豊臣家はなぜあれほど金銀を持てたのか|220万石の直轄地、佐渡・石見・生野の金山銀山、堺・博多・長崎を押さえた秀吉の財力 ─ 『豊臣兄弟!』第39回

城の金蔵で、箱に詰めた金の大判や延べ板、銀の塊を役人たちが数えるイメージイラスト
この記事のポイント
  • 真田家は、信濃国小県郡の真田郷(いまの長野県上田市真田町)を本拠とした一族です。武田信玄に仕えた真田幸隆(幸綱)が家を大きくし、子の昌幸、孫の信之(信幸)と信繁(幸村)へと続きました
  • 幸隆の長男・信綱と次男・昌輝は、天正3年(1575)の長篠の戦いでそろって戦死しました。そのため、他家の養子になっていた三男の昌幸が真田家を継ぐことになります
  • 昌幸は武田家の滅亡後、織田・北条・徳川・上杉と主を替えながら領地を守り、天正13年(1585)の第一次上田合戦で徳川軍を退けました。『豊臣兄弟!』第39回で秀吉が「徳川と真田の和睦」を命じるのは、この直後の出来事です
  • 関ヶ原の戦いでは、兄の信之が徳川方、父の昌幸と弟の信繁が豊臣方に分かれました。信之の家は松代藩主として幕末まで続き、信繁は大坂の陣で「日本一の兵」と呼ばれる最期を遂げます

『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」で、秀吉は大坂城に徳川の重臣・石川数正を呼び、聚楽第の模型を見せたうえ、家康への土産として箱をいくつも見せました。銀の箱かと思えば、中身は金。数正は「金で力を見せつけるのか」と圧倒されます。百姓の出から天下人となった秀吉は、なぜこれほどの金銀を持てたのでしょうか。その理由を、史実から整理します。

豊國神社(大阪城)
大阪城の豊國神社。秀吉の大坂城には、全国から集められた金銀がたくわえられていました
目次

理由① ─ 約220万石の直轄地(蔵入地)

豊臣家の財産の土台は、「蔵入地(くらいりち)」と呼ばれる直轄地でした。大名に与えた領地とは別に、豊臣家が自分で年貢を取る土地のことです。その広さは、秀吉の晩年には約220万石にのぼったとされます。百万石の大名でも数えるほどしかいなかった時代に、豊臣家はそれをはるかに上回る領地を自分の手元に持っていたのです。

秀吉が全国で進めた検地(太閤検地)によって、土地ごとの石高がはっきりし、年貢を確実に集める仕組みも整いました。蔵入地の多くは畿内やその周辺の豊かな土地で、そこからの年貢が豊臣家の暮らしと政治を支えました。秀長に大和を任せたことも、畿内を豊臣家の身内で固める狙いがありました(なぜ秀長は大和郡山に百万石を与えられたのか)。

理由② ─ 全国の金山・銀山を押さえた

二つ目の財源が、金山と銀山です。戦国時代の日本は、世界でも有数の銀の産出国でした。秀吉は、但馬の生野銀山、石見の大森銀山(石見銀山)、佐渡の金山など、主な鉱山を押さえ、その産出から収入を得ました。生野銀山のある但馬は、秀長が攻めとった国でもあります。

鉱山そのものは、その土地の大名が管理することもありましたが、産出した金銀の一部を「運上(うんじょう)」として豊臣家に納めさせる仕組みがとられました。佐渡の金山は上杉家、石見の銀山は毛利家の支配地でしたが、どちらも豊臣政権のもとで金銀を納めています。大名を従わせることは、そのまま鉱山の富を手に入れることでもあったのです。

理由③ ─ 商業都市と豪商を押さえた

三つ目が、商業都市です。秀吉は、京都・大坂・堺・伏見・博多・長崎といった、商いと貿易の中心となる都市を直接治めました。堺は鉄砲や南蛮貿易で栄えた自治都市、博多は大陸との貿易の玄関口、長崎はポルトガル船が来る港です。とくに長崎は、天正16年(1588)に豊臣家の直轄地とされました。

