琉球のグスク:今帰仁城・座喜味城・勝連城・中城城 ― 本土より百年早く積まれた曲線の石垣とアーチ門

座喜味城

沖縄には「城」と書いてグスクと読む石積みの遺構が、大小あわせて三百か所ほど残っています。今帰仁(なきじん)、座喜味(ざきみ)、勝連(かつれん)、中城(なかぐすく)。いずれも本土でいう戦国時代よりさらに前、室町のはじめごろにはもう高い石垣を積み上げていました。本土の城が土を掘って盛るだけだった時代に、琉球ではアーチ型の門をくぐって曲線の石垣の上を歩けたのです。しかもグスクは単なる砦ではなく、どの城にも御嶽(うたき)という祈りの場が組みこまれていて、軍事施設なのか聖域なのか、いまも意見が分かれています。

この記事のポイント
  • グスクの石垣は、本土で高石垣が現れるより百年以上早い
  • 直線ではなく曲線で積まれるのは、琉球石灰岩という石の性質による
  • 座喜味城と中城城を築いた護佐丸は、勝連城の阿麻和利に攻められて自害した
  • グスクの中には必ず御嶽があり、城郭説・集落説・聖域説がいまも並び立つ
  • 今帰仁城・中城城・首里城が日本100名城、座喜味城と勝連城は続日本100名城
目次

グスクとは何か ― 「城」と書いてグスクと読む

グスクという言葉は、沖縄や奄美の各地に地名として残っています。漢字を当てるときは「城」と書くのがふつうで、今帰仁城も勝連城も、地元では「なきじんグスク」「かつれんグスク」と読まれます。ただ、この「城」を本土の城とそのまま同じものだと考えると、いくつも説明のつかないことが出てきます。まず数が多い。沖縄本島とまわりの島々をあわせて三百を超えるとされ、島の規模に対して明らかに過剰です。次に、多くのグスクの中に御嶽(うたき)と呼ばれる祈りの場があり、そこは戦いとは関係なく、いまも人が手を合わせに来る。そして、石垣を持たない小さなグスクには、人が住んだ形跡より墓のような痕跡が濃いものもあります。囲って守るという行為そのものは、弥生時代の環壕集落だった吉野ヶ里遺跡まで遡れば日本列島のどこにでもありましたが、琉球のグスクはそこに祈りが分かちがたく混ざっているところが、本土の城と決定的に違います。

なぜ琉球の石垣は本土より早く、そして曲線なのか

中城城跡の高石垣とアーチ門

中城城跡。切りそろえた石をびっしり積み上げた高石垣と、右手に石造りのアーチ門が見える。

本土で高い石垣が城の主役になるのは織田信長の安土城のころ、つまり十六世紀の後半です。ところが琉球では、それより百年以上さかのぼる時期にすでに高石垣が積まれていました。理由のひとつは石そのものにあります。沖縄本島の台地をつくっている琉球石灰岩は、サンゴの遺骸が積み重なってできた岩で、掘り出した直後はやわらかく、金属の道具がなくても加工できる。それが空気にさらされるうちに硬くなっていくという、石垣にはあつらえたような性質を持っています。加工しやすいので石を細かく削って合わせることができ、隙間なく組み上げた壁は雨の多い島でも崩れにくい。そしてもうひとつが地形です。グスクは石灰岩の台地の縁に築かれることが多く、その縁は直線ではなく複雑に入りくんでいます。地形に沿って積んでいけば、石垣はおのずと曲線を描く。今帰仁城の城壁がうねりながら尾根を走っていくのは、設計者の趣味ではなく、地面の形をそのままなぞった結果です。積み方は大きく三つに分けられ、自然石をそのまま重ねる野面積み、直方体にそろえて横目地を通す布積み、五角形や六角形に加工して噛み合わせる相方積み(あいかたづみ)へと、時代が下るほど手がこんでいきます。石垣を見て「どの積み方か」がわかると、そのグスクがいつごろのものかもおおよそ見当がつくのです。

三山時代 ― 島が三つに割れていたころ

グスクが次々と築かれた十四世紀ごろ、沖縄本島はひとつにまとまっていませんでした。北部を北山(ほくざん)、中部を中山(ちゅうざん)、南部を南山(なんざん)が押さえ、それぞれが別々に中国の明へ使者を送って冊封を受けています。これを三山時代と呼びます。各地の按司(あじ=地域の有力者)が自分のグスクに拠って勢力を競い、その頂点に三つの王がいたという構図です。この分立に終止符を打ったのが中山の尚巴志(しょうはし)で、まず南山を、次いで北山を攻め落とし、本島を統一して琉球王国をひらきました。このとき落とされた北山の拠点が今帰仁城です。統一後の琉球は明との朝貢貿易を軸に、東シナ海から東南アジアまで船を出す中継貿易国として栄えていきます。グスクの石垣が急速に高く、大きくなっていくのは、まさにこの富が流れこんだ時期でした。

