犬伏の別れとは|真田昌幸・信之・信繁(安藤政信が演じる幸村)はなぜ敵味方に分かれたのか ─ 上杉征伐の途中に届いた三成挙兵の知らせと、父子の決断

上田城/アクセス・地図・場所 真田昌幸が築城し徳川軍を散々苦しめた上田城
この記事のポイント
  • 犬伏の別れとは、慶長5年(1600)7月、家康の上杉征伐に従って東へ向かっていた真田昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村)の父子が、石田三成らの挙兵を知って話し合い、敵味方に分かれた出来事です
  • 昌幸と信繁は豊臣方(西軍)につくことを決めて上田へ引き返し、信之は徳川方(東軍)にとどまりました。場所は下野国の犬伏(いまの栃木県佐野市)と伝わりますが、近くの天明宿だったとする研究もあります
  • 分かれた理由としては、信之の妻が徳川の重臣・本多忠勝の娘、信繁の妻が豊臣の重臣・大谷吉継の娘だったこと、西軍が信濃一国を約束していたことなどが挙げられます
  • 「どちらが勝っても家が残るように示し合わせた」という話は有名ですが、父子の話し合いの中身を伝えるのは後世の軍記物だけで、本当のところはわかっていません

ドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』で、安藤政信さんが演じる真田幸村は、関ヶ原の戦いから14年のあいだ、紀伊の九度山に閉じ込められています。幸村がそこにいるのは、関ヶ原の年に父とともに豊臣方を選んだからで、その選択がなされたのが「犬伏の別れ」です。この記事では、家康が会津の上杉景勝を攻めることになった経緯から、真田父子が家康に従って東へ向かった道のり、途中で届いた三成挙兵の知らせ、そして父子が別々の道を選んだ決断までを順にたどります。

六文銭の旗と上田城の櫓
上田城跡(長野県上田市)にひるがえる六文銭の旗。犬伏で豊臣方を選んだ昌幸と信繁は、この城へ引き返しました
目次

上杉征伐とは ─ 家康はなぜ会津へ兵を向けたのか

慶長3年(1598)に豊臣秀吉が亡くなると、五大老の筆頭だった徳川家康が、政権の中で急速に力を強めていきました。一方、同じ五大老の上杉景勝は、越後から会津(いまの福島県会津若松市)へ移ったばかりで、領国で城の修築や道の整備を進めていました。これを謀反の準備と見た家康は、景勝に上洛して申し開きをするよう求めますが、景勝は応じず、上杉家の重臣・直江兼続が家康の求めをはねつける返書を送ったともいわれます(いわゆる「直江状」で、その内容がどこまで本物かについては議論があります)。

こうして家康は、豊臣家の大老として会津の上杉を討つという名目で兵を集め、慶長5年(1600)6月16日に大坂城を発って東へ向かいました。7月2日に江戸へ入った家康のもとには、東国や豊臣恩顧の大名たちが次々に従い、真田家もそのひとつでした。

真田父子、家康に従って東へ

このとき真田家は、昌幸が上田城(長野県上田市)、長男の信之(当時は信幸)が上野国の沼田城(群馬県沼田市)を本拠にしていました。昌幸と次男の信繁は上田から、信之は沼田から、それぞれ兵を率いて会津攻めの集合地である下野国の宇都宮方面を目指します。昌幸は碓氷峠を越えて上野へ入り、7月21日ごろには下野国の佐野のあたりに着陣したとみられます。真田家はかつて家康と上田で戦った間柄でしたが、このころは家康の指揮下に入る大名として、ほかの大名と同じく会津攻めに加わっていたのです(真田昌幸とは|「表裏比興の者」と呼ばれた知将)。

届いた密書 ─ 石田三成らの挙兵

家康が大坂を離れたすきに、石田三成は大谷吉継らと語らって兵を挙げました。7月17日、豊臣家の三奉行(長束正家・増田長盛・前田玄以)は、家康の非を十三か条にわたって並べた「内府ちがひの条々」をまとめ、諸大名に家康から離れて豊臣方につくよう呼びかけます。佐野に着いたばかりの昌幸のもとにも、その夜、この書状を持った使者が到着しました。

昌幸にとって、これは寝耳に水でした。三成は挙兵の計画を前もって昌幸に知らせておらず、のちに三成が昌幸に送った書状では、事前に相談しなかったことを詫び、家康が大坂にいるあいだは誰が味方か読めず、打ち明けられなかったと弁明しています。また、昌幸らの妻子は大坂にいて、大谷吉継が世話をしているので安心してほしい、とも書き添えています。大坂の屋敷に家族を残してきた大名にとって、西軍につくかどうかは、家族の身の安全とも切り離せない問題でした。

父子の話し合い ─ 犬伏の別れ

知らせを受けた昌幸は、信之と信繁を呼んで話し合い、その結果、昌幸と信繁は豊臣方につき、信之は徳川方にとどまることになりました。これが「犬伏の別れ」です。信之は、家康の呼びかけに応じて出陣してきた以上、いまさら背くことはできないと父をいさめたとされますが、昌幸の考えは変わりませんでした。

