徳川と真田は何でもめていたのか:沼田をめぐる争いと、秀吉が出した「三分の二と三分の一」の裁定|『豊臣兄弟!』第39回

上田城/アクセス・地図・場所 真田昌幸が築城し徳川軍を散々苦しめた上田城

『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」の予告に、秀吉が徳川と真田に和睦を命じ、家康がそれを拒んで戦の支度を始める、という場面がありました。では、この二家はそもそも何でもめていたのでしょうか。

争点は、上野(いまの群馬県)の沼田ひとつです。真田昌幸が自分の力で切り取った土地を、家康が北条との講和の手札に使い、「北条へ渡せ」と命じた。昌幸は「もらった覚えのない土地は返せない」と拒んで徳川から離れ、天正十三年閏八月、第一次上田合戦で徳川勢を退けます。秀吉の和睦命令を家康が蹴ったのが、ちょうど第39回のあたり。決着がつくのは四年後、秀吉が沼田領を三分の二と三分の一に割る裁定を下したときでした。

▶ この記事でわかること
  • 徳川と真田の対立は、どこの土地をめぐる話だったのか
  • 「自分で取った土地」という昌幸の言い分は、当時どれくらい通る理屈だったのか
  • 第一次上田合戦で、家康は出陣していたのか
  • 秀吉の「和睦せよ」という命令は、史実のいつにあたるのか
  • 四年後の沼田裁定で、沼田はどう分けられたのか
放送と再放送
本放送は日曜 午後8時(NHK総合)、日曜 午後6時(NHK BS)、日曜 午後0時15分(BSプレミアム4K)。再放送は翌週土曜 午後1時05分(NHK総合)と、日曜 午後6時(BSプレミアム4K)です。
沼田をめぐる三すくみ ─ 天正十三年ごろ※位置関係をわかりやすくした模式図です。実際の地形・距離とは異なります信濃上野▲ 越後(上杉景勝)◀ 京・大坂(羽柴秀吉)▼ 相模(北条氏政・氏直)▼ 駿河・遠江(徳川家康)上田城真田昌幸の本拠真田氏本城小諸城沼田城ここが争点岩櫃城名胡桃城真田「自分で切り取った土地だ」北条「講和の約束だ」徳川「北条へ渡せ」
信濃の上田と、上野の沼田。昌幸は信濃に本拠を置きながら、山を越えた先の上野にも領地を持っていました
目次

もめごとの芯は、上野の沼田ひとつ

信濃の上田城に本拠を置いた真田昌幸は、山を越えた上野にも領地を持っていました。その中心が沼田城です。利根川と薄根川に挟まれた河岸段丘の上に建つ城で、関東平野から越後へ抜ける道を押さえています。北へ行けば越後の上杉、南へ下れば関東の北条。どちらの勢力にとっても、ここを持つか持たないかで動きが変わる場所でした。

昌幸がこの城を手に入れたのは天正八年のことです。武田勝頼のもとで上野方面を任され、沼田の在地勢力を切り崩して城を取りました。岩櫃城はその前線を支える城で、真田の上野支配はこの二つの城で成り立っています。つまり沼田は、誰かに与えられた領地ではなく、自分の軍勢で取った領地でした。この一点が、のちの対立の芯になります。

上田城の櫓門と石垣。桜の咲くなか、見学者が石段を上っている(真田昌幸が築いた信濃の城)
上田城。真田昌幸が築き、二度にわたって徳川の大軍を退けた城です

天正壬午の乱 ─ 主を失った武田領を三家が取り合う

天正十年三月に武田家が滅び、六月には本能寺の変で信長が倒れます。甲斐・信濃・上野は、わずか三か月で二度、主を失いました。この空白地帯に、徳川家康・北条氏直・上杉景勝の三家が同時に手を伸ばしたのが天正壬午の乱です。

昌幸はこの間、上杉につき、北条につき、最後に徳川についています。節操がないように見えますが、小勢力が生き延びる手としては理にかなっていました。真田家三代の歩みを追うと、この身の振り方は昌幸一代の性格ではなく、武田に仕える前からの家の作法だったことがわかります。

問題は、その年の十月に成立した徳川と北条の講和です。上野は北条、甲斐と信濃は徳川という線引きで手打ちになりました。家康にしてみれば、自分の取り分を確保するための当然の取引です。ところがこの線を引いた瞬間、上野にある沼田は「北条のもの」になってしまいました。

北条はなぜ沼田にこだわったのか ─ 家康とは舅と婿だった

ここで、三家のもう一方の当事者を見ておきます。相模の北条家です。

天正十年の講和のとき、徳川と北条は領土を分けただけではありませんでした。家康の娘・督姫が、北条氏直に嫁いでいます。徳川と北条は、この時点で舅と婿の間柄になったわけです。家康が昌幸にきつく沼田の引き渡しを迫ったのは、同盟相手との約束であると同時に、娘を嫁がせた家との約束でもあったからでした。昌幸ひとりの都合で反故にできる話ではありません。

