三好信吉(豊臣秀次)の兄弟はどうなったのか:弟の秀勝・秀保と母とも、三年で三人の息子を失った秀吉の姉

農家の土間で母なかを囲む、とも・藤吉郎・小一郎・旭の四人きょうだいのイメージ(イラスト)

大河ドラマ『豊臣兄弟!』で、白山林で大敗した若き総大将として描かれた三好信吉(のちの豊臣秀次)。三好信吉には、同じ母から生まれた弟が二人いました。秀勝(ひでかつ)と秀保(ひでやす)です。三人の母は、秀吉と秀長の姉・ともでした。

秀吉に子がいなかった時代、この三兄弟は豊臣家を支える「身内」として次々に取り立てられます。ところが三人とも、わずか四年ほどのあいだに相次いでこの世を去りました。この記事では、秀次の兄弟がそれぞれどうなったのか、そして三人の息子すべてに先立たれた母・ともの生涯をたどります。

この記事のポイント
  • 秀次・秀勝・秀保の三兄弟の母は、秀吉と秀長の姉・とも(のちの瑞龍院日秀)。父は三好吉房
  • 次男の秀勝は秀吉の養子となり岐阜城主にまでなったが、文禄元年(1592)、朝鮮出兵の陣中で病死した
  • 三男の秀保は秀長の養子として大和豊臣家を継いだが、文禄四年(1595)四月、十七歳で急死した
  • 長男の秀次は同じ文禄四年の七月に切腹。母のともは三人の息子すべてに先立たれ、秀次の菩提を弔う瑞龍寺を建てた
  • ともの血は、秀勝の娘・完子(九条家へ)と、秀次の娘とされる隆清院(真田信繁の側室)の筋で後の世に続いたとされる。「木下」を名のる人々の多くは、ともではなく、ねねの実家の系統
目次

三兄弟の母・とも:秀吉と秀長の姉

三兄弟の母・ともは、秀吉と秀長の姉です。尾張の農村で弥助という男に嫁ぎ、のちに夫は三好吉房と名のりました。二人のあいだに生まれたのが、長男の秀次、次男の秀勝、三男の秀保です。

秀吉が出世していくと、ともの一家も秀吉に取り立てられました。子のいない秀吉にとって、姉の息子たちは数少ない血のつながった身内だったからです。秀吉と秀次の関係は秀吉と秀次はどういう関係だったのかでくわしく書いています。

長男・秀次:養子に出され、関白になり、切腹へ

長男の秀次は、若いころに二度、他家の養子に出されています。一度目は近江の宮部継潤のもとへ、二度目は阿波の三好康長のもとへ。「三好信吉」という名は、この二度目の養子入りのときのものです。その後、羽柴の名に戻り、天正十九年(1591)には秀吉の跡継ぎとして関白の座を譲られました。

しかし文禄二年(1593)に秀吉に実子の秀頼が生まれると、秀次の立場は揺らぎます。文禄四年(1595)七月、秀次は謀反の疑いをかけられて高野山で切腹し、妻子の多くも処刑されました。

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次男・秀勝:岐阜城主になり、朝鮮で病死

次男の秀勝は永禄十二年(1569)の生まれで、幼名を小吉といいました。秀吉には、織田信長の四男を養子に迎えた同じ名の「秀勝」がいましたが、その秀勝(於次)が天正十三年(1585)に若くして亡くなると、小吉がその名と立場を継ぐかたちで秀吉の養子となりました。

秀勝は丹波亀山城主となり、小田原攻めのあとには甲斐・信濃、さらに美濃へ移って岐阜城主となります。妻には、浅井三姉妹の末の妹・江(ごう)を迎えました。

ところが文禄元年(1592)、秀勝は朝鮮出兵に加わり、九月九日、朝鮮半島南岸の巨済島(唐島)の陣中で病死します。二十四歳でした。江とのあいだに生まれた娘・完子(さだこ)は、のちに姉の茶々(淀殿)に育てられ、公家の九条家に嫁いでいます。江のその後は浅井三姉妹のその後で書いています。

三男・秀保:大和豊臣家を継ぎ、十七歳で急死

三男の秀保は天正七年(1579)の生まれです。跡継ぎの男子に恵まれなかった叔父・秀長の養子となり、秀長の娘と結ばれて、大和・紀伊を領する大和豊臣家を継ぎました。「大和中納言」と呼ばれています。

しかし文禄四年(1595)四月、秀保は大和の山深い十津川で急死します。十七歳でした。死因は溺死とも病死とも伝わり、はっきりしません。子はなく、秀長が築いた百万石の家はここで絶えました。秀保と秀長家のその後は豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのかで、秀保に嫁いだ秀長の娘については末(すえ)のモデルは誰?で書いています。

