根来衆とは何者だったのか:津田監物が持ち帰った鉄砲と、弾痕の残る国宝大塔

根来寺を背に、柵の内側から火縄銃を構える根来衆の鉄砲隊(イメージイラスト)
この記事のポイント
  • 根来衆は、和歌山の根来寺を拠点とした僧兵集団です。最盛期には寺領七十二万石、僧兵一万余と伝わる
  • 種子島に伝来したばかりの火縄銃を、根来寺の門前にいた津田監物が一挺持ち帰ったと伝わります。ここから僧兵の鉄砲隊が生まれた
  • 信長とは石山合戦で協力するなど、むしろ友好的でした。敵対したのは秀吉である
  • 天正十三年(1585)三月二十三日、根来寺は焼けました。秀吉が大坂城を出てわずか二日後である
  • 誰が火をつけたのかは、いまも確定していない

戦国の紀伊には、大名がいなかったのです。その代わりに、鉄砲を持った集団がいました。

根来衆(ねごろしゅう)と雑賀衆(さいかしゅう)です。とくに根来衆は、寺を拠点とする僧兵の集団でありながら、当時最新の火器を大量に持っていましました。祈る人々が、同時に撃つ人々でもあったのです。

秀吉が紀州を攻めたとき、最初に潰したのがこの根来寺です。ここでは、その集団が何者だったのかを見ていきます。

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覚鑁がひらいた寺が、なぜ武装したのか

根来寺の始まりは、意外なほど古いものです。

平安時代後期、高野山の僧・覚鑁(かくばん)が、大治五年(1130)に高野山内へ小伝法院を建てたのが起点です。のちに高野山を離れ、根来の地に移りました。新義真言宗の総本山にあたります。

学問の寺として出発したこの寺が、なぜ武装したのか。

理由は、当時の宗教勢力が置かれた立場にあります。広い寺領を持つということは、それを守る力を自前で持つということでもあったのです。比叡山も、高野山も、本願寺も同じです。荘園を持てば年貢が入り、年貢が入れば人を養えます。人を養えば、兵になります。

寺領七十二万石、僧兵一万余

室町末期の根来寺の規模は、数字で見るとよくわかります。

  • 坊舎は四百五十(一説には二千七百とも)
  • 寺領は七十二万石
  • 僧兵は一万余

七十二万石という数字を、大名と比べてみます。加賀百万石の前田家に迫り、当時の有力大名を上回る規模です。もはや寺というより、ひとつの国でした。実際、根来は「一大宗教都市」と表現されます。

そこに一万の兵がいて、しかも鉄砲を持っています。秀吉から見れば、これは近畿の真ん中に居座る武装国家です。

種子島から鉄砲を持ち帰った、津田監物

天文12年(1543)、種子島に鉄砲が伝わります。その翌年ごろ、種子島に渡って鉄砲を一挺持ち帰ったと伝わるのが、津田監物算長(つだ けんもつ かずなが)です。算長は紀伊国那賀郡小倉荘の土豪で、楠木正成の子孫を名のる津田氏の出とされ、根来寺の子院・杉之坊の院主だった明算は算長の弟だと伝えられてきました(近年は、明算を別の家の出とみる研究もあります)。算長は杉之坊の意を受けて種子島に渡った、ともいわれます。

小舟の上で火縄銃を構える紀州の鉄砲衆のイメージ(イラスト)
紀州の鉄砲衆のイメージ(イラスト)。根来衆や雑賀衆は、早くから鉄砲を組織して使った集団でした。記録をもとに描いた想像図です。

持ち帰った鉄砲は、根来の門前の坂本にいた鍛冶・芝辻清右衛門に写させたと伝わり、紀州ではほかに例がないほど早く鉄砲が作られるようになりましました。算長は鉄砲の撃ち方を伝える「津田流砲術」の祖ともされ、永禄10年(1567)の暮れに亡くなっています。こうして根来の僧兵たちは、日本で最も早く鉄砲を組織して使う集団のひとつになりましました。

▽ よく語られる話
日本の本土で最初に鉄砲を作ったのは根来で、それは津田監物が種子島から一挺持ち帰ったからです。
▼ 史実ではこうです
算長が種子島に渡ったことを直接示す同時代の史料は見つかっておらず、話のもとは江戸時代に書かれた『鉄炮記』や、芝辻家に伝わる由緒書などです。ただ、根来衆や雑賀衆が早くから鉄砲を大量に使っていたことは確かで、紀州が鉄砲の先進地だったことは動きません。

根来衆はやがて傭兵としても各地に出ていきます。鉄砲を持ち、扱いを知っている集団は、この時代いくらでも需要がありましました。

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赤尾木城(種子島城):種子島氏が代々治めた鉄砲伝来の地

その一挺が日本に入ってきた場所です。

信長とは組み、秀吉とは戦った

ここは誤解されやすいところです。

根来衆は、織田信長の敵ではなかったのです。石山合戦では信長に協力するなど、むしろ友好的な関係を築いています。

敵対したのは、雑賀衆のほうです。石山合戦で本願寺方につき、鉄砲で織田軍を苦しめました。信長は雑賀を攻めて一応の降伏を得たものの、根を絶つには至らなかったのです。

ところが秀吉の代になると、立場が入れ替わります。

小牧・長久手で秀吉と家康が対峙していた時期、根来衆・雑賀衆は徳川方に通じました。岸和田城を攻め、南摂津への侵攻をはかっています。

秀吉にとっては、背後を突かれた形です。そして翌年、紀州征伐が始まりました。

岸和田城:根来衆・雑賀衆が徳川方に通じて攻めた城

岸和田城(大阪府岸和田市)。小牧・長久手の時期、根来衆・雑賀衆はこの城を攻めました。

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豊臣兄弟!第34〜35回 史実解説|小牧・長久手はなぜ痛み分けに終わったのか