そしてもう一人、当主の背後にいた人物がいます。北条氏政です。氏政は天正八年に家督を嫡男の氏直に譲っていましたが、隠居したあとも「御隠居様」として実権を握り続けました。当主は氏直、決めるのは氏政。沼田をめぐる北条側の強硬な姿勢は、この父の意向と見てよいでしょう。

▽ よく語られる話
沼田は上野の一地方にすぎず、北条が本気で欲しがるような土地ではなかった。
▼ 史実ではこうです
北条にとって沼田は、関東の北の出口でした。ここを押さえれば越後の上杉を遮断でき、押さえられなければ上杉の兵が関東平野へ降りてくる道を開けたままにすることになります。関東一円を手にした北条が、最後まで譲れなかった理由はここにあります。実際、秀吉の裁定で沼田城を得た翌年、北条方の家臣が真田領の名胡桃城まで奪いにいっているのは、この一帯を半分だけ持っていても意味がなかったからでした。
▷ 大河ドラマではこう描かれます
北条氏政を演じるのは谷原章介さんです。小田原北条家の四代目当主で、家督を嫡男の氏直に譲ったあとも「御隠居様」として関東一帯を動かし、天下一統を目指す秀吉たちの最後の敵として立ちはだかる役どころ、と発表されています。沼田の一件は、その氏政が物語の表に出てくる前ぶれにあたります。氏直の配役は、この記事を書いている時点では発表されていません。

北条と秀吉がどう衝突し、なぜ三か月も小田原城が持ちこたえたのかは小田原征伐で北条氏政はなぜ降伏しなかったのかに、城そのものの造りは小田原城:九キロの総構で町ごと囲んだ北条五代の城にまとめています。

「自分で取った土地を、なぜ返さねばならぬのか」

家康は昌幸に、沼田を北条へ引き渡すよう命じます。昌幸は断りました。理由は単純で、沼田は徳川からもらった土地ではないからです。

▽ よく語られる話
昌幸は欲に目がくらんで約束を破った、裏切りを重ねた「表裏比興の者」だった。
▼ 史実ではこうです
当時の武士にとって、自分の手で切り取った土地(切取り)と、主君から与えられた土地(恩給地)は別ものでした。恩給地なら主君の命で動かせますが、切取りの地まで主君が勝手に処分できるという理屈は、まだ当たり前ではありません。昌幸の言い分は、当時の感覚ではそれなりに筋が通っていました。もっとも家康の側にも、同盟相手の北条に約束した以上は履行させねばならないという立場があり、どちらかが一方的に無法だったわけではありません。

断られた家康は、天正十三年の夏に討伐を決めます。昌幸はただちに越後の上杉景勝へ使者を送り、次男の弁丸(のちの真田信繁)を人質に出して後ろ盾を得ました。北に上杉、南に徳川。挟まれた格好に見えて、実際にはどちらか一方と組めば、もう一方は背後を気にして動きにくくなるという場所でもあります。

第一次上田合戦 ─ 徳川勢の敗退と、出陣していない家康

天正十三年閏八月、徳川の軍勢が上田城へ向かいました。ここで押さえておきたいのは、家康自身は出陣していないことです。軍を率いたのは鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉。家康は浜松にいました。「家康が真田に負けた」と語られることが多い戦ですが、総大将が出てきた合戦ではありません。

戦いの中身は、城下に引き込んで叩くという昌幸のやり方がそのまま効いた形でした。上田城はなぜ落ちなかったのかと上田城の縄張と惣構えで、城と城下町を一体で使う仕掛けを見ていくと、兵力差がそのまま結果にならない理由が見えてきます。

上田城の櫓と石垣を芝生の園路ごしに見たところ。青空が広がっている
城と城下をひとつの罠として使うのが昌幸のやり方でした

そしてこの戦の二か月後、徳川家にもう一つの打撃が来ます。石川数正の出奔です。家老が秀吉のもとへ走り、徳川の軍の仕組みが筒抜けになりました。上田での敗北と数正の出奔が重なったことで、家康は真田にも秀吉にも強く出られない立場に追い込まれていきます。

秀吉の「和睦せよ」── 第39回はここにあたる

この騒ぎを、大坂から見ていたのが秀吉でした。第38回で秀長が大和に入り、郡山の町づくりを始めたのと同じ時期です。秀吉は天正十三年の十一月、家康と真田の双方に使者を送り、戦をやめるよう命じました。

家康はこれに応じません。応じないどころか、翌年の正月には秀吉のほうが家康攻めの軍を起こす構えに入ります。ところがその直前、天正十三年十一月二十九日(西暦では一五八六年一月十八日)の夜に天正地震が起きました。第40回の背景で書いたとおり、この地震が秀吉の出兵計画を壊し、結果として家康を救います。

