岩国城跡:完成から七年で壊された南蛮造りの天守と、幕末まで藩と認められなかった吉川家

錦帯橋ごしに見上げた雨の岩国城天守

岩国城は、関ヶ原の戦いのあと吉川広家が横山の山上に築いた城です。ところが完成からわずか七年で、一国一城令によって天守も櫓も取り壊されてしまいました。城としての寿命が七年しかなかった例は、全国を見てもそう多くありません。しかもこの地を治めた岩国吉川家は、幕末になるまで正式な藩として認められませんでした。三万石以上の領地を持ち、城まで築いたのに、大名の列に加えてもらえなかった。関ヶ原でのある判断が、二百五十年にわたって尾を引いたのです。

この記事のポイント
  • 吉川広家が築いた城。完成から七年で一国一城令により破却された
  • 天守は最上階が張り出す南蛮造り(唐造り)だった
  • 岩国吉川家は幕末まで正式な藩として認められなかった
  • 麓の居館「御土居」跡が吉香公園、山頂に再建天守が建つ
  • 錦帯橋は城の完成から六十年以上あとに架けられたもの
目次

関ヶ原で吉川広家がしたこと

岩国城と吉川家のあゆみ年できごと慶長五年関ヶ原の戦い。吉川広家は徳川方と通じ、毛利本隊を動かさなかった慶長五年毛利は防長二国へ減封。広家は岩国三万石を預かる慶長七年横山の山上と麓で築城を開始慶長十三年岩国城が完成。天守は最上階が張り出す南蛮造り元和元年一国一城令により、完成から七年で天守を破却延宝元年吉川広嘉が錦帯橋を架ける慶応四年岩国吉川家がようやく正式に藩と認められる

吉川広家は毛利元就の孫にあたり、毛利家を支える両川(りょうせん)の一方、吉川家を継いだ人物です。関ヶ原の戦いで毛利輝元は西軍の総大将にかつぎ上げられましたが、広家は徳川方と密かに通じ、南宮山に布陣した毛利勢を最後まで動かしませんでした。広家の狙いは、毛利本家の領地を守ることにあります。戦後、家康は毛利の所領安堵をいったん約束したものの、輝元が西軍の中心にいた証拠が出てきたことで話が変わり、毛利は中国八か国から周防・長門の二か国へ大幅に減らされました。このとき家康は広家個人に周防国を与えようとしたと伝わりますが、広家はそれを辞退して毛利本家に譲り、自分は岩国三万石を預かる立場に収まります。同じ関ヶ原で寝返った小早川秀秋が二十一歳で急死したのとくらべると、広家の選択はずっと地味ですが、家を残すという一点では確実に成果を上げました。ただしこの一件が、のちのちまで毛利本家との関係に影を落とすことになります。

山上の城と、麓の御土居

岩国城跡の木の門と石段

城域へ入る木の門。太い柱に横木を渡した簡素な構えで、両側に橋の欄干が付く。門をくぐった先は石を敷いた道になっている。

広家が選んだのは、錦川が大きく蛇行してつくった横山という山でした。三方を川が囲み、残る一方が山続きという地形で、天然の堀を持つ山城になります。城は山上の本丸を中心に、二の丸・北の丸・曲輪が尾根に沿って並ぶ形。そして麓には御土居(おどい)と呼ばれる居館を築き、日常の政務や住まいはこちらで行いました。戦のときだけ山に籠もるという、中世以来の山城と居館の組み合わせです。ところが江戸時代に入って戦がなくなると、この形式そのものが時代遅れになっていきます。同じ毛利家中でも、本家は日本海に面した萩城を新たに築いて政庁としました。写真の大手門は、山上へ上がる道の途中にある門を復元したものです。

南蛮造りの天守と、七年で終わった城

岩国城の天守を横から見た南蛮造りの張り出し

横から見た天守。上の階が下の階より外へ張り出しているのがわかる。これが南蛮造り(唐造り)と呼ばれる形で、いま建っているのは昭和に再建された建物。

慶長十三年に完成した岩国城の天守は、南蛮造り(唐造り)と呼ばれる特殊な形をしていました。最上階が下の階よりも外へ張り出す造りで、同じ形式の天守は小倉城や高松城など、西国にいくつか例があるだけです。張り出した分だけ真下が見え、石垣に取りついた敵を上から狙える。見た目の奇抜さだけでなく、実用の理屈もある形でした。ところがその天守は、完成してわずか七年後、元和元年の一国一城令によって取り壊されます。一国一城令は大名の居城を一つに限る法令で、毛利家の城は萩城ひとつと定められた以上、岩国城は残せません。しかも岩国は毛利家の領内ですから、吉川家に選択の余地はありませんでした。三万石の身代で山上に城を築き、七年で自ら壊す。この城は、戦国が終わったという事実を最も短い時間で突きつけられた城の一つです。同じころ幕府の側は、福山城のように十万石の大名に不釣り合いなほど大きな城を築かせています。壊させる城と築かせる城の線引きが、そのまま新しい秩序の地図でした。