秀吉は、千利休や小西隆佐、博多の島井宗室・神屋宗湛といった豪商たちを近くに置き、茶の湯や政治の場で重く用いました。豪商の持つお金と情報、海外とのつながりを味方につけることで、商いと貿易の利益を政権に取りこんだのです。大坂城の築城でも、石や材木を全国から集める仕事に、こうした都市と商人の力が生かされました(大坂城築城と豊臣秀長、熊野の木はなぜ豊臣政権に狙われたのか)。

▽ よく語られる話
秀吉は全国の大名から年貢を集めていたから、あれほどの金銀を持っていた。
▼ 史実ではこうです
大名の領地の年貢は、基本的にその大名のものです。豊臣家の財源は、豊臣家の直轄地(蔵入地)の年貢、直接押さえた金山・銀山の産出、直接治めた都市の商いや貿易からの収入でした。全国から年貢を吸い上げたのではなく、「直轄地」「鉱山」「都市」という三つの財布を自分で握っていたところに、豊臣家の豊かさの理由があります。

理由④ ─ 金を「見せる力」に変えた

秀吉の特徴は、集めた金銀をただたくわえるだけでなく、それを人に見せ、配ることで、自分の力を示したところにあります。天正16年(1588)、秀吉は京都の金工・後藤家に命じて「天正大判」をつくらせました。重さ約165グラムの大きな金貨で、ふだんの買い物に使うものではなく、大名へのほうびや贈り物に使われました。

翌天正17年(1589)には、京都の聚楽第で公家や大名に金銀を配る「金賦り(かねくばり)」を行い、集まった人びとを驚かせています。天正14年(1586)の正月には、三畳の黄金の茶室を宮中に運びこみ、天皇に茶を献じました(秀吉の黄金の茶室とは)。金銀は、富であると同時に、天下人の力を目に見える形で示す道具だったのです。第39回で数正に金の箱を見せた場面は、まさにこの秀吉のやり方を描いたものといえます。

『豊臣兄弟!』第39回 ─ 数正に見せた金の意味

ドラマの秀吉は、数正に聚楽第の模型と金の箱を見せ、家康に「真田と和睦せよ」と伝えるよう頼みました。戦えば勝てない相手だと、言葉ではなく金で伝えたわけです。史実の数正は、天正13年(1585)11月13日に徳川家を出奔し、秀吉のもとへ移ります。その理由ははっきりしませんが、秀吉の財力と勢いを誰よりもよく知っていたことが、出奔の背景にあったという見方は根強くあります(石川数正はなぜ出奔したのか ─ 裏切り・寝返りの理由)。

よくある疑問

Q. 豊臣家の直轄地はどれくらいあったのですか?
A. 秀吉の晩年には約220万石にのぼったとされます。

Q. 秀吉はどんな金山・銀山を押さえていたのですか?
A. 但馬の生野銀山、石見の大森銀山、佐渡の金山などです。大名の支配地の鉱山からも、金銀を運上として納めさせました。

Q. 天正大判とは何ですか?
A. 天正16年(1588)に秀吉が後藤家につくらせた大きな金貨で、主にほうびや贈り物に使われました。

Q. 秀吉はどの都市を直接治めていたのですか?
A. 京都・大坂・堺・伏見・博多・長崎など、商いと貿易の中心となる都市です。

まとめ

豊臣家が豊富な金銀を持てたのは、約220万石の直轄地、全国の主な金山・銀山、そして京都・大坂・堺・博多・長崎などの商業都市という、三つの財布を自分の手で握っていたからです。さらに秀吉は、集めた金を天正大判や黄金の茶室、金賦りといった形で人に見せ、配ることで、天下人の力そのものに変えました。『豊臣兄弟!』第39回で数正に見せた金の箱は、その豊臣の力を象徴する場面でした。

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