▷ 大河ドラマではこう描かれます
第39回「茶々の本心」の予告では、秀吉が徳川と真田に和睦を命じ、家康が拒んで戦の支度を始める、という場面が出てきます。史実の時期で言えば天正十三年十一月、上田での敗戦と石川数正の出奔のあとにあたります。真田側の配役はまだ発表されていないため、昌幸が画面に出るのか、使者のやりとりとして語られるだけなのかは、放送を見るまでわかりません。

第39回の見どころはあらすじ予想と史実に、その後の流れは第38回以降の年表にまとめています。

四年後の沼田裁定 ─ 三分の二と三分の一

家康が大坂に出て秀吉に臣従したのは天正十四年十月。第41回の背景で扱う場面です。昌幸もこのころ秀吉の配下に組み入れられ、徳川に与力として付けられました。昌幸にしてみれば、争っていた相手の下につく形です。それでも領地は守られました。秀吉という上位の裁き手ができたことが、小勢力にとっては何よりの保険だったわけです。

そして天正十七年、秀吉はついに沼田の線引きを決めます。

秀吉の裁定(天正十七年)── 沼田領を分ける北条へ 三分の二(沼田城を含む)真田へ 三分の一▶ 真田が手放す分の代わりに、秀吉は信濃・伊那の箕輪を昌幸に与えました▶ 真田に残った三分の一には、名胡桃城が含まれていました
四年もめた末の決着。ただしこの線引きが、翌年の小田原攻めの引き金になります

沼田城を含む三分の二が北条、残る三分の一が真田。真田が失う分には、信濃・伊那の箕輪が代地として与えられました。四年もめた末に、両方の顔を立てて半端に割るという決着です。昌幸は沼田城そのものを失いましたが、名胡桃城は手元に残りました。

ところがこの線引きが、翌年の大事件を呼びます。北条方の家臣が真田領の名胡桃城を奪ったことで、秀吉は「天下の裁定を踏みにじった」として小田原攻めを起こしました。第38回以降の年表でたどると、沼田の一件が九州攻めと小田原攻めのあいだを静かにつないでいるのがわかります。

沼田城跡の公園に立つ石像。女性の座像と甲冑姿の立像が並び、まわりにツツジが咲いている
沼田城跡(群馬県沼田市)。のちにこの城を守った真田信之と妻の像が置かれています

この対立は、何を教えてくれるのか

沼田の一件は、戦国の終わりに何が起きていたかをよく表しています。それまでは、取った者が持つのが当たり前でした。ところが秀吉が出てくると、土地の持ち主を決めるのは、取った者ではなく裁く者に変わります。昌幸が秀吉につくのは、秀吉が強いからというより、裁いてくれる相手が現れたからでした。

同じことが大和でも起きています。第38回で秀長が興福寺の寺領を検地にかけ、奈良の座を壊して郡山へ商人を移したのも、古くからの既得権を、上から引き直すという同じ動きでした。沼田と大和で起きていたのは、別々の事件のようでいて、同じ時代の同じ力の現れです。

黒い板張りの鐘楼と、まわりに咲く桜(沼田城跡の公園)
沼田城跡の鐘楼。城そのものは江戸期に取り壊され、いまは公園になっています

よくある疑問

Q. 第一次上田合戦で、家康は上田まで来ていたのですか。
A. 来ていません。軍を率いたのは鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉で、家康自身は浜松にいました。

Q. 昌幸はなぜ何度も主君を替えたのですか。
A. 上杉・北条・徳川に挟まれた信濃の小勢力が、家と領地を残すための選択でした。秀吉が昌幸を「表裏比興の者」と評したと伝わりますが、これは非難というより、食えない相手だという評価に近いものです。

Q. 沼田はけっきょく誰のものになったのですか。
A. 天正十七年の裁定では三分の二が北条に渡りましたが、翌年に北条が滅びたことで、沼田は昌幸の長男・信之のものになります。沼田城はその後、真田信之の上野支配の拠点となりました。

Q. 真田の配役は発表されていますか。
A. この記事を書いている時点では、真田昌幸・信之・信繁のいずれも発表されていません。全話一覧とあわせて、発表があり次第こちらにも書き足していきます。

まとめ

▶ この記事のまとめ
  • 徳川と真田の対立の芯は、上野の沼田ひとつだった
  • 昌幸は沼田を自力で切り取っており、「もらっていない土地は返せない」という理屈で拒んだ
  • 天正十三年閏八月の第一次上田合戦で徳川勢は敗退。家康自身は出陣していない
  • 秀吉は同年十一月に和睦を命じたが家康は応じず、家康攻めを準備した秀吉は天正地震で計画を失った
  • 北条側で沼田にこだわったのは、家督を譲ったあとも実権を握った北条氏政(谷原章介)。氏直は家康の娘・督姫の夫で、徳川と北条は舅と婿の間柄だった
  • 天正十七年、秀吉は沼田領の三分の二を北条、三分の一を真田とし、代地に伊那の箕輪を与えた
  • この裁定を破る形で北条方が名胡桃城を奪い、小田原攻めの引き金になった
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