- 真田信繁(幸村)は、関ヶ原の戦いのあと父・昌幸とともに紀伊の九度山に流され、慶長19年(1614)に大坂城へ入るまで、およそ十四年をこの山里で暮らしました
- 九度山の村人が信繁をどう思っていたかを直接書いた同時代の記録はありません。けれども、真田紐を村人とともに作って売ったという話や、父の法要に村人を招いてもてなしたという話など、村との近い関係を語る伝承がいくつも残っています
- 一方で、村人は紀伊を治める浅野家から、真田家を見張る役も命じられていました。「村人みんなが幸村の味方だった」というのは、のちの時代に育った面が大きいと考えられます
- 九度山では、江戸時代に真田父子の屋敷跡に真田庵(善名称院)が建てられ、いまも毎年5月には赤備えの武者行列が練り歩く「真田まつり」が開かれています。幸村を慕う気持ちは、四百年かけて町の誇りとして育ってきたものといえます
ドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』の第1話では、九度山で暮らす幸村(安藤政信さん)が、十勇士たちが内職で作った真田紐の売り上げを村人たちに分け、感謝される場面が描かれました。徳川方の監視役・首藤景明(橋本じゅんさん)が村人をいじめるのとは対照的に、幸村は村の人びとに慕われる存在として描かれています。では、史実の真田信繁は、本当に九度山の村人たちに慕われていたのでしょうか。この記事では、九度山での十四年の暮らしと、村との関係を語る伝承、そしていまも続く九度山の真田の記憶をたどります。
九度山で暮らした十四年
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍についた真田昌幸・信繁父子は、死罪こそ免れたものの、高野山へ流されることになりました。はじめは高野山の真田家ゆかりの寺・蓮華定院に入り、やがて山のふもとの九度山に屋敷を構えて暮らすようになります。信繁はこのとき三十代半ば。妻子や家臣たちも一緒で、九度山で生まれた子どももいました。嫡男の大助も、九度山で生まれ育ったとされています(真田昌幸と幸村はなぜ九度山に流されたのか/九度山とは)。
流人とはいえ、真田父子は牢に閉じこめられていたわけではありません。紀伊を治める浅野家の監視のもとではありましたが、屋敷で家族や家臣とともに暮らし、高野山の寺や村の人びととも行き来がありました。浅野家からは毎年米が送られていましたが、暮らしは決して楽ではなく、信繁が真田家の旧臣に焼酎を送ってほしいと頼んだ手紙や、姉の夫の小山田茂誠に「急に年をとり、歯も抜け、ひげも黒いところが少なくなった」と書き送ったとされる手紙が残っています(九度山の真田父子は誰に見張られていたのか)。

慶長16年(1611)には父の昌幸が九度山で亡くなり、信繁は赦しの望みもないまま、さらに三年を九度山で過ごします(真田昌幸の最期)。十四年という年月は、信繁にとって人生のおよそ三分の一にあたります。この長い年月のあいだに、真田家は九度山の村の一員になっていったのです。
村との近さを語る伝承
九度山の村人が信繁をどう思っていたかを、はっきり書き残した同時代の記録はありません。けれども、九度山には真田家と村の近さを語る伝承がいくつも残っています。
| 伝承 | どんな話か |
|---|---|
| 真田紐 | 暮らしの足しにするため、真田父子が平たく丈夫な紐を考え出し、家臣や村人が売り歩いたと伝わる |
| 法要の宴 | 九度山を出る前、父・昌幸の法要を名目に村人を招いて酒をふるまったと伝わる |
| ともに大坂へ | 九度山を出た一行には、村の若者や近くの地侍が加わったとも伝わる |
| 屋敷跡を守る | 真田父子の屋敷跡は村で大切にされ、江戸時代に真田庵(善名称院)が建てられた |
真田紐の話は、名前の由来を真田家に結びつけた伝承で、確かな史料で裏づけられるものではありません(真田紐とは)。それでも、九度山の人びとが「真田さんが紐を作らせた」と語り継いできたこと自体が、真田家が村の暮らしに溶けこんでいた記憶を伝えているといえるでしょう。
九度山を抜け出すときに村人を宴に招いたという話も、『名将言行録』など後世の書物に見える逸話です。ただ、この話が成り立つには、信繁が村人を招けば集まってくるほどの付き合いがあったことが前提になります。酒をふるまい、村人が酔いつぶれたすきに出発したという筋書きは、村人と信繁の近さと、それでも村人を巻きこむまいとした信繁の気づかいの両方を物語っているともいえます(真田幸村(信繁)はどうやって九度山を抜け出したのか)。
