萩城跡(指月城):毛利が百二十万石を失って移った城と、倒幕の司令塔にならなかった理由

萩城は、関ヶ原に敗れた毛利家が日本海側に構えた城です。中国八か国百二十万石から周防・長門二か国へ削られ、瀬戸内の広島城を去って、山陰の指月山のふもとに新しい政庁を置きました。この移転を屈辱と受け取り、その恨みが二百五十年後の討幕につながった、という語り方が広く知られています。ただ、その物語には後からつくられた部分も少なくありません。しかも幕末の長州が倒幕へ動いたとき、藩の中枢はすでに萩にはなく、山口へ移っていました。

この記事のポイント
  • 関ヶ原後、毛利は百二十万石から周防・長門二か国へ大幅に減らされた
  • 萩を居城としたのは幕府の指定によるとされるが、近年は別の見方もある
  • 城は指月山の山頂に詰丸、山麓に本丸・二の丸・三の丸を置く構え
  • 正月に倒幕の可否を問う儀式があったという話は、史料の裏づけを欠く
  • 幕末には藩庁が萩から山口へ移り、倒幕の司令塔は萩ではなくなっていた
目次

百二十万石から三十六万石へ

萩城跡の海に面した石垣と土塀

海際に伸びる石垣と、その上に続く白い土塀。手前は広い芝地で、右手には静かな海が広がる。

毛利元就が一代で築きあげた勢力は、吉田郡山城から始まり、孫の輝元の代には広島城を本拠とする中国地方の大大名になっていました。その毛利が関ヶ原の戦いで西軍の総大将にかつぎ上げられ、敗れます。戦後処理で領地は周防・長門の二か国、石高にして三十六万九千石ほどに減らされました。八か国から二か国へ、石高では三分の一以下です。家臣をすべて抱えきれる規模ではなく、毛利家は多くの家臣を帰農させたり、禄を大幅に削ったりして乗り切ることになります。この処理の過程で生まれたのが、岩国の吉川家をめぐる本家との確執でした。石垣を積む前から、この藩は苦労を背負っていたわけです。

なぜ萩だったのか

▽ よく語られる話

毛利輝元は山口か防府に城を構えたかったが、幕府が「日本海側の僻地である萩に置け」と厳命したため、やむなく萩へ追いやられた。

▼ 史実ではこうです

この話は長く語られてきましたが、近年は見方が分かれています。輝元が候補地をいくつか挙げて幕府に伺いを立て、そのなかから萩が決まったという経緯は史料にも見えますが、幕府が意地悪で僻地を指定したという筋書きまで裏づけられているわけではありません。萩は日本海の海運の要にあたり、三角州で城下町を広げやすく、背後に山を持つという条件もそろっています。防長二か国を治めるうえで不合理な場所ではなかった、という評価も出てきました。「屈辱の地へ追われた」という語りは、のちに長州が倒幕へ向かう物語のなかで意味を与えられ、強められていった面があります。

指月山と三角州 ― 城の構え

萩城が建つのは、松本川と橋本川という二本の川にはさまれた三角州の先端です。その先端に指月山という標高百四十メートルほどの山があり、城はこの山と平地の両方を使っています。山頂には詰丸と呼ばれる区画を置き、いざというときに籠もれるようにした。ふだんの政務は山麓の本丸・二の丸・三の丸でおこないます。平時の利便と戦時の備えを、高さで分けたわけです。同じ考え方は岩国城の山上の城と麓の御土居にも見られ、江戸初期に築かれた城にはこの形がいくつも残っています。ただし萩城の場合、その詰丸が使われることは一度もありませんでした。三方を川と海に囲まれ、陸から攻めるには三角州の狭い付け根を通るしかない。攻め口が限られるという点では、かなり有利な地形です。

