戦国の商人はどうやって成功したのか:支店も広告もない時代に、商売の勝ち負けを決めたもの

金箔を押した大襖に絵師と弟子たちが分担して描く工房のイメージイラスト

戦国の商人の成否を決めたのは、品物の良し悪しでも売り方の工夫でもありませんでした。誰に認められているかです。座に入っているか、権力者の文書を持っているか、城下町に呼ばれているか、御用を務めているか。いずれも自分の努力で手に入れる競争力ではなく、上から与えられる資格でした。支店も広告も、そもそも存在しません。

▶ この記事でわかること
  • 支店・販路・広告が、いつから商売の手段になったのか
  • 戦国の商人が「売る資格」をどこから得ていたのか
  • 座と地子免除と「御用」の、それぞれの効き方
  • 秀長が郡山の城下町でやったことは、自由化だったのか
  • なぜ狩野永徳がどこで筆を買ったか、誰も書き残していないのか
目次

支店も広告も、まだ発明されていない

まず時代の目盛りを合わせておきます。

▶ 商売の道具が生まれた時期
  • 支店 三井越後屋が江戸で創業したのが延宝元年。大坂に店を出したのは元禄四年の春
  • チラシ(引札) 最古とされるものが天和三年。越後屋が日本橋に移った時の摺物
  • 屋号を文字で掲げる暖簾 文字が入りはじめるのは桃山の終わりごろ。それ以前の暖簾は、日よけと塵よけの無地の布か、動物や道具の形を染めた記号

秀長が奈良の商売を止めて郡山へ商人を移したのが天正十三年です。そこから越後屋の大坂店まで、百年あります。戦国の商人には、店を増やすという発想も、名前を知らせるという行為もありませんでした。看板に屋号を書いても、読める人が多くありません。

そもそも、商売には資格が要った

では何が商いを成り立たせていたか。座です。寺社や公家を本所として、同業者が集まった団体で、そこに属していないと商売そのものができませんでした。

わかりやすいのが大山崎の油座です。石清水八幡宮と離宮八幡宮を本所として、近江・尾張・美濃・伊勢・河内・摂津といった国々で油の原料を買い集める権利を独占し、売る側も院宣で専売を認められ、淀や神崎や兵庫の港では津料を免除されていました。それだけではありません。座の外の者が油を搾ること自体を止めるため、搾油機を壊す許可まで取っています。

座に入っていない商人は、売れない、仕入れられない、運べない、道具も持てない。商売が下手だから負けるのではなく、商売をする資格がないのです。

大和はその代表格でした。興福寺の大乗院を本所とする座は六十あまりあり、扱う品は塩、油、材木から菅笠、心太にまで及びます。興福寺は灯明の油も、写経や版木に使う墨も、自分のところで作らせていました。最大の買い手が、同時に作り手でもあったわけです。

運ぶだけで元が取れなくなる

「全国に売る」が成り立たなかった理由は、関所です。

伊勢の記録では、斎宮の関で人ひとり十二文、小田関で三十文、松阪から内宮まで五十キロに満たない道のりで百文以上の通行料がかかりました。田丸の城下だけで関屋が数十か所あったという記録もあります。これらは乱立した私設の関ではなく、国司が関銭を家臣の給与として配っていた、れっきとした財源でした。だから簡単にはなくなりません。

一か所あたりの料率は高くありません。兵庫の港の記録では、米に対して積荷の一分です。問題は、それが何十か所も続くこと。筆や墨のような単価の軽い品を陸路で遠くへ運べば、品物の値段より通行料のほうが高くつきます。

長い距離を動かせたのは、関銭を免除された座の船だけでした。大和が豊かな土地なのに国主の財布だけ細かったのも、根は似た話です。物と銭の通り道が、誰かの権利で区切られていました。

楽市楽座は、自由経済ではなかった

▽ よく語られる話
信長が楽市楽座を出して座を壊し、誰でも自由に商売できるようにした。
▼ 史実ではこうです
「楽市」の語が見える最も古い史料は、信長より前、天文十八年の近江のものです。今川氏真も永禄九年に出しています。さらに、信長が実際に解体した座は、大山崎の油座など二つか三つにとどまり、京の十九種の座や近江の油座はむしろ安堵しています。近年の研究では「楽座」は座をつぶす命令ではなく、座に課されていた役銭を免除するものだったという見方が有力になっています。

