- 『豊臣兄弟!』は全47回で、最終回の第47回は12月6日(日)放送予定と伝えられています。タイトルはネタバレ系サイトで「天下一統」とされていますが、公式の発表はまだありません
- 舞台は天正17年(1589)秋の名胡桃城事件から、天正18年の小田原攻めと天下統一、そして天正19年(1591)正月の秀長の死までです
- 伝えられているあらすじでは、小田原攻めの副将に任じられた秀長が出陣前に倒れ、兄の秀吉に後を託します。北条の降伏を知った兄弟は「やったのう、兄者」「お前のおかげじゃ」と喜び合うようです
- 史実の秀長も病のため小田原攻めに加わらず、天正19年1月22日、大和郡山城で52歳で亡くなりました
大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、いよいよ最終回を迎えます。全47回で、最終回の第47回は12月6日(日)放送予定と伝えられています。タイトルは、ネタバレ系サイトでは「天下一統」と伝えられていますが、公式の発表はまだありません。この記事では、伝えられているあらすじをもとに、最終回の舞台となる天正17年秋から天正19年正月までの史実を予習します。あらすじは放送内容と異なる場合があります(第46回「あさひの死」あらすじ予想と史実)。

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最終回のあらすじ(予想)
ネタバレ系サイトなどで伝えられている最終回のあらすじは、おおむね次のとおりです。
- 北条が、秀吉の命令にそむいて真田の名胡桃城を攻め取る。秀吉は北条に最後通告を出すが、返事はない
- 秀吉は小田原攻めを決め、秀長を副将に任じる
- 秀長は諸大名の調整に動き、関東の国衆や北条方の家臣に書状を送って、戦の前から勝ちへの手を打つ
- その最中に秀長が倒れる。藤堂高虎は、殿が倒れたのはこれで3度目だと明かす
- 秀吉は秀長の出陣を見送る。秀長は「あさひと同じ病かもしれぬ」と打ち明け、秀吉は「病に打ち勝つのじゃ」「北条ぐらい、お前がいなくてもわしが平らげてやろう」と励ます
- 3月、秀吉は20万の大軍で小田原城を囲み、7月に北条が降伏する
- 天下統一を知った秀長は「やったのう、兄者」と言い、秀吉は「お前のおかげじゃ」と返して、二人で笑い合う
- 天正19年(1591)1月、秀長は大和郡山城で52歳の生涯を閉じる
茶々・家康・前田利家にも見せ場があり、天下統一のあとの姿も描かれるようです。
最終回の舞台の年表
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 天正17年10月 | 北条家の家臣・猪俣邦憲が、真田の名胡桃城を奪う(名胡桃城事件) |
| 11月24日 | 秀吉が北条氏直に宣戦の書状を送る |
| 天正18年1月 | 旭姫が聚楽第で亡くなる。このころ秀長も病が重くなる |
| 3月1日 | 秀吉が京を出陣する |
| 4月 | 豊臣の大軍が小田原城を囲む。秀吉は石垣山に城を築きはじめる |
| 6月 | 石垣山城がほぼできあがる(いわゆる一夜城) |
| 7月5日 | 北条氏直が城を出て降伏する |
| 7月11日 | 北条氏政・氏照が切腹する |
| 8月 | 家康が江戸に入る。秀吉は会津へ進み、奥州仕置を行う |
| 天正19年1月22日 | 秀長が大和郡山城で亡くなる。52歳 |
くわしい流れは天正十八年に何が起きたのかと天正十九年に何が起きたのかにまとめています。
名胡桃城事件と最後通告
小田原攻めのきっかけは、上野国(群馬県)の小さな山城・名胡桃城でした。沼田をめぐる北条と真田の争いは、天正17年に秀吉の裁定で決着し、沼田城は北条に、名胡桃城は真田に残されていました。ところがその秋、沼田城を預かる北条家の猪俣邦憲が名胡桃城を奪ってしまいます(名胡桃城事件とは)。
大名どうしの勝手な戦を禁じていた秀吉にとって、これは自分の裁定を踏みにじる行いでした。11月24日、秀吉は北条氏直にあてて、北条の非を並べた書状を送り、討伐を宣言します。ドラマの「最後通告」は、この書状にあたるとみられます。
秀長は小田原攻めの副将だったのか
ドラマでは、秀長が小田原攻めの副将に任じられるようです。史実の記録で、秀長が副将に任じられたとはっきり書かれたものは見当たりません。ただ、四国攻めでは総大将、九州攻めでは日向方面の大将をつとめた秀長は、豊臣家で秀吉に次ぐ立場にありました。秀長が元気であれば、小田原でも大きな役目をになったはずだ、という見方は自然なものです(四国平定・九州平定をわかりやすく解説)。
秀長が関東の国衆や北条方の家臣に書状を送って調略を進めた、という筋もドラマの描き方とみられます。秀長は諸大名との取次を多く手がけた人で、家康の上洛のときにも間に立ちました。戦の前に話し合いで相手を崩していく姿は、秀長らしい役どころといえます(秀長と家康はどんな関係だったのか)。
秀長の病と、小田原への不参加
史実の秀長は、天正18年の正月ごろから病が重くなり、小田原攻めには加わりませんでした。秀長の体調は数年前から思わしくなく、有馬の湯で湯治をしたことも記録に残っています。ドラマで高虎が「3度目」と言うのも、秀長がたびたび病に伏せっていたことを踏まえたものでしょう(豊臣秀長の死因は何だったのか)。