「今年は倒幕の機はいかに」という年賀の儀式

▽ よく語られる話

長州藩では毎年正月、家老が藩主に「今年、倒幕の機はいかがでしょうか」と問い、藩主が「時期尚早」と答える儀式が二百五十年続いた。この積年の恨みが幕末に爆発した。

▼ 史実ではこうです

よく知られた逸話ですが、これを裏づける同時代の記録は見つかっていません。幕末以降、あるいは明治になってから語られはじめた話とみられています。そもそも徳川の世で、家臣が毎年公然と倒幕を口にする儀式を二百五十年続けていたとすれば、とうに幕府の知るところとなっていたはずです。長州が倒幕へ動いた理由は、積年の恨みという単純なものではなく、黒船来航以降の政局のなかで藩論が揺れ、禁門の変や二度の長州征討を経て追い詰められていった結果でした。物語としては魅力的ですが、事実として扱うには材料が足りません。

松下村塾と、この城下から出た人々

萩の城下町からは、幕末を動かした人間が驚くほど多く出ています。吉田松陰がひらいた松下村塾に学んだ久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一。それに伊藤博文や山県有朋も、この塾の門をくぐっています。塾が開かれていた期間は数年にすぎません。そのわずかな時間に、これだけの人間が集まった。理由のひとつは、松陰が身分にこだわらず教えたことでしょう。下級武士も足軽も、町人の子も同じ部屋で学んでいます。彼らの多くは若くして死にました。久坂と入江は禁門の変で、吉田稔麿は池田屋事件で命を落としています。生き残って新政府の中枢に入った者と、志半ばで死んだ者が、同じ塾の名簿に並んでいる。水戸の弘道館が別の形で幕末を動かしたのとあわせて見ると、藩校や私塾がこの時代にどれほどの意味を持っていたかがわかります。

藩庁は、萩から山口へ移っていた

意外に知られていないのですが、長州藩が本格的に動きはじめたとき、藩の中枢はすでに萩を離れていました。文久年間に藩庁が山口へ移されているのです。表向きの理由は、海に面した萩が外国船の砲撃に弱いこと。ただし実際には、京や九州との連絡を取りやすい内陸へ出たかったという事情が大きかったとみられます。萩は日本海に面していて、瀬戸内や京への行き来には山を越えねばなりません。全国の政局に関わろうとすれば、この立地は不利でした。つまり、長州が倒幕へ舵を切ったときの司令塔は山口であって、萩ではなかった。萩城は幕末を通じて城として機能し続けましたが、歴史の焦点はすでに別の場所へ移っていたのです。この時期の長州は浜田城を攻め落とし、福山城にも兵を向けています。守る側から攻める側へ立場が変わっていました。

明治の破却と、残ったもの

萩城跡と指月山を上空から見た写真

海に突き出した指月山と、その南のふもとに広がる城跡。三方を海に囲まれ、陸とつながるのは南側だけであることがよくわかる。

萩城には五層の天守が建っていました。明治の廃城令を受けて建物は解体され、天守も失われます。皮肉なのは、新政府をつくった側の藩の城が、その新政府の方針によって壊されたことです。城を惜しむより、旧時代を片づけることが優先された時代でした。ただし萩の場合、失われなかったものがあります。城下町です。武家屋敷の白壁と土塀、鍵の手に折れる道、夏みかんの木が塀越しに枝を伸ばす風景が、ほぼそのまま残りました。萩が近代の産業都市にならなかったことが、結果として町並みを守ったのです。城跡には天守台の石垣と堀、そして写真のような海際の石垣が残っています。城下町と、松下村塾をふくむ一帯は世界遺産の構成資産にも選ばれました。

訪ね方と見どころ

所在地は山口県萩市堀内。日本100名城の七十五番です。城跡は指月公園として開かれていて、入口で城と町の位置関係を頭に入れておくと歩きやすくなります。まず天守台に上がってください。ここに五層の天守が建っていたのだと思って海を見ると、この城が海に向いて建っていたことがわかります。次に堀沿いを歩いて、海際の石垣まで出る。潮の匂いがする城跡というのは、そう多くありません。体力があれば指月山に登って詰丸跡へ。標高はさほどでもありませんが、道は急です。城を出たら堀内地区の武家屋敷、菊屋横町、そして松下村塾へ。城跡だけを見て帰るのは、萩という町ではもったいない。町全体がひとつの史跡だと思って歩くのがおすすめです。日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。

萩城跡・場所とアクセス

〒758-0057 山口県萩市大字堀内2区1-1

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