安土に出された十三か条の掟書を読むと、中身の印象がさらに変わります。火事を出した家主の免責、他国から移ってきた者の待遇を平等にすること、喧嘩や押し買いの禁止。商売の振興より、住民の保護に紙幅が割かれています。そして「分国で徳政を行っても、ここでは免除する」という条文がある。借金が棒引きにならない町なら、金を貸す側は安心して貸せます。

信長の政策を「座をすべて壊した改革」と読むと、座がその後も生き続けた事実の説明がつかなくなります。壊された座と、残った座があったと見るほうが、史料に合います。

ちなみに、押し買いや、借金のかたに関係者を襲う行為をわざわざ禁じているということは、裏を返せば当時の市では力ずくで買い叩き、力ずくで取り立てるのが普通だったということです。

配り直されたのは、新しい特権だった

楽市令の中核にあったのは、地子の免除です。地子は、店を構えている土地にかかる税で、いまでいえば家賃に近いもの。免除されれば、その分だけ原価が軽くなります。

美濃の加納に出された制札には「借銭借米地子諸役免許」とあります。借金も税もまとめて帳消しにするから来い、ということです。移転の費用を払ってでも引っ越したほうが得になる。大名はこれを商人を集める誘い水に使いました。

免除の効き目がどれほどだったかは、大和という国の財政を見るとよくわかります。国としては豊かでも、権力者の手元に入る分は、こうした免除や寺社の権利で細くなっていました。裏返せば、免除は大名にとって身を切る誘い水です。

ここが大事なところで、免除は文書で与えられます。文書を持っている町と、持っていない町ができる。座の特権を壊した先にあったのは自由ではなく、城下町という新しい特権でした。

秀長の郡山は、その極端な例

天正十三年の十月、秀長は奈良での商売を禁じ、郡山で商いをするよう命じました。対象は味噌や酒や海草といった日用品にまで及びます。楽市とは逆で、郡山に商いを独占させる政策でした。

三年後の天正十六年の記録には、郡山の十三の町の名が並びます。本町、魚塩町、堺町、柳町、今井町、綿町、藺町、奈良町、雑穀町、茶町、材木町、紺屋町、豆腐町。これらが地子を免除された内町とされました。今井町、奈良町、堺町という町名は、移ってきた商人の出身地がそのまま残ったものです。

そしてこの十三町のうち、綿町や紺屋町などは、同業者に営業の独占を認められていました。紺屋町に与えられた文書にはこうあります。

他町ニ壱間もこうや不可相立候也

他の町には紺屋を一軒も立ててはならない、という意味です。寺の座を壊して、城下町の座を作った。これが箱本十三町のはじまりで、各町が持ち回りで朱印箱を預かり、火事や伝馬の役を順番に引き受ける自治の仕組みへ育っていきます。

いちばん強い看板は「御用」だった

座でも城下町でもない、もう一段上の立場があります。権力者の御用を務めることです。何が返ってきたかを見ると、戦国の商いの性格がはっきりします。

▶ 御用商人が得たもの
  • 今井宗久 信長に名物の茶壺と茶入を献上し、堺への矢銭の交渉をまとめた。見返りは摂津に二千二百石の領地、塩の徴収権、代官職、但馬の銀山の支配
  • 津田宗及 岐阜城で信長の名器を見ることを特に許された。秀吉からは三千石
  • 神屋宗湛 博多の商人。朝鮮への出兵で兵糧の集積にあたり、百石
  • 小西隆佐 堺の薬種商。秀吉の直轄領の代官に任じられた。息子が小西行長

報酬が、商いの利益ではありません。土地と徴税権と役職です。御用商人とは、商人が権力の財政の一部になることでした。

だからこそ、切れたら終わります。博多の島井宗室は朝鮮への出兵に反対して秀吉に睨まれました。保護ではなく、従属です。

そしてこの立場に近づく道は、ほぼ一つしかありませんでした。茶の湯です。名器を献上し、茶席に招かれ、席次に名を連ねる。広告が打てない世界で、茶室だけが唯一、権力者の前に出られる場所でした。茶の寺として建てられた慈光院のような建物が大和にも残っているのは、この時代の茶が趣味の域をはるかに超えていたからです。

