徳島城跡:阿波青石で積まれた石垣と、上田宗箇がつくったと伝わる庭

徳島城:豊臣秀吉の四国征伐の恩賞として蜂須賀家政が配領した阿波徳島城

徳島城の石垣は、青い色をしています。阿波青石と呼ばれる緑色片岩を積んでいるからで、雨に濡れるとその青みがさらに濃くなります。城を築いたのは蜂須賀家政。秀吉の四国攻めの恩賞として阿波一国を与えられ、吉野川の河口に近い渭山(いのやま)とその周辺に城を構えました。この城について語られることのひとつに、阿波踊りは築城の祝いから始まったという話があります。ただし、それを裏づける記録は見つかっていません。

この記事のポイント
  • 石垣は阿波青石(緑色片岩)。全国でもここまで青い石垣は珍しい
  • 山頂に本丸、山麓に御殿を置く構え。城域は川と海に囲まれていた
  • 蜂須賀家政が四国攻めの恩賞として阿波を得て築いた
  • 表御殿庭園は国の名勝。茶人・上田宗箇の作と伝わる
  • 阿波踊りが築城祝いに始まったという話に、史料の裏づけはない
目次

青石の城 ― 阿波の石垣

徳島城跡の内堀と青みを帯びた石垣

堀の水面に沿って続く石垣。積まれた石は平たく板状で、緑がかった青い色をしている。表面には苔とシダが張りついている。

写真の石をよく見てください。丸みのある花崗岩ではなく、平たく板のように割れた石が積まれています。これが阿波青石、地質学でいう緑色片岩です。四国を東西に走る三波川帯という地層から採れる石で、層に沿ってきれいに剥がれる性質があります。板状なので大きな面で噛み合い、積み上げると独特の表情が出る。そして濡れると青緑色が浮き上がります。この石は阿波の各地で使われていて、一宮城の石垣も同じ青石です。石垣の色は、その土地の地面の色でもある。飫肥城が飫肥石という凝灰岩で築かれ、琉球のグスクが石灰岩で積まれたのと同じで、城は足元にある石で決まります。

細川、三好、長宗我部 ― 阿波を通り過ぎた者たち

徳島城跡の堀と石垣、柳の並木

橋の欄干越しに見た堀。水面は静かで、対岸には青石の石垣と柳が続いている。

徳島城の場所には、蜂須賀以前から城の基礎がありました。室町期に阿波の守護となった細川氏が渭山に城を構えたのがはじまりです。その細川氏の重臣から身を起こしたのが三好長慶で、阿波・讃岐から畿内まで勢力を広げ、一時は将軍を京から追うほどの力を持ちました。三好氏の阿波における本拠は勝瑞城で、土塁を持たない館型の城として知られています。その三好が衰えると、土佐から長宗我部元親が攻め上がってきて阿波・讃岐を制圧しました。ところがその元親も、秀吉の四国攻めによって土佐一国へ押し戻されます。守護から重臣へ、重臣から土佐の国人へ、そして天下人へ。阿波の支配者は百年ほどのあいだに何度も入れ替わりました。その最後に残ったのが蜂須賀家です。

蜂須賀家政と、阿波十七万石

徳島城跡に復元された鷲の門

広い砂利敷きの向こうに建つ木造の門。両脇に低い番所のような建物が付き、背後には現代のビルが見える。

四国攻めの論功行賞で阿波一国を与えられたのは蜂須賀家政です。父の蜂須賀正勝(小六)は秀吉の草創期から仕えた重臣で、墨俣の一夜城の逸話でも知られます。もっとも、小六が野盗の頭目だったという話は江戸期の読み物で広まったもので、実際には木曽川流域の土豪だったとみられています。墨俣一夜城は本当にあったのかでも触れたとおり、秀吉の初期については後から足された話が多く、小六の人物像もその影響を受けています。家政はこの阿波で城と城下町を整え、以後、蜂須賀家は明治維新まで一度も国替えなく徳島を治め続けました。江戸時代を通じて同じ家が同じ土地にいたという藩は、実はそれほど多くありません。写真の鷲の門は城の表口にあたる門で、明治の廃城後も残っていましたが戦災で焼け、のちに木造で復元されました。

