごしたとも伝わります。

兵糧を民に分け与えたのか
ドラマでは、秀吉が残った兵糧を民に分け与えるよう命じる場面が描かれるようです。しかし、史実で秀吉が天正地震のあと被災した民に兵糧を配ったという記録は、確認できません。家康攻めのために大垣城に蓄えた兵糧は、地震で城が全壊し、火事で焼けてしまったと伝わります。
ここからは筆者の見方です。ドラマの兵糧の場面は、地震を前にして「戦より民」を選ぶ秀吉の決断を、目に見える形で示すための演出でしょう。史実でも、地震の被害が家康攻めの中止につながったことは確かで、「戦をやめる」という判断そのものは、ドラマと史実で重なっています。
家康攻めの中止と和睦
秀吉は、天正13年11月19日付で真田昌幸に送った書状で、翌年正月15日に三河へ出陣して家康を成敗すると伝えていました。その計画は、地震で根本から崩れます(秀吉の家康攻め計画)。
年が明けた天正14年正月、織田信雄が家康と会って和睦を勧め、秀吉も和睦に応じる方針に転じました。そして5月、秀吉の妹・旭姫が家康に嫁ぎます(旭姫の縁組は家康が求めたのか、秀吉が申し出たのか)。
秀吉と地震 ─ 10年後の慶長伏見地震
秀吉が大地震に遭ったのは、これが最後ではありません。慶長元年(1596)閏7月、京都の伏見を中心に大地震が起き、秀吉が築いたばかりの伏見城の天守が倒れました。このとき、謹慎中だった加藤清正が真っ先に秀吉のもとへ駆けつけた、という「地震加藤」の話が伝わります(伏見桃山城)。
秀吉は伏見城を築く際に、京都所司代の前田玄以にあてて「伏見の普請は、なまず(地震)に気をつけるように」という趣旨の書状を送っています。天正地震の恐ろしさを、秀吉は忘れていなかったのでしょう。
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よくある質問
Q. 天正地震のとき秀吉はどこにいたのですか?
A. 近江の坂本城にいたと伝わります。大垣城を見回った帰りでした。
Q. 秀吉は地震のあと何をしたのですか?
A. 馬を乗り継いで大坂へ逃げ帰り、のちに家康攻めをあきらめて和睦に転じました。
Q. 秀吉が兵糧を民に分け与えたのは史実ですか?
A. 記録では確認できません。ドラマの演出と考えられます。
まとめ
天正地震の夜、秀吉は大垣城を見回った帰りに坂本城にいて、そこから大坂へ逃げ帰ったと伝わります。家康攻めの前線は大きな被害を受け、秀吉は戦をやめて和睦へと舵を切りました。ドラマの大坂城の場面や兵糧の配分は演出と考えられますが、「地震が秀吉に戦をやめさせた」という流れは史実と重なっています。
参考:ルイス・フロイス『日本史』/『兼見卿記』/寒川旭『秀吉を襲った大地震』平凡社新書