なぜ父子は分かれたのでしょうか。よく挙げられるのが、それぞれの妻の縁です。信之の妻・小松姫は徳川四天王の一人・本多忠勝の娘で、家康の養女として嫁いでおり、信繁の妻は三成の盟友・大谷吉継の娘でした。西軍が真田父子に信濃一国を与えると約束していたことも、昌幸の決断に大きく影響したと考えられています。また、かつて沼田の領地をめぐって家康と争い、上田城で徳川の大軍を退けた昌幸には、家康への根強い反感があったという見方もあります(徳川と真田がもめた沼田はどんな土地だったのか)。

なお、話し合いの場所は犬伏宿(栃木県佐野市犬伏新町)と伝わり、新町薬師堂がその場所とされていますが、昌幸と信繁は近くの天明宿に、信之は犬伏宿にいたとして、「天明の別れ」と呼ぶべきだとする研究者もいます。

▽ よく語られる話
昌幸は、どちらが勝っても真田の家が残るように、息子たちとあらかじめ示し合わせて東西に分かれた。
▼ 史実ではこうです
父子が話し合って別々の道を選んだことは確かですが、その中身を詳しく伝えるのは江戸時代に書かれた軍記物だけで、同じ時代の史料には残っていません。「家を残すための作戦だった」という見方はよく知られていますが、それぞれの立場や事情から分かれざるを得なかったとも考えられ、本当のところはわかっていません。

その後 ─ 上田へ戻る父子と、家康のもとに残った信之

昌幸と信繁は軍勢を引き返し、上田城へと戻っていきました。7月24日には徳川方もこの動きをつかみ、27日、家康は昌幸の離反を認めて改易を言い渡し、上田攻めを決めます。帰り道、昌幸が孫の顔を見ようと沼田城に立ち寄ったところ、留守を預かっていた小松姫が城の門を開けず、舅の昌幸を城に入れなかったという話も伝わっています。

9月、関ヶ原へ向かう徳川秀忠の大軍が上田城に迫ると、昌幸と信繁は城に籠もってこれを足止めし、秀忠は9月15日の関ヶ原の本戦に間に合いませんでした(第一次・第二次上田合戦 ─ 真田昌幸はなぜ二度も徳川を退けたのか)。このとき信之は秀忠の軍勢の中にいて、父と弟の側と向き合う立場に置かれていたのです。

犬伏の決断が分けた運命

関ヶ原の本戦は、わずか一日で東軍の勝利に終わりました。勝った側についた信之は父の旧領を受け継いで真田家を守り、負けた側の昌幸と信繁は、死罪を言い渡されたのち、信之らの嘆願で命を救われて紀伊の九度山へ流されます。そして十四年後、信繁は九度山を抜け出して大坂城に入り、兄の子どもたちと敵味方に分かれて戦うことになりました。犬伏での一夜の話し合いは、その後の真田家の二つの流れを決めた分かれ道だったのです(真田一族の歴史 ─ 幸隆から仙台へ逃れた大八まで)。

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よくある疑問

Q. 犬伏の別れとは何ですか?
A. 慶長5年(1600)7月、上杉征伐に向かう途中の真田昌幸・信之・信繁が、石田三成らの挙兵を知って話し合い、昌幸と信繁は豊臣方、信之は徳川方に分かれた出来事です。

Q. 犬伏はどこですか?
A. いまの栃木県佐野市犬伏新町のあたりで、新町薬師堂が話し合いの場所と伝わります。ただし、昌幸と信繁は近くの天明宿にいたとする研究もあります。

Q. なぜ信之だけが徳川方についたのですか?
A. 信之の妻が家康の養女として嫁いだ本多忠勝の娘だったことや、家康の呼びかけに応じて出陣した以上、背くべきではないと考えたことなどが挙げられます。

Q. 上杉征伐とは何ですか?
A. 秀吉の死後、会津の上杉景勝に謀反の疑いがあるとして、徳川家康が諸大名を率いて会津へ向かった出陣です。この途中で石田三成らが挙兵し、関ヶ原の戦いにつながりました。

Q. ドラマで真田幸村を演じるのは誰ですか?
A. 安藤政信さんです。ドラマは関ヶ原から14年後、九度山にいる幸村のもとから物語が始まります。

まとめ

犬伏の別れは、家康に従って会津へ向かう途中、思いがけず届いた三成挙兵の知らせを前に、真田父子が別々の道を選んだ出来事でした。妻の縁、領地の約束、家康への思いなど、理由はひとつではなかったはずですが、この夜の決断が、兄は徳川のもとで家を残し、父と弟は九度山へ流されるという運命を分けました。ドラマの幸村が九度山にいる理由をたどると、この一夜にゆき着きます。

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