江戸城:天守が二度と建てられなかった理由と、いまも残る富士見櫓・番所・天守台

城:江戸氏により築城され太田道灌により改修 その後徳川幕府250年の王城 江戸城

【城名】
江戸城

【江戸城の説明】
江戸城の歴史は戦国時代よりもはるかに古く、平安時代から鎌倉時代にかけて江戸氏により築かれたと言われています。その後、江戸氏の没落とともに、戦国時代初期に扇谷上杉氏の家臣「太田道灌」によって城の改修が行われました。当時の江戸城は現在のような立派なものではなく、周りは沼地や草地に囲まれた平山城だったといいます。

また、海岸線は現在よりももっと内陸部にあったため、江戸城の城脇がすぐに品川沖(東京湾)だったようです。戦国時代初期に江戸城主だった太田道灌は、主君である「上杉定正」により殺害されてしまいます。これにより一時は上杉家の城となるが、その後関東制覇を目指す北条氏綱・氏康親子からの攻撃を受けて落城。以後北条氏の城として関東制覇の拠点となります。

城:江戸氏により築城され太田道灌により改修 その後徳川幕府250年の王城 江戸城【お城特集 日本の歴史】

北条氏が関東を平定した頃、中央では実質的に織田信長の後継者となった「豊臣秀吉」が天下統一の総仕上げとして北条征伐(小田原征伐)を実施します。動員された兵力は全国の大名と約20万の兵と言われています。北条氏の兵力は農兵や正規兵を合わせても約8万人とされ、兵力の違いから北条方は籠城戦に決します。しかし、北条氏はついに秀吉の前に降伏し、その旧領はそのまま「徳川家康」へと与えられました。

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関東への移封を命ぜられた家康は本拠地を「江戸」に定め、秀吉の没後に天下をその手にすると城の大改修を行いました。この大改修には全国の大名が自前による資金や物資により普請が行われました。こうして江戸城は全国一の近代的城郭へと変貌を遂げ、徳川250年の全国支配の拠点として輝き続けました。

城:江戸氏により築城され太田道灌により改修 その後徳川幕府250年の王城 江戸城【お城特集 日本の歴史】

長い間政権を握ってきた徳川家も、幕末になるとペリー艦隊の来航や諸外国による日本進出により開港や開国を求められ窮地に陥ってしまいます。また、徳川家自体の屋台骨もすでに揺らいでおり、ここに各地の雄藩が力を持ち始めました。そしてついに薩摩藩・長州藩・土佐藩(芸州藩:広島藩)による討幕軍が起こり、「鳥羽伏見の戦い」から「函館五稜郭の戦い」までの戊辰戦争を経て、日本は朝廷をトップにした近代国家として生まれ変わります。

※この時天皇家も京都から東京へ遷都をし、名実ともに東京が日本の中心都市となります。

鳥羽伏見の敗報が届いたあと、江戸城の中で何が起きたのかは、幕末歴史ガイドの小栗忠順の罷免とは—慶応四年正月、鳥羽伏見の敗報が届いた江戸城で起きたことで詳しく紹介しています。

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一方江戸城の天守は大火によりすでに消失しており「富士見櫓」が天守代用として利用されていました。その他、現在残されている建造物は「伏見櫓」や「二重橋」「桜田門」「清水門」「田安門」などが残されています。江戸城は「国指定史跡」や「日本100名城21番」に選定されており、多くの人々が北ノ丸公園や皇居周辺を散策したりして賑わいを見せています。

 

 江戸城(1/700)日本の名城プラモデル

目次

天守は三度建って、三度目で終わった

江戸城の天守は、一度きりではありません。慶長、元和、寛永と、将軍の代替わりのたびに三度建て直されています。最後の寛永度の天守は五層で、石垣を含めた高さが五十八メートルほどあったとされ、日本の城の天守としては史上最大でした。

その天守が焼けたのが、明暦三年(1657年)の大火です。江戸の町の大半が焼け、天守も失われました。幕府はすぐに再建にかかろうとしますが、ここで待ったをかけたのが会津の保科正之でした。天守は遠くを見るためのもので、実際の役には立たない。それより焼け出された町人の救済と城下の復興が先だ、という意見です。高遠で育ち、三代将軍の弟として幕政を支えた人らしい判断でした。

こうして天守は二度と建てられませんでした。いま皇居東御苑に残る天守台は、大火のあとに加賀前田家が積み直したものです。白っぽい花崗岩をきれいに切り込みはぎで組んだ、江戸時代でも最高水準の石垣が、天守を載せないまま三百年以上そこにあります。上に登れるので、本丸の広さを見わたしてみてください。

どこまでが江戸城だったのか

江戸城を「皇居東御苑のあたり」と思っていると、規模を読みちがえます。内堀の内側が本丸・二の丸・三の丸・西の丸で、いまの皇居と東御苑がこれにあたります。その外側に外堀がめぐり、神田、四谷、赤坂、虎ノ門あたりまでが城の内側でした。総構えの周囲はおよそ十六キロ。世界でも最大級の城郭です。

