前田利家はなぜ賤ヶ岳で退いたのか:裏切りか生き残りか 加賀百万石への分岐点

前田利家像:織田信長の家臣にて荒子城主でもあった前田利家像(荒子駅前)【史跡 日本の歴史】
この記事のポイント

  • 前田利家は柴田勝家の家臣ではなく、信長が勝家に付けた与力(寄騎)だった
  • 賤ヶ岳では茂山に布陣しながら戦わずに府中へ退き、勝家軍の崩壊を決定づけた
  • 利家は秀吉方に加わったわけでもなく、いったん戦場から降りるという第三の道を選んでいる
  • この判断が加賀百万石につながり、十六年後の利家の死が関ヶ原の引き金になった

天正十一年(1583)四月二十一日、賤ヶ岳の戦況が動いたとき、柴田方の茂山に布陣していた前田利家の軍勢は、戦わずに戦場を離れた。この撤退が勝家軍の崩壊を決定的にする。

この行動は「利家の裏切り」として語られることが多い。だが利家が勝家の何であったかを確かめると、裏切りという言葉があまり正確ではないことが見えてくる。

金沢城

賤ヶ岳の後、利家が入った金沢城。ここから加賀百万石が始まる(石川県金沢市)

目次

与力であって、家臣ではない

利家は尾張荒子城主・前田利春の四男として生まれ、少年期から信長に仕えた。赤母衣衆の一人で、「槍の又左」と呼ばれた槍働きの人である。同朋衆の拾阿弥を斬って出仕停止となり、無断で戦に加わって功を立てて帰参した話は有名だろう。

天正三年(1575)、越前が平定されると、利家は佐々成政・不破光治とともに府中三万三千石ほどを与えられ、いわゆる越前府中三人衆となる。天正九年には能登一国を与えられた。

ここで重要なのは、彼らが柴田勝家に「付けられた」という点である。信長は北陸方面軍を編成するにあたり、勝家の下に彼らを与力として配属した。利家の主君はあくまで信長であり、勝家との関係は組織上の配属であって、代々の主従ではない。所領も信長から直接与えられている。

配属を保証していた人が、いなくなった

この構造は、信長が生きているあいだは強固に機能する。誰も配属を勝手に離れられない。信長がそれを許さないからだ。

本能寺の変は、この保証を消した。方面軍という枠組みを作り、誰を誰の下に置くかを決めていた人物が、いなくなったのである。清須会議以降の織田家中の混乱は、単なる後継者争いではなく、配属関係の根拠が失われた状態と見たほうが実態に近い。

利家にとって、勝家に従い続ける法的な根拠は本能寺の時点で消えていた。同時に、秀吉に従う根拠もまだ存在しない。彼はどちらにも属していない状態で、二人の争いに巻き込まれたことになる。

茂山を降りるという選択

賤ヶ岳の戦いで利家は茂山に陣を置いていた。佐久間盛政が大岩山を抜き、勝家の撤退命令を無視して前線に留まり、そこへ秀吉が美濃から取って返す。戦況が崩れた瞬間、利家は兵をまとめて府中へ引いた。

注意したいのは、彼が秀吉方に転じて勝家軍を攻撃したわけではない、という点である。矛を向けもせず、ただ戦場から降りた。裏切りというより、参加の取りやめに近い。とはいえ北国勢の一翼が消えた影響は決定的で、勝家軍はここから総崩れになる。

松任城跡

松任城跡。賤ヶ岳の恩賞として利家の嫡男・利長が拝領した(石川県白山市)

敗走した勝家は府中城に立ち寄り、利家に礼を述べて北ノ庄へ向かったと伝えられる。後世の編纂物に基づく話で、そのまま史実とはできない。ただ、この逸話が長く語り継がれてきたこと自体は無視できない。当時の人々もまた、利家の行動を単純な裏切りとは受け取っていなかったということだからである。

府中三人衆の、三つの結末

越前府中に置かれた三人衆――前田利家、佐々成政、不破光治は、同じ立場から出発しながら、まったく違う終わり方をした。この三人を並べると、賤ヶ岳での利家の判断が何を分けたのかが見えてくる。