四年のうちに三人とも:母・ともの晩年

こうして、秀勝が文禄元年九月に、秀保が文禄四年四月に、秀次が同じ年の七月に亡くなりました。わずか三年足らずのうちに、ともは三人の息子すべてを失ったことになります。夫の三好吉房も、秀次事件に連座して讃岐へ流されました。

ともは秀次の死をきっかけに出家し、瑞龍院日秀と名のります。そして秀次の菩提を弔うため、京都の村雲に瑞龍寺を建てました。この寺は「村雲御所」とも呼ばれ、昭和三十六年(1961)に、かつて秀次が築いた近江八幡の八幡山城跡の山頂へ移されています。息子が城主だった山の上で、いまも秀次の菩提が弔われているのです。

ともは寛永二年(1625)、九十歳を超える長寿をまっとうして亡くなりました。豊臣家が大坂の陣で滅びるのも見届けたことになります。

ともの子孫はどうなったのか:孫娘たちがつないだ血

三兄弟の家は、男子の家としてはいずれも絶えました。三男の秀保には子がなく、長男の秀次の男子は秀次事件で幼い子まで処刑されています。それでも、ともの血は孫娘たちを通じて後の世に続いたとされます。

一つ目は、次男・秀勝の娘・完子(さだこ)の筋です。秀勝と江のあいだに生まれた完子は、母の江が徳川秀忠に嫁いだあと、伯母の茶々(淀殿)に引き取られて大坂城で育ちました。のちに公家の九条幸家に嫁ぎ、その子孫は九条家をはじめ、東本願寺の門主の家などに続いています。ともの血が確かに受け継がれた筋として、よく知られています。

二つ目は、長男・秀次の娘の筋です。秀次事件では妻子三十九人が処刑されましたが、そのなかで難を逃れた娘もいたと伝わります。その一人とされるのが隆清院(たか)です。隆清院は関ヶ原の戦いのあと、九度山に流されていた真田信繁(幸村)の側室となり、娘の御田姫(なほ)と、男子の三好幸信を産んだとされます。

御田姫は出羽の大名・岩城宣隆の側室となり、三好幸信は岩城家に仕えました。幸信が名のった「三好」は、祖父の秀次がかつて「三好信吉」と名のった、その三好の姓です。ただし、隆清院を秀次の娘とすること自体に異説もあり、この筋は「と伝わる」話として受け止めておくのがよいでしょう。

ともの子として確かな史料で生涯がたどれるのは三人の男子で、娘がいたかどうかははっきりしません。ともの血は、息子たちではなく、孫娘たちによって後の世につながったことになります。

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「木下」を名のった人々は誰の系統か

豊臣家の周辺には「木下」を名のる人物が多く登場しますが、その多くはともの系統ではなく、秀吉の正室・ねね(北政所)の実家の系統です。

ねねの実家はもともと杉原(すぎはら)氏でした。ねねの兄・家定は、秀吉がかつて名のっていた「木下」の姓に改めて木下家定と名のり、秀吉の一族として取り立てられます。家定の子には、歌人として名高い木下勝俊(長嘯子)、木下利房、木下延俊、そして秀吉の養子となった小早川秀秋がいました。小早川秀秋が秀次の兄弟ではなく、ねねの甥にあたるのはこのためです。

家定の家は江戸時代も大名として続き、備中足守藩(いまの岡山市)の木下家と、延俊が開いた豊後日出藩(いまの大分県日出町)の木下家は、どちらも幕末まで続きました。豊臣の本家が大坂の陣で滅びたのに対し、ねねの実家の木下家は生き延びたのです。秀吉の養子たちの関係は三好信吉(豊臣秀次)と秀吉の養子たちの関係図で整理しています。

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まとめ

秀次の兄弟は、同じ母・ともから生まれた秀勝と秀保の二人です。次男の秀勝は秀吉の養子として岐阜城主にまでなりましたが、朝鮮出兵の陣中で病死しました。三男の秀保は秀長の養子として大和豊臣家を継ぎましたが、十七歳で急死しました。そして長男の秀次も切腹し、三兄弟は三年足らずのうちに全員この世を去りました。

秀吉の後継ぎ候補は、この三兄弟のほかにもいました。秀吉の養子たちがどうなったのかは、関係図つきの三好信吉(豊臣秀次)と秀吉の養子たちでまとめています。秀次事件の経緯は秀次事件をわかりやすく解説で書いています。

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