- 天正13年(1585)11月19日、秀吉は信濃の真田昌幸に書状を送り、翌年正月15日に三河へ出陣して家康を成敗すると伝えていました
- 美濃の大垣城には兵糧蔵が建てられ、出陣に向けた米の蓄えが始まっていました。先鋒を担うはずだったのは、伊勢・尾張を治める織田信雄とされます
- 東では真田昌幸・小笠原貞慶ら、徳川から離れた信濃の大名たちが秀吉方につき、家康は東西から挟まれる形になりつつありました
- しかし11月29日の天正地震で大垣城が全壊焼失し、秀吉は家康攻めをあきらめました
『豊臣兄弟!』第40回では、秀吉が諸将を大広間に集め、徳川が上洛にも真田との和睦にも応じないとして出陣を命じる場面があると伝えられています。史実の秀吉も、天正13年の暮れ、家康を攻める準備を進めていました。この記事では、その計画の中身と、なぜ実行されなかったのかを紹介します。
真田昌幸への書状 ─ 「正月十五日に出陣」
天正13年11月19日、秀吉は信濃の真田昌幸に書状を送りました。そこには、家康を成敗するため、翌年正月15日に三河へ出陣することが記されていたとされます。真田昌幸は、この年の閏8月に上田城で徳川の大軍を退け、秀吉方についていました(真田昌幸とは/第一次・第二次上田合戦)。
この書状は、石川数正が出奔した(11月13日)わずか6日後のものです。徳川の内情を知る数正を迎えた秀吉は、家康攻めに自信を深めていたのでしょう。
計画の中身 ─ 大垣城を前線に
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出陣の予定 | 天正14年(1586)正月15日 |
| 前線基地 | 美濃の大垣城(城主は一柳直末)。11月に兵糧蔵を建てて米を蓄え始めた |
| 先鋒 | 伊勢・尾張を治める織田信雄とされる |
| 東の味方 | 真田昌幸、小笠原貞慶ら信濃の大名 |
| 兵力の見込み | 秀吉方は十万ともいわれ、徳川方は三〜四万ほどとされる |

西からは秀吉の本隊と信雄が尾張・三河へ攻め込み、東からは信濃の真田・小笠原らが徳川領をうかがう ─ 家康は東西から挟まれる形になりつつありました。家康にとって頼みの綱は、背後の北条家との同盟でした(家康と北条氏政の会見)。
家康の備え
一方の家康も、秀吉との決戦に備えていました。数正の出奔のあと、岡崎城の守りを固め、軍法を武田流に改めたと伝わります(石川数正が去っても、家康はなぜ秀吉と戦おうとしたのか/石川数正の出奔で徳川家はどう変わったのか)。小牧・長久手の戦いで秀吉と渡り合った家康には、簡単には負けないという自信があったはずです。

天正地震で計画は崩れた
11月29日の夜、天正地震が中部から近畿を襲いました。家康攻めの前線基地だった大垣城は全壊し、火事で焼け落ちます。先鋒の信雄の居城・長島城も倒れ、近江の長浜城なども大きな被害を受けました(天正地震で壊れた城一覧)。
兵糧も城も失った秀吉は、家康攻めをあきらめるしかありませんでした。翌天正14年正月、信雄が家康と会って和睦を勧め、秀吉も和睦に転じます。家康攻めのために動き出した信雄が、こんどは和睦の仲介役になったのです(織田信雄とは)。
もし地震がなかったら
ここからは筆者の想像です。もし地震がなければ、天正14年の春、尾張・三河を舞台に秀吉と家康の再戦が起きていたかもしれません。兵力では秀吉方が大きく上回っていましたが、家康は小牧・長久手で秀吉を苦しめた経験があり、北条の支援もありました。戦が長引けば、九州の島津攻めは遅れ、天下統一の歩みも変わっていたでしょう。一夜の地震が、二人の天下人の運命を分けたのです。
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よくある質問
Q. 秀吉はいつ家康を攻めるつもりだったのですか?
A. 天正14年(1586)正月15日に三河へ出陣する予定だったとされます。
Q. 家康攻めの前線基地はどこですか?
A. 美濃の大垣城です。兵糧蔵が建てられていました。
Q. なぜ家康攻めは中止されたのですか?
A. 天正13年11月29日の天正地震で、大垣城をはじめ前線の城と兵糧が失われたためです。
まとめ
秀吉は数正の出奔のあと、天正14年正月15日の出陣を決め、大垣城を前線に家康攻めの準備を進めていました。しかし天正地震がその計画を根本から崩し、秀吉は和睦へと方針を変えます。徳川と豊臣の決戦は、一夜の地震によって幻となったのです。
参考:『真田家文書』/ルイス・フロイス『日本史』/寒川旭『秀吉を襲った大地震』平凡社新書
