秀吉はなぜ城をいくつも建てたのか:大坂・聚楽第・名護屋・伏見、四つの拠点の役割分担

金地の屏風の前で筆を持つ絵師のイメージイラスト(狩野永徳)

秀吉は大坂城、聚楽第、伏見城、名護屋城と、天下人になってからも城を建て続けました。移り住んだのではありません。役割を分けて、同時に持っていたのです。軍事と経済は大坂、朝廷と向き合う政庁は京、海を渡る戦の司令部は肥前、そして晩年の拠点が伏見。建てることも壊すことも、この人にとっては同じ政治でした。

▶ この記事でわかること
  • 秀吉が建てた主な城と、それぞれの役割
  • なぜ一つの城で足りなかったのか
  • 金箔瓦を誰に許したかという統制
  • 建てるのと同じくらい熱心に壊していたこと
  • どの城も、今はほとんど残っていないこと
目次

四つの拠点、四つの役割

▶ 秀吉の主な城
  • 大坂城(天正十一年〜) 軍事と経済の本拠。五層六階の天守。宣教師の報告に「月々五万人の労働者」とある。惣構の堀は周囲一里
  • 聚楽第(天正十四年〜) 京の政庁。堀四十三メートル、馬出三か所。天皇を二度迎え、外国の使節に謁見した
  • 名護屋城(天正十九年〜) 朝鮮出兵の大本営。五重七階の天守、周囲三キロに約百二十の陣屋
  • 伏見城(文禄元年〜) 隠居所として始まり、秀頼の誕生で本格的な城に。ここで死ぬ

並べてみると、用途がまるで違うことが分かります。大坂は本拠、聚楽第は朝廷と向き合う場、名護屋は戦争の司令部、伏見は晩年の政権中枢。同じ「城」でも機能が別です。

なぜ一つで足りなかったのか

理由は単純で、やる仕事の種類が増えたからです。

天正十三年に関白になり、豊臣の氏を立てた秀吉は、武家の棟梁であると同時に朝廷の官職者になりました。公家を相手にする場と、大名を相手にする場では、必要な建物が違います。京の御所のそばに格式のある政庁が要る。けれど軍事と経済の中心は大坂から動かせない。

研究機関の説明が的確です。大坂城のほうが軍事的にも経済的にもはるかに優れている。それでも京に天下人の城を築いて、そこに住むこと自体に意味があった、と。

そして朝鮮への出兵が決まれば、九州の端に司令部が要ります。名護屋には諸大名の陣屋が百二十も建ち並び、十万を超える兵が集まりました。戦争のために城下町が一つできたようなものです。

城を建てさせることも、統治だった

秀吉は自分の城を建てるとき、諸大名に工事を割り振りました。割普請といいます。大坂城では土木工事と建築工事に分けて分担させています。

負担を押しつけたように見えますが、副作用がありました。参加した大名が最新の築城技術を覚えて帰るのです。石垣の積み方、堀の掘り方、天守の建て方。結果として、同じ様式の城が各地に建つことになりました。

和歌山城で藤堂高虎が普請奉行をつとめたのも、この流れのなかの話です。のちに築城の名手と呼ばれるこの人の最初の大仕事でした。

つまり秀吉の城づくりは、建物を建てると同時に、技術と人を動かしていたことになります。

金箔瓦を、誰に許したか

建物そのものとは別に、見逃せない統制があります。

信長は金箔瓦を自分の子にしか許しませんでした。秀吉は違います。豊臣の一門だけでなく、政権を支える大名の城にも使用を許しています。許された城は十六。しかも徳川の領地に隣接する主要な城に集中していました。

つまり金箔瓦は、装飾であると同時に誰がこちら側かを示す印でした。信長が屏風で城を見せたのと似て、見せることが政治になっています。

建てるのと同じくらい、壊していた

秀吉は城を壊すことにも熱心でした。

天正十一年の朱印状に、城を壊す目的がはっきり書かれています。謀叛を未然に防ぐため。敵対していない大名の城でも、不要と見れば壊させました。

▽ よく語られる話
聚楽第を壊したのは、秀次を憎んだ秀吉の私怨だった。
▼ 史実ではこうです
壊す行為そのものが、この人の政策の一部でした。建てることと壊すことを、等しく権力の行使とみなしていた人です。実際、聚楽第は石を抜かれ、堀を埋められ、瓦を投げ込まれ、住民ごと伏見へ移されました。感情というより方針に沿った処置と見るほうが筋が通ります。

資材も使い回されています。淀城の天守や櫓は指月の伏見城へ、聚楽第の資材も伏見へ。そして伏見城が廃城になると、その資材が二条城や淀城や福山城へ流れました。建物は壊れても、材木と石は旅を続けるわけです。

町ごと動かす ── 御土居と城下町

城だけではありません。天正十九年、秀吉は京の町そのものを土塁と堀で囲みました。御土居です。総延長は約二十三キロ。土塁は高さ三メートル、堀の幅は四メートルから十八メートル。

城下町の作り替えも徹底していました。大坂では一万七千戸の町家を移したと伝わります。郡山で十三の町を作ったのも、同じ発想の小型版です。

この人にとって、城と町は一体でした。商人を集め、税を免じ、独占を配るところまで含めて、ひとつの事業だったということになります。

どの城も、残っていない

最後に、少し寂しい話をします。

▶ その後
  • 大坂城 大坂夏の陣で焼失。いまの天守は昭和の再建で、徳川が建て直した城の上に建っている
  • 聚楽第 秀吉自身が破却。地上に建物はなく、国の史跡にもなっていない
  • 名護屋城 唐津城を建てるときに解体・転用。いまは特別史跡
  • 伏見城 関ヶ原の前に落城、徳川が再建したのち廃城。本丸跡は天皇陵のなかで立ち入れない

いまの淀城址も、茶々がいた城とは別の場所に江戸期に築かれたものです。名前が同じでも中身が違う、ということが秀吉周辺の城には起こりがちです。

いま伏見に建っている天守は、昭和に遊園地の施設として建てられたものです。場所も姿も史実とは関係がありません。秀吉が建てた城で、当時の姿を見られるものはひとつもないということになります。

よくある質問

秀吉は結局どこに住んでいたのですか。
時期で移っています。大坂城(天正十一年〜)、聚楽第(天正十五年〜約四年)、伏見城(文禄年間〜慶長三年に没するまで)。ただし大坂城は最後まで手放していません。

秀長も城をいくつも持っていたのですか。
三か国を預かっていたので、大和郡山を本拠に、紀伊の和歌山城には城代を置いていました。兄とは違って、自分で建てたというより任された城です。

名護屋城はなぜ特別史跡なのですか。
短期間で築かれた巨大な陣城で、周囲の陣屋跡まで含めて遺構がよく残っているからです。面積は十七万平方メートルあります。

まとめ

秀吉の城は、移り住んだ軌跡ではありません。役割ごとに建て、同時に持っていたのです。軍事と経済の大坂、朝廷と向き合う聚楽第、戦争の名護屋、晩年の伏見。

そして建てた本人が、必要がなくなれば壊しました。聚楽第の破却がその極端な例です。天下人にとって城は、住む場所である前に権力を示す道具でした。だから示す必要がなくなれば、消しても構わなかったのでしょう。

放送と再放送
本放送は日曜 午後8時(NHK総合)、日曜 午後6時(NHK BS)、日曜 午後0時15分(BSプレミアム4K)。再放送は翌週土曜 午後1時05分(NHK総合)と、日曜 午後6時(BSプレミアム4K)です。
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