根来衆が背後を突いた、その戦役の全体像です。

天正十三年三月二十三日 ─ 二日で焼けた

紀州征伐は速いものでした。

天正十三年(1585)三月二十一日、秀吉は大坂城を出陣しました。

そして三月二十三日、根来寺は兵火にあいます。大塔や大師堂など数棟を残して、伽藍のほとんどが焼け落ちました。

出陣から、わずか二日です。

四百五十とも二千七百ともいわれた坊舎が、二日で消えました。寺領七十二万石、僧兵一万余という規模が、まったく抵抗として機能していません。

ここに、この時代の変わり目が出ています。鉄砲を早く持ったことは強みだったが、それだけでは統一政権の動員力に対抗できなかったのです。

誰が火をつけたのか

▽ よく語られる話
秀吉が根来寺に火を放って焼き払いました。
▼ 史実ではこうです
出火の原因については、秀吉軍による放火、寺側による自焼、兵の乱暴による失火など複数の説があり、確定していません。「秀吉が焼いた」と言い切れる史料的な裏づけがあるわけではない、というのが現状です。

ただし、原因がどれであれ、結果は変わりません。秀吉が来たから焼けたのは事実です。

焼け残った大塔に、弾痕がある

この記事でいちばん書きたかったのが、ここです。

根来寺の大塔(多宝塔)

根来寺の大塔。天正の兵火を焼け残った(写真:663highland/CC BY 2.5)

焼失を免れた建物のひとつが大塔(多宝塔)で、現在は国宝に指定されています。

そしてこの大塔の基部には、火縄銃の弾痕が残っています。

鉄砲を日本でいち早く手にした寺が、鉄砲で撃たれた痕を残したまま、四百年以上そこに立っています。建物そのものが、根来衆の始まりと終わりを両方記録していることになります。

その後 ─ 太田城へ

根来寺が焼けたあと、秀吉は雑賀へ向かいました。拠点は次々に落ちていきます。

そして最後に残ったのが、太田城でした。ここで秀吉は突撃を選ばず、総延長五〜六キロの堤を築いて水攻めにします。一ヶ月かけて、刀を抜かずに落としました。

鉄砲を持つ集団が籠もる城に突っ込めば、寄せ手も相応に死にます。水攻めという選択そのものが、根来・雑賀の鉄砲を秀吉がどれだけ警戒していたかの証拠です。

太田城跡(和歌山市):紀州征伐で最後に残り水攻めで落ちた城

太田城跡(和歌山県和歌山市)。紀州征伐の最後に残り、水攻めで落ちた城。

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なぜ秀吉は太田城を水攻めにしたのか:総延長五〜六キロの堤と、紀州征伐の一ヶ月

紀州征伐の最後の一ヶ月を、堤の数字から追った記事です。

ちなみに、秀吉の水攻めはこれが最初ではありません。三年前の備中高松城が一度目です。十二日で築いた堤の大きさは、発掘調査で『太閤記』の記述とずれていることがわかっています。

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高野山はなぜ秀吉に焼かれなかったのか:根来寺は二日で焼け、高野山は木食応其の交渉で残った

同じ紀伊の武装した寺なのに、なぜ高野山だけが残ったのか。秀吉が突きつけた三つの条件と、木食応其の交渉です。

現地はいま

根来寺そのものは和歌山県岩出市にあり、国宝の大塔をはじめ、焼け残った建物が現存しています。

よくある疑問

Q. 根来衆と雑賀衆は、どう違うのですか?
A. 根来衆は根来寺を拠点とする僧兵集団、雑賀衆は紀ノ川河口一帯の地侍の連合体です。どちらも鉄砲で武装していましたが、母体が寺か在地武士かという違いがあります。信長との関係も逆で、根来は協力的、雑賀は敵対的でしました。

Q. 寺領七十二万石は本当ですか?
A. そう伝わる数字です。坊舎の数も四百五十とも二千七百とも言われ、幅があります。当時の記録に基づく推計なので、幅を含んだ数字として受け取るのが安全です。

Q. 根来寺はいま参拝できますか?
A. できます。和歌山県岩出市にあり、国宝の大塔が現存しています。焼き討ちを免れた建物です。

Q. なぜ秀吉はここまで徹底したのですか?
A. 大名なら当主を降せば家臣団ごと屈服しますが、根来・雑賀には「降す相手」がいませんでしました。地縁と信仰で結びついた集団で、しかも鉄砲を持っています。組織の頭を叩くという方法が使えなかったのです。

紀州平定のあと和歌山城の縄張りを担ったのが藤堂高虎でした。藤堂高虎とは:七度主君を替えた男が、最初に築いたのは秀長の和歌山城だったにまとめています。

まとめ

根来衆は、時代の変わり目にいちばん早く適応して、いちばん早く追い越された集団だったと思います。

種子島に鉄砲が来た直後にそれを持ち帰り、僧兵に持たせました。この判断の速さは驚くべきものです。おかげで彼らは数十年にわたって、誰にも屈しない存在でいられましました。

だが天正十三年、その優位はあっさり崩れます。個々の火器の性能ではなく、動員できる人と時間の総量で決まる戦争に、時代が移っていましました。

焼け残った大塔の基部には、いまも弾痕があります。鉄砲をいちばん早く手にした寺が、鉄砲に撃たれた痕を残して立っています。これ以上に雄弁な遺構は、そう多くありません。

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