秀吉が北条を囲んでいるあいだ、秀長は大和郡山で療養を続けていました。兄が天下統一を目前にした大きな戦にのぞむとき、弟はその場にいなかったのです(秀長はなぜ小田原攻めに行けなかったのか)。
ドラマで秀長が「あさひと同じ病かもしれぬ」と言う場面は創作とみられます。旭姫と秀長の死因は、どちらもはっきりとはわかっていません。
小田原攻めと天下統一
天正18年3月1日、秀吉は京を出陣しました。徳川家康・織田信雄をはじめ、全国の大名が加わった軍勢は20万ともいわれ、4月には小田原城をぐるりと囲みます。海には水軍の船が並び、北条方の支城はつぎつぎと落とされていきました(小田原征伐で北条氏政はなぜ降伏しなかったのか)。
秀吉は小田原城を見下ろす石垣山に城を築き、茶会をひらき、側室を呼び寄せるなど、長い包囲を余裕をもって続けました。石垣山城ができあがると、まわりの木を切りはらって城を一度に見せ、北条方を驚かせたと伝えられています。これがいわゆる「一夜城」です。

7月5日、北条氏直は城を出て降伏し、7月11日には父の氏政と叔父の氏照が切腹しました。このあと秀吉は会津まで兵を進めて東北の大名の領地を決め直し(奥州仕置とは)、全国の大名を従える「天下一統」が形のうえで成し遂げられます。
天正19年1月22日、秀長の死
天下統一の翌年、天正19年(1591)1月22日、秀長は大和郡山城で亡くなりました。52歳でした。墓所は大和郡山市の大納言塚に残っています。

秀長の死は、豊臣家にとって大きな曲がり角になりました。ひと月あまりのちの2月28日には千利休が切腹を命じられ、8月には秀吉の跡継ぎの鶴松が3歳で亡くなります。豊臣家は一年のうちに、弟と茶頭と跡継ぎを失いました。その後の朝鮮出兵や秀次事件を、もし秀長が生きていたら止められたのではないか、という声が今もあるのは、このためです(もし豊臣秀長があと十年生きていたら)。
最終回のあと、史実ではどうなるのか
ドラマは秀長の死で幕を閉じるとみられますが、史実の豊臣家はそのあとも続きます。秀長の家は養子の秀保が継ぎましたが、秀保は17歳で亡くなり、大和の豊臣家は途絶えました(豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのか)。秀吉は文禄元年(1592)に朝鮮へ兵を送り、文禄4年(1595)には甥の秀次を切腹させます。そして慶長3年(1598)に秀吉が亡くなると、2年後には関ヶ原の戦いが起こります。
「兄を支えた弟」の物語が、天下統一と弟の死で終わる。秀長がいなくなったあとの豊臣家を思うと、最終回のタイトルとされる「天下一統」には、喜びとさびしさの両方がこめられているように感じられます。
よくある質問
Q. 『豊臣兄弟!』の最終回はいつですか?
A. 第47回が最終回で、12月6日(日)放送予定と伝えられています。公式の発表を確認してください。
Q. 最終回はどこまで描かれますか?
A. 伝えられているあらすじでは、天正18年(1590)の小田原攻めと天下統一、そして天正19年(1591)1月の秀長の死までです。
Q. 秀長は小田原攻めに行ったのですか?
A. 行っていません。病のため大和郡山で療養していました。
Q. 秀長はいつ、どこで亡くなりましたか?
A. 天正19年(1591)1月22日、大和郡山城で亡くなりました。52歳でした。
▶ 第1回からの放送回を一覧で見る:豊臣兄弟!全話一覧(サブタイトル・放送日・史実の舞台)
まとめ
『豊臣兄弟!』の最終回は、名胡桃城事件から小田原攻め、天下統一、そして秀長の死までを描く回になりそうです。史実の秀長も病のため小田原には行けず、兄が北条を降したあと、天正19年1月に大和郡山城で亡くなりました。兄弟が天下統一を喜び合う場面は創作とみられますが、兄を支えつづけた弟の最期にふさわしい結びになりそうです。放送後に、描かれ方と史実のちがいをこの記事で追記します。