藩と認められなかった二百五十年

雨に濡れた岩国城跡の北の丸

雨の日の北の丸。木立に囲まれた平坦地で、いまは何も建っていない。ここに屋敷が並んでいたのは、わずか七年だった。

▽ よく語られる話

岩国吉川家は三万石を領し、城まで持っていたのだから、当然ひとつの藩として扱われていた。

▼ 史実ではこうです

岩国吉川家が正式に藩として認められたのは、幕末も終わりに近い慶応四年のことでした。それまでは毛利本家の家臣という扱いで、幕府の大名の列には加えられていません。理由は関ヶ原にあります。広家が徳川方と通じたことが、毛利本家からは裏切りと受け取られ、本家は吉川家を独立した大名として幕府に届け出ようとしませんでした。広家の判断は毛利という家を救いましたが、その恩は代を重ねるうちに忘れられ、残ったのは「本家を売った家」という見方のほうだった。二百五十年という時間の長さが、この確執の深さを物語っています。毛利という家がどこから来たのかは、元就が飛躍の足がかりにした吉田郡山城の記事で追えます。

錦帯橋は、城が壊されたあとに架けられた

錦帯橋ごしに見上げた雨の岩国城天守

錦帯橋の反り橋ごしに見上げた岩国城。雨のなか、山の上に天守が浮かんで見える。

岩国といえば錦帯橋を思い浮かべる人がほとんどでしょう。五つの木のアーチが連なるあの橋は、しかし城と同じ時代のものではありません。架けられたのは延宝元年、三代の吉川広嘉の代で、城の天守が壊されてから六十年近くあとのことです。錦川は大水のたびに橋を押し流してしまう川で、何度架けても流される。その繰り返しに終止符を打つために考え出されたのが、川の中に石の橋脚を築き、そのあいだを木の反り橋でつなぐという構造でした。橋は戦のためではなく、御土居と城下町、そして家臣の屋敷をつなぐ日常の道として必要とされたのです。城を失った吉川家が次に力を注いだのが橋だったというのは、時代の変わり方をよく表しています。守るための普請から、暮らしのための普請へ。岩国ではその転換が、目に見える形で残りました。

いまの岩国城と、山頂の再建天守

石垣の上に建つ岩国城の天守を坂道から見上げる

石垣の上に建つ天守を坂道から見上げる。下層は黒い板張り、上層は白い漆喰で、屋根の反りが幾重にも重なる。

山頂には天守が建っていますが、これは昭和に鉄筋コンクリートで再建されたものです。しかも本来の天守台の位置ではなく、そこから少し南へずらして建てられています。理由は単純で、錦帯橋のほうから見上げたときに天守が見えるようにするためでした。本来の天守台は、のちの発掘調査をもとに石垣が復元され、再建天守のすぐそばで見ることができます。つまりこの城では、観光のために選ばれた位置の天守と、実際にそこにあった天守台の両方が並んでいるわけです。史跡としてどちらが正しいかという議論はありますが、見る側にとっては両方を見くらべられる珍しい場所でもあります。山上へはロープウェーで上がれ、そこから本丸まで歩いて数分。大手門、北の丸、そして復元された天守台と、一時間ほどで一巡できます。

訪ね方と見どころ

所在地は山口県岩国市横山。日本100名城の七十四番です。錦帯橋を渡り、吉香公園を抜けてロープウェー乗り場へ、という順路が自然でしょう。吉香公園は御土居の跡ですから、公園を歩くこと自体が城跡めぐりになっています。見どころを挙げるなら、まず復元された旧天守台の石垣。次に、山上から見下ろす錦川の蛇行です。三方を川に囲まれているという立地が、上から見ると一目でわかります。それから大手門と北の丸。北の丸は写真のとおり何もない平坦地ですが、ここに屋敷が並んでいたと思って立つと、七年で終わった城の短さが実感できます。麓には吉川家ゆかりの資料館もあり、関ヶ原での判断をめぐる資料が展示されています。日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。

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【現地取材】岩国城と錦帯橋を歩く—六万石を領しながら、幕末まで大名ではなかった吉川家

運営者が実際に現地を歩いた、写真つきの記録です。

岩国城跡・場所とアクセス

〒741-0081 山口県岩国市横山3丁目城山

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