柘植清弘とは|関口メンディーが演じる『真田十勇士』徳川の刺客 ─ 伊賀越えで家康を守った伊賀の柘植氏と柘植清広

夕暮れの山里に並ぶ忍びや豪傑たちの一団(イメージイラスト)
この記事のポイント
  • 柘植は伊賀国の地名で、その地の武士が柘植氏を名乗りました
  • 柘植清広(三之丞)は、本能寺の変のあとの神君伊賀越えで家康を守り、徳川家に仕えたと伝えられる伊賀の武士です
  • ドラマの柘植清弘(関口メンディー)は、この柘植氏の名を借りた徳川の刺客として第2話の九度山に現れます

ドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』第2話で、九度山を襲う徳川の刺客として登場するのが、関口メンディーさんが演じる柘植清弘です。「柘植」という名は、じつは伊賀の地名であり、本能寺の変のあとに家康が伊賀の山を越えて逃げ帰った「神君伊賀越え」にも深く関わる一族の名でもあります。ここでは、伊賀の柘植氏と、家康に仕えた柘植清広という人物について、史実をもとに紹介します。

目次

「柘植」は伊賀の地名

伊賀国の地図で柘植の位置を示す略図。柘植は伊賀の北東の端にあり、信楽から加太峠を経て伊勢の亀山へ抜ける道が通る
伊賀国の柘植の位置。家康の伊賀越えの道もここを通ったと伝えられます(略図)

柘植は、伊賀国の北東部、いまの三重県伊賀市柘植町のあたりの地名です。伊賀と近江・伊勢を結ぶ道が通る交通の要所で、この地を本拠とした在地の武士たちが柘植氏を名乗りました。伊賀には、守護大名のような大きな支配者がおらず、こうした土地ごとの小さな武士たちが寄り合って国を治めていて、その中から忍びの技にすぐれた「伊賀者」が生まれたと考えられています。伊賀や甲賀の忍びの技については猿飛佐助と霧隠才蔵の得意技は?でも紹介しています。

神君伊賀越えと柘植

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が討たれたとき、わずかな供とともに堺にいた家康は、明智光秀の手を逃れて三河へ帰るため、伊賀の山道を越えることになりました。このとき家康一行が通ったとされる道すじの一つが柘植で、柘植から加太峠を越えて伊勢へ抜け、白子から船で三河へ渡ったと伝えられています。この逃避行では、服部半蔵正成が伊賀や甲賀の者たちに働きかけて道中を守らせたとされ、その中に柘植の武士たちもいたと伝えられています。伊賀越えの道すじは服部半蔵は1614年に生きていたのかで地図にしています。

柘植清広とは

柘植清広(三之丞)は、伊賀の柘植氏の出身で、この伊賀越えのときに家康の一行に加わって道中を守り、その功によって徳川家に仕えるようになったと伝えられる人物です。伊賀越えで家康を助けた伊賀の者たちは、のちに江戸に移されて伊賀同心として徳川家に仕えることになり、柘植の一族もその流れの中で徳川の家臣になっていきました。伊賀越えに加わった伊賀者の名を記した記録にも柘植の名が見え、伊賀と徳川家を結ぶ一族の一つだったことがわかります。ただし、清広の生涯の細かな事績については伝わることが多くなく、ドラマの柘植清弘は、この実在の柘植氏の名を借りて描かれた人物と考えるのがよさそうです。

天正伊賀の乱と伊賀者のその後

伊賀の柘植氏と伊賀者の歩みを語るうえで欠かせないのが、織田家が伊賀を攻めた天正伊賀の乱です。伊賀の乱は、天正7年(1579年)の第一次と、天正9年(1581年)の第二次の二度にわたって起き、とくに二度目の戦いで伊賀の国は焼き尽くされました。

守護のいない国・伊賀

戦国時代の伊賀には、国全体を治める戦国大名がいませんでした。かわりに、柘植氏や服部氏、百地氏、藤林氏といった土地ごとの小さな武士たちが、それぞれ館や小さな城を構えて土地を治め、ことあるごとに寄り合って話し合いで国のことを決めていました。この寄り合いは「伊賀惣国一揆」と呼ばれ、外から敵が攻めてきたときには、国じゅうの武士が力を合わせて戦うという取り決めを結んでいたことが知られています。山がちで道の険しい伊賀の地形と、こうした結束の強さが、伊賀者の忍びの技を育てた土台になったと考えられています。

第一次天正伊賀の乱 ─ 織田信雄の大敗と柘植保重の討死

伊賀に最初に手を伸ばしたのは、織田信長の次男で、伊勢の名門・北畠家を継いでいた織田信雄(のぶかつ)でした。信雄は伊賀を攻める足がかりとして、伊賀の丸山に城を築こうとしましたが、これに気づいた伊賀の武士たちが築城中の城を襲って焼き払ってしまいます。怒った信雄は天正7年9月、父の信長に相談しないまま、およそ1万の兵を率いて伊賀へ攻め込みました。

