桑名城(扇城):本多忠勝が築いた伊勢の玄関口 七里の渡しと慶長の町割り

七里の渡跡に建つ蟠龍櫓

【桑名城(扇城)とは】

三重県桑名市吉之丸にある桑名城は、揖斐川の河口、伊勢湾に面して築かれた水城である。海に向かって開いたその姿から「扇城(おうぎじょう)」と呼ばれた。東海道で唯一の海路「七里の渡し」の船着き場を抱え、伊勢国の玄関口を押さえる要衝であり、四層の天守と五十一の櫓を備えた名城として知られた。城を築き、城下町を 設計したのは徳川四天王の一人・本多忠勝である。いまは九華公園として堀と石垣が残り、七里の渡跡には蟠龍櫓が再建されている。

三重県指定史跡 桑名城跡の石柱

九華公園に建つ「桑名城跡」の石柱

【本多忠勝と慶長の町割り】

慶長六年(1601)、徳川家康は上総大多喜十万石の本多忠勝を桑名へ移し、初代桑名藩主とした。家康が東海道を整備した翌年のことで、桑名が軍事と商業の両面でいかに重視されていたかがわかる。生涯五十七度の合戦で一度も傷を負わなかったと伝わる猛将は、晩年、この地で町づくりに腕を振るった。

忠勝はただちに築城と城下町の整備に着手する。世に言う「慶長の町割り」である。城郭と居住区を堀で区切り、湊町・城下町・宿場町の三つの顔をあわせもつ町を設計した。桑名宿は東海道四十二番目の宿場として、旅籠数は東海道第二位、脇本陣数は第一位という規模にまで発展していく。

桑名城 本多忠勝公の像

九華公園に立つ本多忠勝の像。大多喜城から移り、桑名の町をつくった

【天守を失った城】

本多家ののち、桑名には松平(久松)定勝が入り、以後は久松松平家と奥平松平家が交代で治めた。転機は元禄十四年(1701)である。城下を襲った大火で四層の天守が焼け落ちた。以後、天守が再建されることはなく、本丸東南に建つ三重の辰巳櫓が城のシンボルとなる。

桑名城 辰巳櫓跡の案内板

辰巳櫓跡の案内板。天守を失ったのち、この三重櫓が城の象徴となった

【七里の渡しと蟠龍櫓】

桑名を語るうえで欠かせないのが「七里の渡し」である。東海道は宮宿(名古屋市熱田区)と桑名宿のあいだだけ、海路で結ばれていた。伊勢湾を渡る七里の船旅の終着点が、この城の足元だったのである。渡し場に立つ「伊勢国一の鳥居」は、伊勢神宮の式年遷宮のたびに宇治橋の鳥居が移されてくるならわしになっている。

その渡し場を見下ろすように建つのが蟠龍櫓だ。水門を兼ねた櫓で、海から桑名に入る者が最初に目にする建物だった。歌川広重の『東海道五十三次』桑名宿にも描かれている。現在の建物は平成十五年(2003)に水門管理所として外観復元されたものである。

七里の渡跡に建つ蟠龍櫓

七里の渡跡に建つ蟠龍櫓。海からの玄関口を守った櫓が、いまも同じ場所に建つ

桑名城 蟠龍櫓を横から

横から見た蟠龍櫓。屋根の上には龍が据えられている

【幕末の桑名藩】

幕末、桑名藩は歴史の渦の中心にいた。第十八代藩主・松平定敬は京都所司代を務め、京都守護職だった会津若松城の松平容保の実弟である。兄弟が京都の治安の要職に並んで就き、幕府の最後を支えた。

鳥羽・伏見の戦いに敗れると、定敬は江戸から会津へ、さらに箱館五稜郭まで転戦して戦い続ける。一方、国元の桑名では鎮国守国神社のおみくじによって抗戦と出たものの、藩論は分かれ、最終的に城は無血で開かれた。城は明治に破却され、いま公園に残る大砲や石垣が、海に開いた城の記憶を伝えている。

桑名城跡に置かれた大砲

公園に置かれた大砲。海に面した城であったことを思い出させる

【桑名城・場所・アクセス】
〒511-0032 三重県桑名市吉之丸(九華公園)

【桑名城地図】

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