岩屋城:名将高橋紹運が島津忠長の大軍を一手に迎えて玉砕・落城した岩屋城【お城特集 日本の歴史】

岩屋城/アクセス・場所・地図 名将高橋紹運が島津忠長の大軍を一手に迎えて玉砕・落城した岩屋城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
岩屋城

【岩屋城の説明】
岩屋城は福岡県太宰府市浦城にあった山城である。築城時期は天文年間とされ、大友氏の武将「高橋鑑種」が築城したと伝えられており「立花山城」と共に大友家の筑前支配の重要な拠点であった。

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大友氏21代当主「大友宗麟」は数々の素行が目立ち、高橋鑑種は大友氏から離反する。これに激怒した宗麟は鑑種を追放し「吉弘鑑理」の二男「鎮種」が高橋氏の名跡を継いで「高橋鎮種(高橋紹運)」と名乗り宝満城・岩屋城の城主となった。

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天正13年(1585年)、立花山城主「立花道雪」が死去すると、紹運の長男「統虎(立花宗茂)」が道雪の養子として立花山城主となり、次男の「高橋統増」が高橋家の本城である「宝満城」に入城し、紹運自身は岩屋城に入り筑前支配を強めた。

※宝満城跡



天正14年(1586年)7月、薩摩・大隅から領地を拡大していた島津義久・義弘兄弟はついに筑前国にまで迫ってきた。紹運親子は各城へ籠城し、島津忠長・伊集院忠棟らの兵2万が最前線の岩屋城への攻撃を開始。紹運は降伏・勧告を何度も退け、ついに城兵約700名は全て玉砕した。紹運自身も城と共に自刃して果てた。

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この攻防戦により島津軍は多大な損害を受け、体制を整えるためその後方の「立花山城」への攻撃が遅れてしまう。その間、豊臣秀吉の軍約20万が九州へと上陸し、ついに島津軍は撤退を余儀なくされた。

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同年、島津氏は薩摩・大隅国まで追い詰められついに豊臣秀吉に降伏した。最後まで主家に従った高橋紹運の名声は現代に至るまで高まり、岩屋城跡近くに紹運の墓が建立する。

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「屍をば岩屋の苔に埋みてぞ 雲居の空に名をとどむべき」紹運が高櫓の扉に書き残したとされる辞世の歌である。






【岩屋城・場所・アクセス】
福岡県太宰府市観世音寺字大浦谷

【岩屋城地図】



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