なぜ幸村は慕われたと語られるのか
九度山で信繁が慕われたと語られる理由は、大きく三つ考えられます。一つめは、十四年という長い年月です。流人とはいえ、同じ村で妻子を育て、父を看取り、村の人びとと顔を合わせて暮らした真田家は、よそ者ではなく村の一員になっていました。二つめは、真田家が村にもたらしたものです。高野山の寺とつながりを持ち、家臣を抱えた真田家は、山里の小さな村にとって、暮らしや仕事の面でも少なからぬ存在だったと考えられます。
そして三つめが、大坂の陣での信繁の最期です。九度山を出た信繁は、真田丸で徳川の大軍を退け、夏の陣では家康の本陣に突撃して討死しました。その活躍は「日本一の兵」とたたえられ、江戸時代には講談や軍記で「真田幸村」の名が広く知られるようになります(真田信繁はなぜ「幸村」と呼ばれるのか)。英雄となった幸村が十四年を過ごした土地として、九度山の人びとは真田の記憶を誇りとして語り継いできたのです。
いまも続く九度山の真田
九度山では、真田父子の屋敷跡とされる場所に、寛保元年(1741)に大安上人が真田庵(善名称院)を開きました。境内には昌幸の墓と伝わる五輪塔があり、真田家ゆかりの毘沙門天と真田三代の霊をまつる真田地主大権現も置かれています。村の人びとが屋敷跡を大切にしてきたからこそ、百年以上たってから寺が建てられたのでしょう。
いまの九度山町には、真田昌幸・信繁・大助の三代を紹介する九度山・真田ミュージアムがあり、町のあちこちに真田の六文銭が掲げられています。毎年5月には「紀州九度山真田まつり」が開かれ、赤備えの甲冑に身を包んだ武者行列が、道の駅から真田庵まで町を練り歩きます。四百年前に流人として九度山にやってきた真田家は、いまでは町のいちばんの誇りになっているのです(真田一族の歴史)。
ドラマ『真田十勇士』と九度山の村人
ドラマの第1話では、首藤景明が真田家の米を減らすと告げて村人をいじめる一方、幸村は十勇士が作った真田紐の売り上げを村人に分け、感謝されていました。史実の九度山を見張っていたのは浅野家でしたが、ドラマは「村人を締めつける徳川」と「村人に寄り添う幸村」をはっきり対比させて描いています。
10月30日放送の第2話では、いよいよ幸村が九度山からの脱出を決意します。十四年を過ごした村の人びとに、幸村がどんな別れを告げるのか、村人たちが幸村をどう見送るのかにも注目したいところです(九度山から大坂城まで、幸村はどの道を通ったのか/『真田十勇士』キャスト・相関図一覧)。
よくある疑問
Q. 真田幸村は九度山の村人に慕われていたのですか?
A. 村人の気持ちを直接書いた同時代の記録はありませんが、真田紐や法要の宴など、村との近い関係を語る伝承が多く残っています。屋敷跡は大切にされ、江戸時代に真田庵が建てられました。
Q. 幸村は九度山に何年いたのですか?
A. 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのあとから、慶長19年(1614)に大坂城へ入るまで、およそ十四年です。
Q. 九度山の村人は幸村の脱出を助けたのですか?
A. 助けたことを示す確かな史料はありません。村々は浅野家から真田家を見張るよう命じられる立場でもあり、宴の逸話では、村人が酔いつぶれたすきに信繁が出発したと語られています。
Q. 九度山の真田まつりとは何ですか?
A. 毎年5月に九度山町で開かれる祭りで、赤備えの甲冑をまとった武者行列が町を練り歩き、真田庵まで向かいます。
まとめ
真田信繁は、関ヶ原のあと九度山で十四年を過ごし、家族や家臣とともに村の中で暮らしました。村人の気持ちを直接伝える記録はありませんが、真田紐や法要の宴の伝承、屋敷跡に建てられた真田庵は、真田家が村の暮らしに溶けこんでいたことを物語っています。村人は見張り役も命じられていて、「みんなが幸村を助けた」という姿は後世に育った面もありますが、英雄となった幸村を誇りとして語り継いできた九度山の人びとの思いは、いまも真田まつりの赤備えの行列に生きています。
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