佐々成政は越中に入り、賤ヶ岳の後も秀吉に屈しなかった。天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いに呼応して家康との連携を図り、真冬の北アルプスを越えて浜松へ向かったという「さらさら越え」の逸話が残る。だが構想は実らず、翌年に降伏。のちに肥後一国を与えられたものの国人一揆を抑えられず、天正十六年に切腹を命じられた。

不破光治は天正九年頃までに没したとみられ、子の直光が家督を継いだが、家は大きくならなかった。

戦い続けた者が滅び、いったん降りた者が百万石を残した。利家の選択を「消極的」と評するのはたやすいが、同じ立場の同僚が二人とも消えているという事実は重い。

大河で描かれない話

利家と秀吉は、清洲時代からの隣人だった。屋敷が近く、まつとねねも親しい。北政所ねねとまつの交際は生涯続いており、賤ヶ岳の判断がこの縁と無関係だったとは考えにくい。

もう一つ、利家には武辺者らしくない一面がある。算盤を手放さず、収支を細かく把握していたという話が『利家夜話』などに残る。加賀百万石が江戸期を通じて安定したのは、この気質と無縁ではないだろう。金沢城の石垣を見て歩くと、それぞれの時代の積み方が几帳面に区別されているのが分かる。

金沢城の石垣

金沢城に残る石垣。積み方の違いから改修の時期を読み取ることができる

よくある質問

Q. 前田利家は柴田勝家の家臣だったのですか。
A. いいえ。信長が北陸方面軍を編成する際に勝家へ付けた与力(寄騎)で、所領は信長から直接与えられていました。代々仕えた主従関係ではありません。

Q. なぜ賤ヶ岳で戦わずに退いたのですか。
A. 佐久間盛政の突出で戦線が崩れた段階の判断で、秀吉方に転じて攻撃したわけではありません。旧知の秀吉との関係、能登・越前の所領を守る必要など、複数の要因が重なったと考えられます。

Q. 利家は裏切り者と呼ばれないのですか。
A. 小早川秀秋のように戦場で寝返って味方を攻撃したわけではないため、後世の評価は比較的穏やかです。ただし勝家軍の崩壊を招いた責任は残ります。

Q. 賤ヶ岳のあと、利家はどうなりましたか。
A. 秀吉に降って加賀二郡を加増され、金沢城に入りました。のちに五大老の一人となり、慶長四年(1599)に没します。その死が関ヶ原へ向かう均衡の崩壊を招きました。

Q. 同じ府中三人衆の佐々成政はどうなりましたか。
A. 越中で秀吉に抵抗し、小牧・長久手に呼応して家康との連携を図りましたが失敗。のちに肥後を与えられたものの一揆を抑えられず、天正十六年(1588)に切腹を命じられました。

ゆかりの地をめぐる

  • 金沢城(石川県金沢市)… 賤ヶ岳の後に利家が入った城。兼六園と並ぶ加賀百万石の中心
  • 松任城(石川県白山市)… 賤ヶ岳の恩賞として嫡男・利長が拝領した城
  • 北ノ庄城(福井県福井市)… 利家が離脱した後、勝家が最期を迎えた城
  • 前田利家像(愛知県名古屋市・荒子駅前)… 利家の生地に立つ像

人物の詳細は日本の武将ガイドの前田利家柴田勝家もあわせてご覧ください。

まとめ

前田利家の賤ヶ岳での行動を「裏切り」と呼ぶとき、私たちは無意識に、利家が勝家の家臣だったと前提している。実際にはそうではない。信長が作った配属関係は、信長の死とともに効力を失っていた。

利家が選んだのは、勝家に殉じることでも、秀吉に売り込むことでもなく、いったん降りることだった。この身の処し方は柴田勝家の生き方とちょうど対照をなしている。そして十六年後、その利家が世を去ったとき、豊臣政権はもう一つの均衡を失うことになる。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次