この堀は、城を中心に外へ外へと渦を巻く「の」の字の形に掘られました。舟で物資を運び込める水路であると同時に、城下町ごと守る防御線でもあります。町全体を堀で囲むという発想は、北条氏の小田原城の総構えに先例がありました。家康は敵だった城の仕組みを、そのまま大きくして使ったことになります。

工事は天下普請でした。全国の大名が石も人も船も自前で負担し、伊豆から石を切り出して江戸湾へ運びます。膳所城に始まったこのやり方は、名古屋城や大坂城でも繰り返され、大名の財力を削る効果も兼ねていました。いま東御苑で見る石垣の石の多くは、伊豆の海を渡ってきたものです。

いま見られる江戸城 ─ 現存する櫓と門

天守はなくても、江戸時代から残っている建物はあります。順に挙げておきます。

富士見櫓は三重の櫓で、天守が失われたあと天守の代わりとされました。どの方向から見ても同じ姿に見えるようにつくられており、八方正面の櫓とも呼ばれます。東御苑の中から見上げられます。

伏見櫓は二重橋の奥に見える櫓で、皇居前広場から写真に撮れます。桜田門は外桜田門のことで、枡形をそのまま残した重要文化財です。門を入ってすぐ直角に折れる形―枡形を、いまも歩いて体験できます。北の丸の田安門と清水門も重要文化財で、こちらは武道館へ行く人の通り道になっています。

本丸には百人番所、同心番所、大番所という三つの番所が残ります。大手門から本丸へ向かう道の途中に順に置かれていて、奥へ進むほど詰める役人の格が上がりました。誰がどこまで入れるかを建物で示した、江戸城らしい仕掛けです。

石垣にも見どころがあります。中之門跡の巨石は、一つが十トンを超えるものもあり、江戸城でいちばん整った石積みです。道灌堀や汐見坂の周辺には、それより古い時代の粗い積み方も残っていて、同じ城のなかで石垣の年代が読み分けられます。

駐車場と所要時間

江戸城の本丸跡は皇居東御苑として公開されています。入園は無料で、事前予約もいりません。入れる門は大手門、平川門、北桔橋門(きたはねばしもん)の三つ。大手門は地下鉄大手町駅から歩いて五分ほど、平川門と北桔橋門は竹橋駅から五分ほどです。

注意したいのが休園日です。東御苑は毎週月曜日と金曜日が休みで、年末年始も閉まります。祝日は公開されますが、天皇誕生日は休みです。せっかく来たのに門が閉まっていた、という失敗が起きやすいので、曜日だけは必ず確かめてください。開園は午前九時から。閉園は季節によって午後四時から六時のあいだで変わり、入園は閉園の三十分前までです。

一般の駐車場は東御苑にありません。車なら北の丸公園の有料駐車場を使い、そこから歩くことになります。ただし都心の城なので、電車のほうがはるかに楽です。

所要時間の目安は、東御苑をひと通り歩いて一時間半から二時間。天守台と三つの番所、二の丸庭園を見るならこれくらいかかります。内堀の外周を一周すると約五キロで、さらに一時間半ほど。桜田門や二重橋、川越城などと組み合わせず江戸城だけで回るなら、半日で十分です。

見学順 ─ 大手門から入り、北桔橋門へ抜ける

おすすめは、大手門から入って北桔橋門へ抜ける一方通行です。登城する大名と同じ向きに歩けて、坂も登りになるので分かりやすくなります。

大手門は正門にあたります。枡形をくぐって中へ入り、まず同心番所、次に百人番所を見ます。百人番所は長さ五十メートルを超える長屋で、鉄砲百人組が交代で詰めていました。ここまでが三の丸です。

中之門跡の巨石の石垣を抜け、大番所の前を通って坂を登ると本丸に出ます。広い芝生が広がっていますが、ここに本丸御殿が建っていました。大奥も、松の廊下も、この芝生の下です。松の廊下跡の石碑が植え込みのなかにあるので、探してみてください。

本丸の北のはずれに天守台があります。石段で上に登れるので、そこから本丸を振り返ってください。天守が建っていたらどう見えたかが想像できます。天守台の向こうが北桔橋門で、ここを出ると堀の深さに驚くはずです。東御苑のなかでいちばん高低差を感じる場所です。

時間があれば、帰りに大手門側へ戻らず、平川門から出て竹橋方面へ。平川門は不浄門とも呼ばれ、城中で亡くなった者や罪人を出す門でした。華やかな大手門と対になる存在で、二つを見ておくと江戸城の表と裏がそろいます。太田道灌の時代から数えれば、この城はおよそ五百年。歩ける範囲だけでも、その厚みは十分に感じられます。

江戸城の御殿の障壁画を手がけた狩野派については狩野派はどうやって江戸幕府の御用絵師になったのか:永徳の孫・探幽と奥絵師四家、京狩野、二条城・名古屋城に残る障壁画でくわしく紹介しています。

【江戸城・場所・アクセス】
〒100-8111 東京都千代田区千代田1-1

【江戸城地図】

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