天正十八年に何が起きたのか:旭姫の死、小田原攻め、天下統一 ─ 秀長と秀吉が過ごした最後の一年

小田原城で関東の絵図を囲む北条家の評定のイメージイラスト
この記事のポイント
  • 天正18年(1590)は、秀吉が北条氏を滅ぼし、奥州を従えて、天下統一をなしとげた年です
  • その正月、秀吉の妹で家康の正室だった旭姫が聚楽第で亡くなり、同じころ家康の跡継ぎ長丸(秀忠)が上洛して元服しました
  • 3月に京を発った秀吉は、20万をこえる大軍で小田原城を囲み、7月に北条氏直が降伏。氏政は切腹し、家康は関東へ移されました
  • 一方、秀長は病のため小田原攻めに加われず、郡山で療養を続けていました。翌天正19年正月、秀長は世を去ります

『豊臣兄弟!』は、第46回で天正17年から天正18年のはじめ、最終回の第47回で小田原攻めから秀長の死までを描く予定です。その舞台となる天正18年(1590)は、豊臣家にとって、天下統一という最大の喜びと、身内を次々に失う悲しみが重なった年でした。この記事では、天正18年の一年を月ごとにたどります。当サイトの「天正十七年に何が起きたのか」「天正十九年に何が起きたのか」とあわせて読むと、秀長の晩年の流れがつかめます。

目次

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天正18年の年表

時期 できごと
正月 家康の跡継ぎ・長丸が上洛し、秀吉のもとで元服して秀忠と名のる
1月14日 旭姫、聚楽第で亡くなる
2月 家康、駿府から小田原へ向けて出陣
3月1日 秀吉、京を発って小田原へ向かう
3月29日 秀次らの軍勢が伊豆の山中城を一日で落とす
4月 秀吉、小田原城を包囲。石垣山に城を築きはじめる
6月 伊達政宗が小田原に参陣。石垣山城が完成する
6月23日 北条方の八王子城が落ちる
7月5日 北条氏直が降伏する
7月11日 北条氏政・氏照が切腹
7月 家康の関東移封が決まる。織田信雄は国替えを拒んで改易
8月1日 家康、江戸に入る
8月 秀吉、会津に入り、奥州仕置を行う
この年 秀長は病のため郡山で療養を続ける

正月 ─ 旭姫の死と秀忠の上洛

天正18年は、悲しい知らせから始まりました。1月14日、秀吉の妹で家康の正室だった旭姫が、京都の聚楽第で亡くなったのです。数えで48歳でした(旭姫はなぜ駿府ではなく京都で亡くなったのか)。

同じ正月、家康の跡継ぎの長丸が京にのぼり、秀吉のもとで元服して秀忠と名のりました。前年に秀吉が出した、大名の妻子を京に住まわせる命令にこたえたものです。旭姫の死で切れかけた両家の縁は、秀吉の養女・小姫と秀忠の縁組でつなぎ直されました(旭姫の死と秀忠の上洛、妻子人質令とは)。

浜松城の復興天守
旭姫が嫁いだころ家康の居城だった浜松城の復興天守

春から夏 ─ 小田原攻め

3月1日、秀吉は京を発ち、東へ向かいました。途中、駿府に立ち寄って、亡くなった妹・旭姫の墓に参ったと伝わります。3月29日には、秀次らの軍勢が伊豆の山中城を一日で攻め落とし、豊臣の大軍は小田原城を囲みました。

秀吉は小田原城を見おろす石垣山に城を築き、長期戦の構えを見せます。6月には伊達政宗が遅れて参陣し、北条方の城も次々と落ちていきました。そして7月5日、北条氏直が降伏し、11日には氏政と弟の氏照が切腹して、百年続いた北条氏の関東支配は終わりました(小田原征伐で北条氏政はなぜ降伏しなかったのか、石垣山一夜城、伊達政宗はなぜ小田原に遅れたのか、秀吉はなぜ北条家を相模一国だけでも残さなかったのか)。

小田原城で関東の絵図を囲む北条家の評定のイメージイラスト
小田原城で関東の絵図を囲む北条家の評定のイメージ(イラスト)

氏直は家康の娘・督姫の夫だったこともあり、家康のとりなしで命を助けられ、高野山に送られました(督姫とは、小田原城落城後の北条氏の行く末)。

夏 ─ 家康の関東移封と奥州仕置

北条氏が滅びると、秀吉は家康に北条の旧領である関東への国替えを命じました。家康は8月1日に江戸に入り、ここを新たな本拠とします。家康の旧領だった東海の国々には、秀吉の家臣たちが入りました。国替えを拒んだ織田信雄は領地を取り上げられています。

秀吉はさらに北へ進み、8月に会津に入って、奥州の大名たちの領地を決め直しました。これが奥州仕置です。こうして秀吉の天下統一は完成しました(奥州仕置とは)。

▽ よく語られる話
天下統一をなしとげた天正18年、豊臣家は絶頂にあった。
▼ 史実ではこうです
天下統一は完成しましたが、この年、秀吉は妹の旭姫を失い、もっとも頼りにしてきた弟の秀長は病で小田原にも来られませんでした。絶頂の裏で、豊臣家を支えてきた身内は少しずつ欠けはじめていたのです。

秀長 ─ 病床の天正18年

この年、秀長は病のため、小田原攻めに加わることができませんでした。大和の郡山城で療養を続ける秀長のために、秀吉は寺社に回復を祈らせています。天下統一の最後の戦いに、兄を支え続けてきた弟の姿はありませんでした(秀長はなぜ小田原攻めに行けなかったのか、豊臣秀長の死因は何だったのか)。

大和郡山城の天守台から見おろす郡山の町
秀長が療養した大和郡山城の天守台から見おろす郡山の町

そして翌天正19年(1591)1月22日、秀長は郡山城で亡くなります。天正18年は、兄弟がともに目指した天下統一が実現した年であると同時に、兄弟がともに過ごした最後の一年でもありました。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第46回は11月29日(日)放送予定で、あさひの病と死が描かれるようです。最終回の第47回(12月6日放送予定)では、小田原攻めと北条の降伏、そして秀長の最期が描かれると伝えられています。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 天正18年は西暦何年ですか?
A. 1590年です。

Q. 旭姫はいつ亡くなりましたか?
A. 天正18年1月14日、聚楽第で亡くなりました。

Q. 北条氏が降伏したのはいつですか?
A. 天正18年7月5日、北条氏直が降伏しました。

Q. 秀長は小田原攻めに行きましたか?
A. 病のため参陣できず、郡山で療養していました。

まとめ

天正18年、秀吉は小田原攻めで北条氏を滅ぼし、奥州仕置によって天下統一をなしとげました。しかしその一方で、正月には妹の旭姫が亡くなり、弟の秀長は病で兄の最後の戦いに加われませんでした。『豊臣兄弟!』の第46回と最終回は、この喜びと悲しみの重なる一年を描くことになりそうです。

参考:『多聞院日記』/『家忠日記』/黒田基樹『羽柴秀長の生涯』平凡社新書/柴裕之『羽柴秀長』角川選書

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