今帰仁城 ― 北山王が拠った、島いちばんの城壁

今帰仁城跡の尾根を走る曲線の石垣

今帰仁城跡。うねりながら尾根を登っていく外郭の石垣。手前の草地には礎石らしい石が点々と並び、遠くに海が見える。

本島北部、本部(もとぶ)半島の丘陵に築かれた今帰仁城は、外周がおよそ一・五キロにおよぶ大きなグスクです。写真のとおり石垣はまっすぐな区間がほとんどなく、尾根の形に沿って波打ちながら伸びていきます。積み方は古い野面積みが主体で、そのぶん人の手が入りすぎておらず、山そのものが石で固められたように見える。ここを本拠にしていたのが北山王で、最後の王・攀安知(はんあんち)のとき中山の尚巴志に攻められ、北山は滅びました。落城後も今帰仁は北部一帯を治める監守の居所として使われ続けます。城の内部には主郭のほか御嶽が複数あり、いまも祭祀の場として生きているのは他のグスクと同じです。個別の詳しい歴史は今帰仁城の記事にまとめています。

座喜味城 ― 護佐丸が築いた、沖縄最古とされるアーチ門

座喜味城跡の石垣にうがたれたアーチ門と石段

座喜味城跡。石垣にうがたれた二つのアーチ門と、郭へ上がる石段。低い城壁の向こうに集落と海が広がる。

読谷(よみたん)の高台に立つ座喜味城は、按司の護佐丸(ごさまる)が築いたと伝えられます。規模は今帰仁城ほど大きくありませんが、石垣の精度が明らかに高く、写真に写っている二つのアーチ門は、沖縄に現存するアーチ門のなかでも最も古い部類とされています。アーチの頂点にくさび形の石をはめて左右から押し合わせる構造で、木の梁を使わずに開口部をつくれる。同じ発想の門は中国や東南アジアにもあり、琉球が海を越えて技術を受け取っていたことがうかがえます。護佐丸はもともと今帰仁城を攻める側におり、北山が滅びたあとは北部の守りを任され、のちにこの座喜味へ移ったと伝わります。築城の巧みさで名を残した人物ですが、その腕がのちに自分の運命を決めることになりました。吉野ヶ里遺跡の壕や柵とくらべると、同じ「囲う」でも千年のあいだに技術がどこまで届いたかがよくわかります。

勝連城 ― 海に向かって開いた按司、阿麻和利

勝連城跡の標柱と、段をなして積み上がる曲輪の石垣

勝連城跡。手前に「勝連城跡」と刻まれた標柱が立ち、その奥に段をなして積み上がる曲輪が見える。

勝連城は本島中部、太平洋へ突き出した勝連半島のつけ根の丘に築かれています。写真のように、細長い丘を段々に削って郭を重ねた造りで、頂上の一の郭からは中城湾を一望できる。この城を拠点にしたのが阿麻和利(あまわり)です。勝連は良港をひかえていて海上交易で潤い、発掘では中国の陶磁器だけでなく、遠く西アジアに由来するとみられるガラス玉まで出土しています。一按司の城から出るものとしては明らかに格が違い、阿麻和利が独自に海の道を握っていたことがわかる。海を押さえた者が力を持つという図式は琉球にかぎった話ではなく、対馬で宗氏が代々おさめた金石城も、朝鮮との交易を握ることで成り立った城でした。ただし交易の富は、首里の王府から見れば警戒すべき力でもあります。阿麻和利と王府のあいだが緊張していったのは、ほとんど必然でした。

