- 茶々(淀殿)が弓を得意としていたことを示す記録は、見当たりません。ドラマで茶々が弓を引く場面は、創作とみられます
- ただし、江戸時代の初めにまとめられた『当代記』には、大坂冬の陣のとき淀殿が武具を身につけ、武装した女房を三、四人従えて番所の武士を励ましたという記述があります
- 「八十キロもの鎧を着て馬で城内を回った」といった話もありますが、こちらは出どころのはっきりしない逸話です
- 演じる井上和さんの弓を引く姿は、放送後にニュースになるほど話題になりました。筆者は、ドラマの弓を、二度の落城を生きのびた茶々の「守られるだけではない」一面を表す演出として読んでいます
『豊臣兄弟!』で井上和さんが演じる茶々は、これまでの放送で、弓を引き絞る姿がたびたび描かれてきました。その凛とした構えは放送後にニュースになるほど話題になりましたが、では史実の茶々は、本当に弓が得意だったのでしょうか。この記事では、茶々と武芸について史料で分かることと、分からないことを分けて整理します。茶々の一生の流れは茶々(淀殿)とはでまとめています。
結論 ─ 「弓の名手・茶々」の記録はない
先に結論を書くと、茶々が弓を得意としていた、あるいは弓を習っていたことを示す史料は、筆者が調べたかぎりでは見当たりません。そもそも茶々の若いころの日々を伝える記録はとても少なく、小谷城と北ノ庄城の二度の落城、秀吉の側室になったこと、鶴松と秀頼を産んだことといった大きな出来事のほかは、ほとんど分かっていないのです(お市の方と浅井三姉妹)。ドラマで茶々が弓を引く場面は、人物像をつくるための創作とみるのが自然です。
史料に残る淀殿の「武の顔」 ─ 大坂冬の陣の『当代記』

弓の記録はありませんが、淀殿が武具を身につけたという記録は残っています。江戸時代の初めにまとめられた記録『当代記』には、慶長19年(1614)の大坂冬の陣のとき、淀殿が武具を着て、武装した女房を三、四人従え、城の番所を回って武士たちに声をかけ、励ましていたと書かれています。籠城する豊臣方にとって、秀頼の母である淀殿は城の中心にいる人物で、自ら番所に足を運ぶ姿は、兵たちの士気を支えるものだったのでしょう(大阪城)。
一方で、「淀殿は八十キロもの大鎧を身につけ、馬に乗って城内を激励して回った」といった話も紹介されることがありますが、こちらは出どころがはっきりしない逸話です。武具を着て番所を回ったことと、重い鎧で馬を乗り回したことは、分けて考える必要があります。
戦国の武家の女性と武芸
戦国時代には、城が攻められたとき、城主の妻や娘、侍女たちが籠城に加わった話がいくつも伝わっています。ただ、その多くは後の時代の軍記に書かれたもので、どこまで本当かを確かめるのは難しいのが実情です。武家の女性が薙刀などの武芸をたしなむ姿が「たしなみ」として広く語られるようになるのは、むしろ江戸時代に入ってからのことです。茶々が姫として育った小谷城や北ノ庄城で、どんな教育を受けていたのかは、記録からは分かっていません(小谷城跡/北ノ庄城)。
ドラマの弓は何を表しているのか(筆者の見方)
ここからは筆者の見方です。茶々は幼いころに父の城を、十代の半ばで母の城を失い、どちらの落城でも、攻める側には秀吉がいました(小谷城の戦い)。ドラマの茶々が弓を引き絞る姿は、ただ守られるだけの姫ではなく、自分の意志で何かに狙いを定める女性として描こうとしているように見えます。そして、その姿の先には、大坂冬の陣で武具をまとって番所を回った淀殿がいるのかもしれません。第39回「茶々の本心」で、弓がどんな意味をもって描かれるのかにも注目です(第39回「茶々の本心」の予想と史実)。
気の強さの裏にあったもの
「武具を着た淀殿」は、気の強い女性という印象を強めてきました。けれども、同じころの淀殿については、医師・曲直瀬玄朔の記録『医学天正記』に、「気鬱」で食が進まず、めまいや頭痛に悩んで薬を処方されたことも残っています。強さと弱さの両方をもった一人の女性として見ると、茶々の姿はずいぶん違って見えてきます(茶々は本当に悪女だったのか)。
よくある疑問
Q. 茶々は弓が得意だったのですか?
A. それを示す史料は見当たりません。ドラマの弓の場面は創作とみられます。
Q. 淀殿が鎧を着たというのは本当ですか?
A. 『当代記』に、大坂冬の陣で武具を着て、武装した女房を三、四人従え、番所の武士を励ましたという記述があります。八十キロの鎧で馬に乗ったという話は、出どころのはっきりしない逸話です。
Q. 『豊臣兄弟!』で茶々を演じているのは誰ですか?
A. 井上和さんです。弓を引く姿は放送後にニュースで取り上げられるほど話題になりました。
まとめ
茶々が弓を得意としていたという記録はなく、ドラマの弓の場面は創作とみられます。ただし、大坂冬の陣で武具を身につけて番所を回り、武士たちを励ました淀殿の姿は『当代記』に残っています。井上和さんが演じる茶々の弓は、そうした「武の顔」と、二度の落城を生きのびた強さを重ねた演出なのかもしれません。茶々の一生は茶々(淀殿)とはで、心と体の不調については茶々は本当に悪女だったのかでまとめています。
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