- 秀長は、徳川家康が秀吉に従うとき、その間に立った人物でした。天正14年(1586)10月、上洛した家康は秀長の屋敷に泊まり、その夜、秀吉がひそかに家康を訪ねたと伝わります
- 天正15年8月8日、秀長と家康は同じ日に従二位権大納言となりました。二人は豊臣政権の中で、肩をならべる立場になったのです
- 天正18年、病の秀長は家康の嫡男・長丸(のちの秀忠)の上洛を取りつぎ、小田原へ向かう家康は秀長の回復を喜ぶ手紙を送ったとされます
- 秀長が亡くなったあと、秀長の重臣だった藤堂高虎は家康に近づき、関ヶ原では東軍として戦いました。秀長と家康を結んだ縁は、秀長の死後も別の形で続いたのです
『豊臣兄弟!』では、秀長と家康のあいだに緊張した場面がいくつも描かれてきました。では、史実の秀長と家康は、どんな関係だったのでしょうか。敵だったのか、味方だったのか。この記事では、小牧・長久手の戦いから家康の臣従、そして秀長の最期までの二人のかかわりを、時代順にたどります。
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秀長と家康のかかわり 年表
| 年 | できごと |
|---|---|
| 天正12年(1584) | 小牧・長久手の戦い。秀長は秀吉方として家康・織田信雄と戦う |
| 天正14年(1586)10月 | 家康が上洛。大坂で秀長の屋敷に泊まる |
| 天正14年10月27日 | 家康が大坂城で秀吉に臣従を誓う |
| 天正15年(1587)8月8日 | 秀長と家康が同じ日に従二位権大納言となる |
| 天正16年(1588)4月 | 聚楽第行幸。二人とも諸大名の一人として天皇を迎える |
| 天正18年(1590)正月 | 家康の嫡男・長丸が上洛。病の秀長が取りついだとされる |
| 天正18年3月 | 小田原へ向かう家康が、秀長の回復を喜ぶ手紙を送ったとされる |
| 天正19年(1591)1月22日 | 秀長が大和郡山城で死去 |
小牧・長久手 ─ 敵として向きあった二人
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、秀長は秀吉方の一人として、家康と織田信雄の連合軍と戦いました。戦いは決着がつかないまま和睦となり、家康は秀吉に従わないまま、東海で力を保ちます(「和睦」と「臣従」はどう違うのか)。この時点の二人は、はっきりした敵どうしでした。
家康は秀長の屋敷に泊まった
二人の関係が大きく変わったのが、天正14年(1586)10月の家康の上洛です。秀吉は妹のあさひを家康に嫁がせ、さらに母の大政所を人質として三河へ送り、ようやく家康を上洛させました(家康はなぜ最後に秀吉への臣従を決断したのか)。
大坂に着いた家康が泊まったのは、秀長の屋敷でした。そしてその夜、秀吉がひそかに家康を訪ね、翌日の対面での振る舞いについて頼みこんだと伝わります(家康はなぜ秀長の屋敷に泊まったのか)。秀長の屋敷は、秀吉と家康が初めて本音で向きあう場所になったのです。
家康を自分の屋敷に迎えたことは、秀長が徳川家との間に立つ役目を担っていたことを示しています。大名と秀吉のあいだに立って話をつなぐ役目を「取次」といい、秀長は家康の取次の役を担ったともいわれます(豊臣政権の「取次」とは何か)。

同じ日に大納言 ─ 肩をならべた二人
天正15年(1587)8月8日、秀長と家康は同じ日に従二位権大納言に任じられました。秀長は「大和大納言」、家康は「駿河大納言」と呼ばれるようになります(徳川家康の官位の移り変わり)。
秀吉の弟と、かつての最大の敵が、同じ日に同じ官位を受けた。それは、豊臣政権の中で二人が並ぶ重臣であることを、朝廷の官位でも示すものでした。翌年の聚楽第行幸でも、二人はともに諸大名の一人として後陽成天皇を迎えています(聚楽第行幸とは)。
病床の秀長と家康
天正18年(1590)の正月、家康の嫡男・長丸(のちの二代将軍・秀忠)が上洛し、秀吉に対面しました。病で年頭の挨拶にも出られなかった秀長は、この上洛の取次をつとめたとされます(秀長はなぜ小田原攻めに行けなかったのか)。
3月、小田原攻めに向かう途中の家康は、秀長の病が持ちなおしたことを喜ぶ手紙を送ったとされます。家康にとって秀長は、豊臣政権の中でもっとも頼りになる窓口の一人だったのでしょう。
秀長の死後 ─ 高虎が家康のもとへ
天正19年(1591)1月、秀長が亡くなると、家康と豊臣家をつなぐ太い糸が一本切れました。秀長の死が豊臣政権にとってどれほど大きかったかは、よく語られるところです(もし豊臣秀長があと十年生きていたら)。
秀長の重臣だった藤堂高虎は、秀長と養子の秀保に仕えたあと、秀吉の直臣となり、やがて家康に急速に近づいていきます。関ヶ原の戦いでは東軍として戦い、江戸時代には伊勢津藩の大名として、家康にもっとも信頼された外様大名の一人になりました(藤堂高虎とは)。

秀長の屋敷に泊まった家康と、その屋敷の家臣だった高虎。秀長と家康を結んだ縁は、秀長の死後、高虎を通じて徳川の時代へと受けつがれていったともいえます。
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よくある質問
Q. 秀長と家康は仲が良かったのですか?
A. 小牧・長久手では敵どうしでしたが、家康が臣従したあとは、秀長が家康を屋敷に迎え、取次として間に立ちました。病の秀長を家康が気づかう手紙も残るとされ、同僚として良好な関係だったと考えられます。
Q. 家康は上洛したときどこに泊まったのですか?
A. 天正14年10月、大坂の秀長の屋敷に泊まりました。その夜、秀吉がひそかに訪ねてきたと伝わります。
Q. 秀長と家康はいつ権大納言になったのですか?
A. 天正15年(1587)8月8日、同じ日に従二位権大納言となりました。
Q. 秀長の家臣で家康についた人はいますか?
A. 秀長の重臣だった藤堂高虎は、のちに家康に近づき、関ヶ原では東軍として戦いました。
まとめ
秀長と家康は、小牧・長久手では敵どうしでした。しかし家康が臣従すると、秀長は家康を自分の屋敷に迎え、取次として徳川家と豊臣家をつなぎます。二人は同じ日に権大納言となり、病の秀長は長丸の上洛を取りつぎ、家康は秀長の回復を喜ぶ手紙を送りました。秀長の死後、その重臣だった藤堂高虎は家康に近づき、二人の縁は徳川の時代へと続いていきます。
参考:『家忠日記』/『多聞院日記』/『公卿補任』
