飫肥城は、宮崎県日南市にある城です。この城がほかと違うのは、伊東氏と島津氏が八十年とも百年ともいわれる長さでこの一か所を奪い合い続けたこと。日本の城で、これほど長く同じ場所が争われた例はほとんどありません。しかも一度は伊東氏が日向を追われ、家そのものが消えかかりながら、秀吉のもとで復活してこの城へ戻ってきます。関ヶ原でも九州の大名では珍しく東軍について家を残し、明治まで十四代続きました。城跡には飫肥石を積んだ石垣と、復元された大手門が残っています。
- 伊東氏と島津氏が八十年以上にわたって奪い合った城
- 伊東義祐は日向を追われたが、子の祐兵が秀吉のもとで飫肥を取り戻した
- 関ヶ原では九州の大名として珍しく東軍につき、明治まで十四代続いた
- 曲輪が独立して並ぶ群郭式の縄張で、石垣は地元の飫肥石
- 藩の財政を支えたのは飫肥杉。城下からは外交官の小村寿太郎が出た
八十年つづいた奪い合い

広く緩やかな石段が城内へ続く。右手は石垣とその上の白壁で、石は地元で採れる飫肥石。
この争いのなかで伊東氏の最盛期を築いたのが伊東義祐です。日向に四十八の城を配して支配を広げ、高鍋城や宮崎城もその拠点でした。ところが木崎原の戦いで島津義弘に大敗すると流れが変わり、家臣の離反が続いて、ついに義祐は日向を捨てて豊後へ逃れます。これを伊東崩れと呼びます。島津は勢いのまま九州のほとんどを押さえ、内城を本拠とする島津氏が九州統一に手が届くところまで迫りました。
伊東祐兵の復活 ― 秀吉のもとで取り戻した城

復元された大手門。石垣の上に白壁の櫓を載せた構えで、正面にまっすぐ道が通っている。
日向を失った伊東氏はそこで終わりませんでした。義祐の子・祐兵は流浪の末に豊臣秀吉に仕え、九州攻めの際には土地に明るい者として道案内をつとめます。島津を退けた秀吉は戦後の所領を割り振り、祐兵に旧領の飫肥を与えました。八十年争い続けた城が、中央の政権の一筆で決まったわけです。石高は五万石あまり。一度は家名が消えかけた大名が、天下人に仕えることで本拠地ごと取り戻した例は、そう多くありません。秀吉の九州平定が九州の勢力図をどう塗り替えたかは、飫肥城の返還ひとつを見てもわかります。そして伊東氏は関ヶ原でも判断を誤りませんでした。九州の大名の多くが西軍に傾くなか、伊東祐兵は東軍につき、そのまま所領を安堵されます。以後、明治まで十四代。争奪の城が、最も安定した城のひとつになりました。
群郭式の縄張と、飫肥石の石垣

石垣にはさまれた門を下から見上げる。石は角ばった大ぶりの切石で、その上に白い塀がめぐる。
飫肥城の縄張は、本丸・松尾の丸・中の丸・旧本丸といった曲輪が、それぞれ独立して並ぶ形をとっています。これを群郭式と呼びます。ふつうの近世城郭は本丸を中心に二の丸・三の丸が同心円状に取り囲みますが、飫肥城はそうではなく、シラス台地が谷で細かく刻まれた地形にあわせて、台地の上のひとつひとつに曲輪を載せている。曲輪と曲輪のあいだは深い空堀になっていて、ひとつが落ちても隣はまだ落ちません。石垣に使われているのは飫肥石という地元産の凝灰岩で、加工しやすく、写真のように角をきちんと出した積み方ができます。石が身近にあったからこそ、この地方の城は早くから石を使えました。石がない土地でどうしたかは、石垣をひとつも使わなかった佐倉城と見くらべると、はっきりします。
藩を支えた飫肥杉

城内に続く白壁の塀と、瓦を載せた門。石段の先に建物が並び、支柱で支えられた木が立っている。
五万石あまりの藩が二百六十年を持ちこたえるには、米だけでは足りません。飫肥藩を支えたのは杉でした。藩は領内に杉の植林を奨励し、育った材木を船に積んで売りに出します。飫肥杉は油分が多くて水に強く、しなやかで折れにくいため、船の材として重宝されました。とくに弁甲材と呼ばれる船底や船体に使う材は高く売れ、藩の財政を支え続けます。山に木を植えるという投資は、実を結ぶまでに何十年もかかる。それを藩の政策として代々続けたところに、この土地の粘り強さが表れています。城下町にいまも残る白壁と石垣の町並みは、その木の収入があったからこそ整えられたものでした。
飫肥から出た小村寿太郎
この城下町からは、近代日本の外交を背負った人物が出ています。小村寿太郎です。飫肥藩士の家に生まれ、藩校で学び、やがて外務大臣として日露戦争後の講和会議に臨みました。賠償金を取れずに国内から激しい批判を浴びた交渉ですが、疲弊しきった国力のなかで領土と権益をどこまで確保するかという、きわめて現実的な仕事でもありました。城下には小村寿太郎の生家跡と記念館があり、城跡めぐりとあわせて訪ねられます。九州の小さな藩の城下から、そういう人物が出る。平戸城の城下から『甲子夜話』の松浦静山が出たのと同じで、藩の規模と人物の大きさは比例しないのだということがよくわかります。
廃城と、よみがえった大手門

大手門を斜めから見る。石垣の上に白壁の櫓を載せ、下は太い柱と厚い扉。門の脇には案内板が立つ。
明治の廃城令で、飫肥城の建物も取り払われました。城跡は学校や役所の敷地となり、残ったのは石垣と空堀、そして曲輪の形だけです。ところが飫肥の場合、そこから先が違いました。城下町の武家屋敷が壊されずにまとまって残っていたため、町全体を守ろうという動きが起こり、その流れのなかで城の大手門が木造で復元されます。写真の門がそれで、鉄筋を使わず、昔ながらの工法で建て直されました。続いて松尾の丸には江戸初期の書院造の御殿が復元され、内部を歩けるようになっています。城跡だけを切り離して整備するのではなく、町ごと保存するという考え方は、当時としてはかなり早い判断でした。丸亀城のように現存建物が残った城とは別の道で、飫肥は城下町の姿を今日まで届けています。
訪ね方と見どころ
所在地は宮崎県日南市飫肥。日本100名城の九十六番です。JR日南線の飫肥駅から歩いて十五分ほど。城跡へ向かう前に、まず城下町を歩くことをおすすめします。武家屋敷の白壁と石垣、水路、そして立派な門が連なる一角は、九州でも屈指の保存状態で、ここを歩いてから城へ入ると藩の姿が立体的に見えてきます。城では復元された大手門をくぐり、幅の広い石段を登って松尾の丸へ。松尾の丸には江戸初期の書院造の御殿が復元されていて、中を歩けます。旧本丸まで足を伸ばすと、そこは杉木立に覆われた静かな平坦地で、飫肥杉の林のなかに立つと、この土地が何で成り立ってきたかが体でわかるはずです。九州・沖縄のお城と城跡の一覧と日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。
飫肥城跡・場所とアクセス
〒889-2535 宮崎県日南市飫肥10-1-2