ところが、伊賀の武士たちは地の利を生かして夜討ちや待ち伏せをしかけ、信雄の軍勢をさんざんに打ち破ります。この戦いで、信雄の重臣だった柘植三郎左衛門(保重)が討死しました。保重はもともと伊賀の柘植の出身とされる武士で、伊賀の地に通じた者として先陣を務めながら、同じ伊賀の武士たちに討たれたのです。大敗を知った信長は、独断で兵を出した信雄を激しく叱りつけ、親子の縁を切るとまで書いた手紙を送ったと伝えられています。

第二次天正伊賀の乱 ─ 信長の大軍が伊賀を焼き尽くす

2年後の天正9年9月、信長は今度こそ伊賀を平らげるため、信雄を総大将に、丹羽長秀、滝川一益、筒井順慶、蒲生氏郷らを加えた4万とも5万ともいわれる大軍を送り込みました。軍勢は甲賀口、信楽口、加太口、大和口など、伊賀を囲む国境の道から一斉に攻め入り、柘植のある加太口もその一つでした。伊賀の武士たちは比自山(ひじやま)城や柏原(かしはら)城などに立てこもって抵抗しましたが、圧倒的な兵力の前に次々と城は落ち、最後に残った名張の柏原城も和睦して城を明け渡しました。

この戦いで伊賀の村々や寺社は焼き払われ、多くの人びとが討たれたと伝えられています。生き残った伊賀の武士たちの多くは、国を捨てて他国へ逃れ、身を寄せる先を探さなければなりませんでした。伊賀の惣国一揆は、こうして終わりを迎えたのです。

伊賀越えと、徳川に仕えた伊賀者

伊賀が焼かれた翌年の天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が討たれます。堺にいた家康が伊賀の山を越えて三河へ逃げ帰ろうとしたとき、道中を守ったのが、服部半蔵正成の呼びかけに応じた伊賀や甲賀の者たちでした。信長に国を焼かれた伊賀者にとって、信長の同盟者だった家康を助けるのは複雑な思いもあったはずですが、この働きが、伊賀者が徳川家に召し抱えられる道を開きます。のちに伊賀者たちは江戸に移されて伊賀同心となり、江戸城の門の警固や探索の役目を担いました。いまの東京・四谷のあたりには、彼らの組屋敷があったことに由来する地名が残されていました。柘植の一族も、この流れの中で徳川家に仕えていったと考えられます。

伊賀上野城と藤堂高虎

一方、伊賀の国そのものは、豊臣秀吉の時代に筒井定次が治め、伊賀の中心に上野城を築きました。その後、慶長13年(1608年)に定次が改易されると、伊賀には築城の名手として知られる藤堂高虎が移されます。高虎は、大坂の豊臣家に備える城として上野城を大きく改修し、本丸の西側には、高さ約30メートルにもなる日本有数の高石垣を築きました。ドラマの舞台となる1614年ごろの伊賀は、まさにこの高虎のもとで、大坂をにらむ徳川方の最前線になっていたのです。伊賀上野城については伊賀上野城で紹介しています。

伊賀上野城の天守
伊賀上野城の天守。いまの天守は昭和に建てられた木造の復興天守です(三重県伊賀市)
伊賀上野城の内堀と高石垣を上から見下ろしたところ
藤堂高虎が築いた伊賀上野城の高石垣。大坂の豊臣家に備えた城でした

信長に故郷を焼かれた伊賀の者たちが、やがて徳川の天下を陰で支える側に回り、伊賀の国も大坂に向けた徳川の守りの要になっていったことを思うと、ドラマで徳川の刺客として登場する柘植の役どころにも、史実の裏づけがあるといえます。

ドラマ『真田十勇士』の柘植清弘(関口メンディー)

ドラマの柘植清弘は、徳川方の刺客として九度山を襲い、十勇士の前に立ちはだかる人物です。予告では、第2話で柘植の襲撃によって十勇士の一人が命を落とすとされていて、服部半蔵(中村獅童)とともに、徳川の忍びとして物語の緊張を高める存在になりそうです。徳川方の忍びを率いた服部半蔵については服部半蔵は1614年に生きていたのかを、ほかの配役は『真田十勇士』キャスト・相関図一覧をご覧ください。

よくある疑問

Q. 柘植清弘は実在の人物ですか?
A. ドラマの柘植清弘そのものは創作の人物と考えられますが、伊賀越えで家康を助けたと伝えられる柘植清広(三之丞)という伊賀の武士がいて、その名がもとになっているとみられます。

Q. 柘植とはどこですか?
A. 伊賀国の北東部、いまの三重県伊賀市柘植町のあたりです。神君伊賀越えで家康一行が通ったとされる場所の一つです。

Q. ドラマで柘植清弘を演じるのは誰ですか?
A. 関口メンディーさんです。

まとめ

柘植は伊賀の地名で、その地の武士の柘植氏は、本能寺の変のあとの神君伊賀越えで家康を助け、のちに徳川家に仕えたと伝えられています。ドラマの柘植清弘は、この伊賀と徳川を結ぶ一族の名を背負った刺客として、第2話の九度山に現れます。

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