豊臣家は本当に里芋が好きだったのか|秀吉の好物の記録と、「頭になる」頭芋の縁起 ─ 芋がら縄は戦国の知恵か後世の脚色か

農家の土間で母なかを囲む、とも・藤吉郎・小一郎・旭の四人きょうだいのイメージ(イラスト)

大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、里芋が兄妹をつなぐ食べ物として出てきます。第40回で浜松に嫁いだあさひが家康に「ただの里芋がいちばん」と言い、第41回では母の大政所が息子たちに「あんたらが好きな里芋」を出しました。では、豊臣家は本当に里芋が好きだったのか。結論から言うと、秀吉の好物が里芋だったと示す確かな記録は見当たりません。ただし尾張の農民の家の味として里芋を置くことは、史実から外れていません。そして里芋には、戦国の武士にとって別の意味もありました。

※この記事の絵は、いずれも当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

この記事のポイント
  • 秀吉の好物が里芋だったとする確かな記録は見当たりません。ドラマの演出です
  • ただし里芋は農民の常食でした。尾張中村の農家から出た一族の味として置くのは、史実に反しません
  • 里芋の親芋は「頭芋(かしらいも)」と呼ばれ、人の上に立つ「頭」になるようにという縁起物でした。京都では「殿芋」とも呼ばれます
  • 京都では元旦の雑煮に、白味噌仕立てで拳ほどの頭芋を丸ごと一個入れる風習が古くからあります
  • 戦国の携帯食として知られる「芋がら縄」は、里芋の茎を縄にしたものです。ただし出典は江戸時代の『雑兵物語』で、戦国同時代の記録ではありません
  • 「味噌で煮て」「腰に巻いて持ち歩く」という有名な説明は、出典にない後世の補足とみられます
金地の襖の奥御殿で、上座に並んで座る老女と中年の女性、かしこまる女房たち(イメージイラスト)
豊臣家の奥御殿のイメージ(イメージイラスト)
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秀吉の好物が里芋だったという記録はあるのか

まず結論です。秀吉の好物として里芋を挙げる、確かな同時代の記録は見当たりません。秀吉の食事については、天下人になってからも質素なものを好んだという話が伝わりますが、具体的に何が好きだったのかを確かめられる史料は多くありません。

つまりドラマの里芋は、記録に基づく再現ではなく、人物像を示すための演出です。ただしこれは「でたらめ」とは違います。里芋は当時の農民の常食で、米より手がかからず、畑の隅でも育ちます。尾張中村の農家に生まれた一族の食卓に里芋があったとしても、何の不自然もありません。記録がないだけで、外してもいないという位置づけになります。

ドラマで里芋が果たしている役目

第40回で、浜松に嫁いだあさひは家康から「浜松にはうまいものがたくさんある」と言われ、「ただの里芋がいちばん」と答えました。44歳で政略のために嫁いだ女性が、自分の育ちを名乗った場面です(豊臣兄弟!第40回「あさひの輿入れ」史実解説)。

そして第41回では、人質の話を切り出しに来た息子たちに、母の大政所が里芋を出します。関白と大納言になった息子が、母の前では芋を食べる子に戻る。離れた場所にいる兄妹と母が、同じものを食べているという形です。里芋は、豊臣家がどこから来たのかを一皿で示す道具として使われています。

里芋は「頭になる」縁起物だった

ここからが、武士にとっての里芋です。里芋は小芋がたくさん付きますが、その中心にある大きな親芋を頭芋(かしらいも)と呼びます。京都では殿芋(とのいも)とも呼ばれました。

この頭芋が、縁起物でした。人の上に立つ「頭」になるようにという願いを込めて食べられたのです。しかも芽が出た状態の芋なので、「芽が出るように」という願いも重ねられました。京都では古くから、元旦の雑煮に白味噌仕立てで拳ほどの頭芋を丸ごと一個入れる風習があります。その芋を食べ切らないと、おせちに手を出せなかったといいます。

百姓の子から天下人になった一族に里芋を結びつけるのは、縁起の上でも筋が通っていることになります。頭になるための芋を食べて育った兄弟が、本当に天下の頭になった。ドラマがそこまで狙っていたかはわかりませんが、合ってはいます。

「芋がら縄」は本当に戦場の携帯食だったのか

里芋と戦国でよく語られるのが、芋がら縄(いもがらなわ)です。里芋の茎を干して縄にし、荷物を縛るのに使い、いざとなれば切って湯に入れれば味噌汁になる。縄が食料を兼ねるという話で、戦国の知恵としてよく紹介されます。

ただ、出典を確かめると話が変わります。

▽ よく語られる話
戦国の兵は、芋がらを味噌で煮しめて縄にし、腰に巻いて戦場へ出た。荷を縛る縄として使い、食べるときは切って湯に入れれば味噌汁になった。
▼ 史実ではこうです
出典は『雑兵物語』下巻の「荷宰料」で、江戸時代の書物です。成立は明暦3年より後、天和3年より前と推定されており、戦国と同時代の記録ではありません。しかも「味噌で煮て」という部分は註釈での補筆とされ、後世に加えられた可能性が高いとみられています。「腰に巻いて持ち歩く」という説明も、出典にはありません。さらに文脈は、敵地に入る前に物資を節約するための工夫であって、飢えたときの非常食ではありませんでした。

つまり芋がらを荷縄にする工夫そのものはあったとしても、「味噌で煮た縄を腰に巻いて戦場で味噌汁にする」という形は、後世に膨らんだ話ということになります。手間と費用を考えると広く使われたとは言いにくく、思いつきで終わった工夫のひとつだったのではないか、という見方もあります。

この手の「戦国の知恵」は、江戸時代に書かれた書物を出典とするものが少なくありません。語りとしておもしろいほど、途中で足されている部分が多い、と思って読むのが安全です。

よくある疑問

Q. 秀吉の好物は里芋だったのですか。
A. そう示す確かな記録は見当たりません。質素な食事を好んだという話は伝わりますが、具体的な好物を確かめられる史料は多くありません。

Q. では里芋はドラマの作り話ですか。
A. 演出です。ただし里芋は農民の常食でしたから、尾張の農家から出た一族の味として置くことは史実から外れていません。

Q. 頭芋とは何ですか。
A. 里芋の親芋のことです。人の上に立つ「頭」になるようにという縁起物で、京都では殿芋とも呼ばれ、元旦の雑煮に丸ごと入れる風習があります。

Q. 芋がら縄は史実ですか。
A. 出典は江戸時代の『雑兵物語』です。芋がらを荷縄にすること自体はあったとみられますが、味噌で煮る、腰に巻くといった部分は後世の補足とみられています。

まとめ

豊臣家が里芋を好んだという記録はありません。けれども里芋は農民の常食で、親芋は「頭になる」縁起物でした。百姓の家から出て天下の頭になった兄弟の食卓に里芋を置くのは、記録にはなくても理屈は通っています。ドラマが選んだのは、史実の空白に合う食べ物でした。

いっぽう芋がら縄のほうは、語られている形がかなり膨らんでいます。出典は江戸時代の書物で、味噌で煮る話も腰に巻く話も後から足されたとみられます。同じ里芋でも、縁起のほうは古く、戦場の知恵のほうは新しいということになります。豊臣家がどこから来たのかは大政所(なか)とは、妹のあさひについては旭姫(朝日姫)の生涯をご覧ください。

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