山の城と、麓の城

徳島城は、ひとつの城でありながら二層構造になっています。標高六十メートルほどの渭山の上に本丸をはじめとする曲輪を置き、その麓に藩主の御殿と庭園を構えました。戦のときは山へ、ふだんは麓で、という組み合わせは萩城や岩国城にも見られる江戸初期の形です。おもしろいのは天守の位置で、徳島城の天守は本丸ではなく、その一段下の東二の丸に建てられていたと伝わります。本丸に天守を置かないという例は珍しく、理由ははっきりしません。城全体は助任川と寺島川に囲まれた中州に近い地形にあり、水がそのまま外堀の役目を果たしていました。いまも堀の石垣には舌石(したいし)と呼ばれる、水面へ突き出した石が残っています。塀を支えるための構造だったとされ、これも他ではあまり見かけない遺構です。

阿波踊りは築城祝いから始まったのか

▽ よく語られる話

蜂須賀家政が徳島城の完成を祝い、領民に酒をふるまって好きに踊れと許した。それが阿波踊りの始まりである。

▼ 史実ではこうです

よく知られた話ですが、当時の記録に見えるものではありません。阿波踊りの起源については、盆踊りが発展したという説、風流踊りの流れをくむという説、組踊りから来たという説などがあり、定まっていません。築城祝い説は、藩と踊りを結びつけたい後世の発想から生まれたとみられています。ただし、阿波の踊りが江戸期を通じて盛んで、藩が取り締まったり許したりを繰り返した記録は残っています。踊りが藩の関心事だったことは確かで、そこから逆算して城との関係が語られるようになったのでしょう。

上田宗箇がつくったと伝わる庭

徳島城跡に建つ御殿風の建物と芝地、石垣

緑の芝地の向こうに、瓦屋根の低い建物が二棟並ぶ。手前には青石を積んだ低い石垣がめぐらされている。

徳島城でぜひ見ておきたいのが、山麓の表御殿にあった庭園です。枯山水と築山泉水を組み合わせた庭で、国の名勝に指定されています。作庭したのは上田宗箇と伝わります。宗箇は武将でありながら茶人として名を成した人物で、蜂須賀家政に仕えた時期がありました。この庭でも、やはり阿波青石が主役です。板状に割れる石の性質を生かして、巨石を立て、橋として渡し、水の流れを表す。花崗岩の丸みとはまったく違う、鋭く硬質な庭ができあがりました。石垣と庭で同じ石を使っているのですから、城全体がひとつの石でできているようなものです。千利休の弟子たちがそれぞれの土地で茶と作庭を残したように、宗箇の仕事もまた、この時代の武将たちが持っていたもうひとつの顔を伝えています。

訪ね方と見どころ

所在地は徳島県徳島市徳島町城内。日本100名城の七十六番で、JR徳島駅のすぐ裏手です。駅から歩いて数分という近さは全国でも屈指でしょう。まず鷲の門から入り、堀沿いを歩いてください。青石の石垣が水に映る眺めが、この城のいちばんの見どころです。次に表御殿庭園へ。有料ですが、青石を立てた庭は他では見られません。時間と体力があれば城山に登ってください。標高六十メートルほどで、十五分ほどで本丸跡に着きます。上には建物はなく、平坦地と石垣が残るだけですが、ここから吉野川の河口と眉山を見わたすと、この城が川と海に守られていたことがわかります。徳島城博物館では蜂須賀家の資料や、藩主の御座船が展示されています。日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。

徳島城跡・場所とアクセス

〒770-0851 徳島県徳島市徳島町城内

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