値段を決めたのは、作った人ではなく持っていた人

▽ よく語られる話
良いものを作れば名が売れ、名が売れれば高く売れる。
▼ 史実ではこうです
戦国の名物の茶器は、作り手ではなく持ち主の名で呼ばれています。紹鷗茄子は武野紹鷗が持っていたから紹鷗茄子で、博多文琳は博多にあったから博多文琳です。初花肩衝は足利義政から信長、秀吉、家康へと渡った伝来そのものが値打ちでした。江戸期に刀の格付けをまとめた名物帳も、本阿弥家という家が保証することで権威になっています。価値を決めたのは品質ではなく、誰が持っていたか、誰が保証したかでした。

同じことは絵にも起きました。信長が安土城を描かせた屏風が値打ちを持ったのは、絵師の腕前よりも、信長が天皇に見せ、宣教師に贈った品だという経歴によってです。

現代のブランドとは向きが逆です。いまは作り手の名が商品に付きますが、当時は持ち主の名が商品に付きました。無名の商人がいくら良い品を作っても、名前が立つ経路が存在しません。

永徳がどこで筆を買ったかは、誰も書き残していない

ここまでを踏まえると、ひとつの空白が意味を持ちます。

狩野永徳は、信長の安土城から秀吉の大坂城、聚楽第まで、天下人の建物をほとんど一人の工房で引き受けた絵師です。襖も壁も天井も、何十面という単位で描いています。それだけの量を描けば、筆は相当に使ったはずです。

ところが、この人がどこの誰から筆を買っていたのか、記録がありません。絵の内容は『信長公記』の系統に書かれ、安土を描いた屏風がローマまで運ばれたことまで残っているのに、画材のことは誰も書いていない。

これは記録の取りこぼしというより、当時の価値観の表れでしょう。筆屋の名前は、書き留める値打ちのあるものではなかった。道具を作る者の名が残るようになるのは、もっとあとの時代です。

では、郡山の筆屋は何をすれば成功なのか

ここから先は、史料ではなく当時の仕組みからの推測です。

▶ 戦国の商人が取りうる手(推測)
  • 大口の客をつかむ 筆をいちばん使うのは役所。検地帳、年貢帳、普請の帳面を書く右筆が城にはいる。寺の需要を失った筆屋にとって、城は代わりの客になる
  • 地子免除で値段を下げる 内町に入れてもらえれば、同じ品を奈良より安く出せる
  • 独占の文書をもらう 紺屋町がそうだったように、町ぐるみで同業を囲い込む
  • 名のある人に使ってもらう 作り手の名では売れない以上、使い手の名を借りるしかない

最後のひとつが、いちばん効きます。天下一と呼ばれる絵師が使っている筆、という評判が立てば、それは当時のやり方での唯一の広告です。作り手の名が出ない時代に商品の名を立てるには、持ち主の名を借りるほかなかったのですから。

秀長の側から見れば、ひとりの筆屋を成功させることは目的ではありません。奈良に残っている商人たちに、郡山へ来れば商売になると見せることが目的です。秀長が実際にやっていた仕事は、こういう段取りの積み重ねでした。

まとめ

戦国の商いは、品物の勝負ではありませんでした。売る資格を持っているか、税を免じられているか、誰の御用を務めているか。すべてが文書と関係で決まります。座を壊した先にあったのも自由ではなく、城下町という新しい特権でした。

第三十八回「和を以て、大和をなす」は、その切り替わりの場面にあたります。奈良の豪商がなぜ動かなかったのかを押さえておくと、見え方が変わるはずです。

放送と再放送
本放送は日曜 午後8時(NHK総合)、日曜 午後6時(NHK BS)、日曜 午後0時15分(BSプレミアム4K)。再放送は翌週土曜 午後1時05分(NHK総合)と、日曜 午後6時(BSプレミアム4K)です。
  • URLをコピーしました!
目次