中城城 ― 護佐丸の最期と、ペリーが測った石垣

王府は、力をつけた阿麻和利を抑えるために、築城の名手である護佐丸を座喜味から中城へ移します。勝連城のすぐ西、中城湾を挟んで睨み合う位置です。護佐丸は既存の城に郭を足して大きく改修し、六つの郭が連なる現在の姿にしました。ところがある夜、阿麻和利は「護佐丸に謀反の企てあり」と王府に訴え、王命を得た軍勢を率いて中城を囲みます。護佐丸は王の軍に弓を引くことを拒み、妻子とともに自害したと伝えられます。しかもこの騒動の後、今度は阿麻和利自身が王府に討たれてしまう。築城の名手と海の按司が数年のうちに相次いで消え、王府の力だけが残りました。残された中城城の石垣は、野面積み・布積み・相方積みの三種類が郭ごとに見分けられる、教科書のような遺構です。のちに黒船で知られるペリーの艦隊が琉球に立ち寄った際、一行はこの城を訪れて実測し、その石積みの精度を高く評価した記録を残しています。今帰仁城の荒々しい野面積みと中城城の整った石垣を見くらべると、グスクの技術がどれほど進んだかが一目でわかります。

グスクは城だったのか、それとも聖域だったのか

▽ よく語られる話

グスクは按司たちが互いに争った時代の城である。高い石垣と郭がある以上、用途は本土の城と同じ、つまり戦うための施設だ。

▼ 史実ではこうです

今帰仁城や中城城のような大型グスクが軍事的な拠点だったことは、規模からも記録からも動きません。問題は、石垣を持たない小さなグスクまで同じ説明でくくれるのかという点です。研究では大きく三つの見方があり、按司の居城とみる城郭説、人が住んだ集落の跡とみる集落説、そして御嶽を中心とする祈りの場だったとみる聖域説が並び立っています。実際にはグスクごとに性格が違い、時代とともに役割が移っていったと考えるのが自然でしょう。少なくとも、どのグスクにも御嶽が組みこまれているという事実は、戦いだけでは説明がつきません。

島津の琉球侵攻と、グスクのその後

琉球王国の独立した時代は、江戸幕府が開かれてまもなく終わります。慶長十四年、薩摩の島津氏が兵を送って琉球へ攻め入り、国王の尚寧(しょうねい)を捕らえて薩摩へ連れ帰りました。以後の琉球は薩摩の支配を受けながら、中国への朝貢も続けるという、いわゆる両属の状態に置かれます。この侵攻を主導した島津氏が代々本城とした内城は、ちょうど当主が義久から忠恒へ移ったころで、新しい当主にとって琉球は家中を束ねるだけの成果が必要な相手でもありました。おもしろいのは、琉球へ攻め入りたがったのが島津だけではなかったことです。豊臣政権のころ、因幡鹿野の城主だった亀井茲矩(かめいこれのり)は秀吉に琉球攻めを願い出て、いちおうの許しを得ています。大型の戦船まで用意していたと伝えられますが、政権が徳川に移るとこの話は流れ、結局は島津の手に落ちました。侵攻後、グスクの多くは軍事拠点としての役目を失い、御嶽としての性格だけを残して静かに時を重ねていきます。首里城が王府として機能しつづけた一方、今帰仁や中城、勝連は石垣だけの遺構になりました。逆にいえば、そのおかげで改築されず、築かれたときの積み方がそのまま残ったのです。

世界遺産と日本100名城 ― 四つのグスクの現在

今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡の四つは、首里城跡や玉陵(たまうどぅん)、斎場御嶽(せーふぁうたき)などとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されています。日本100名城のほうでは今帰仁城が九十八番、中城城が九十九番、首里城が百番に選ばれ、座喜味城と勝連城は続日本100名城に入りました。つまり本島のグスクを訪ねるなら、二つのスタンプ帳を持っていくことになります。石垣しか残っていない城が高く評価されるのは、天守という完成形を持たなかった城にも独自の到達点があるからで、この見方は日本100名城の一覧を眺めると納得しやすいはずです。

訪ね方と見どころ

四つのグスクはいずれも沖縄本島にあり、車なら一日で二つか三つはまわれます。北部の今帰仁城は本部半島にあって、美ら海水族館とあわせて訪ねる人が多い。中部の座喜味城は読谷村にあり、入場に料金がかからず、石垣の上を歩けるのが魅力です。勝連城はうるま市で、頂上の一の郭からの眺めがとにかく良い。中城城は中城村と北中城村にまたがり、三種類の積み方を見くらべるならここが一番です。見るときのこつは、まず石の形に目を向けること。自然石のままか、四角く整えてあるか、五角形や六角形に噛み合わせてあるか。それだけで、その郭がいつごろ積まれたものかの見当がつきます。次にアーチ門をくぐったら真上を見上げて、頂点のくさび石を確かめてみてください。木を一本も使わずに石だけで開口部を支えている、その理屈が実物でわかります。沖縄をふくむ九州・沖縄のお城と城跡の一覧もあわせてどうぞ。

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