豊臣と羽柴はどう違うのか:秀吉が作った新しい氏「豊臣」と、大名たちに配った名字「羽柴」

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この記事のポイント
  • 「豊臣」は朝廷から与えられる氏(うじ・本姓)で、「羽柴」は家の名前である名字。秀吉は豊臣を得たあとも、名字は羽柴のままでした
  • 豊臣は源・平・藤原・橘に並ぶ新しい氏として作られ、与えられた時期は天正13年9月説と天正14年12月説があります
  • 秀吉は豊臣の氏だけでなく、羽柴の名字も有力な大名たちに次々と与え、前田・毛利・上杉・宇喜多・伊達などが「羽柴」を名のりました
  • ねらいは、譜代の家臣を持たない秀吉が、大名たちを「羽柴一門」として身内のように束ねることでした
  • 大坂の陣で豊臣家が滅ぶと、羽柴の名字は使われなくなっていきました

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第38回では、秀吉が帝の許しを得て新しい「氏」を名のる場面が描かれます。その氏こそが「豊臣」ですが、実は秀吉はその後も「羽柴」という名前を捨てていません。それどころか、自分の家臣でもない大名たちにまで「羽柴」を名のらせています。豊臣と羽柴はどう違い、なぜ秀吉は二つの名前を配ったのでしょうか。

目次

氏(うじ)と名字は、別のものだった

いまの私たちは名前を「姓と名」の二つで考えますが、戦国時代の武士には、名字と氏(本姓)という二つの「姓」がありました。名字は、住んだ土地や家の由来から名のる家の名前で、織田・徳川・前田のようなものです。一方の氏は、源・平・藤原・橘のように、朝廷がその人の家筋として認めるもので、官位を受けるときに使われました。たとえば徳川家康は、名字が徳川、氏が源で、正式には「源朝臣家康」と名のっています。

ですから秀吉が「豊臣になった」というのは、名字を変えたのではなく、朝廷向けの氏を新しくしたということです。日常の名字は羽柴のままで、書状や記録には「羽柴」と「豊臣」が並んで使われました。

▽ よく語られる話
秀吉は木下から羽柴へ、羽柴から豊臣へと名字を変えていった。
▼ 史実ではこうです
名字が木下から羽柴に変わったのは確かですが、豊臣は名字ではなく氏です。秀吉は死ぬまで名字は羽柴で、正式な場では「羽柴」の名字と「豊臣朝臣」の氏を組み合わせて名のっていました。「豊臣秀吉」という呼び方は、氏と名を並べた、いわば朝廷向けの名前なのです。

「羽柴」はどうして生まれたのか

秀吉がそれまでの木下から羽柴に名字を改めたのは、浅井家が滅んで北近江を任された天正元年(1573)以後のことです。織田家の重臣だった丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつもらったという話が有名ですが、これは江戸時代の書物に見える説で、確かな裏づけがあるわけではありません。いずれにしても、信長の家臣として城持ちになったときに作られた、秀吉の家の名前でした。弟の秀長も、兄に続いて羽柴を名のっています。

長浜城(滋賀県長浜市)の天守
長浜城(滋賀県長浜市)。秀吉が羽柴を名のりはじめた北近江の城です。いまの天守は昭和に建てられた模擬天守です。

羽柴という名字の成り立ちについては 豊臣兄弟!第18〜21回 史実解説|「羽柴」という姓はどう作られたのか でもくわしく取り上げています。

なぜ新しい氏「豊臣」を作ったのか

天正13年(1585)7月、秀吉は関白になります。関白になれるのは藤原氏の家筋に限られていたため、秀吉は公家の近衛前久の養子の形をとり、いったん藤原氏を名のりました。けれども、借りものの藤原氏のままでは、自分の子孫が関白の地位を受け継ぐことはできません。そこで秀吉は、源・平・藤原・橘に並ぶ、まったく新しい五番目の氏を作ることを朝廷に認めさせました。それが豊臣です。

秀吉の側近だった大村由己が書いた『任官之事』には、古い氏を継ぐのではなく新しい氏を立てるという秀吉の考えが記されています。豊臣を与えられた時期は、天正13年9月9日とする説(『押小路家文書』)と、太政大臣になった天正14年(1586)12月とする通説があり、はっきりしていません。関白になるまでの経緯は 秀吉はなぜ関白になったのか をご覧ください。

羽柴を名のった大名たち

秀吉は、豊臣の氏を家臣たちに広く与えただけでなく、羽柴の名字も有力な大名に次々と与えていきました。記録から、羽柴を名のったことが分かる主な大名を並べると次のようになります。

立場 羽柴を名のった主な大名
秀吉の一族 豊臣秀長、豊臣秀次、豊臣秀勝、豊臣秀保
織田家の旧臣・一門 堀秀政、丹羽長重、前田利家・利長、蒲生氏郷、池田輝政、細川忠興、長谷川秀一、佐々成政、織田信雄
秀吉の養子・縁者 宇喜多秀家、小早川秀秋、結城秀康
服属した大大名 毛利輝元、上杉景勝、伊達政宗、島津義弘、筒井定次

天正15年(1587)正月の秀吉の朱印状には、宇喜多秀家、細川忠興、筒井定次、丹羽長重、前田利長、堀秀政、蒲生氏郷、池田輝政(当時は照政)、佐々成政らが、そろって「羽柴」の名字で書かれています。天正14年から15年にかけて、名のある大名のほとんどが羽柴を名のる状態になっていたことが分かります。徳川家の人びとについても、家康の子の結城秀康が羽柴を名のり、家康や秀忠も羽柴の名字を与えられたとする見方があります。

羽柴の名字は家ではなく、その人個人に与えられるものでした。与えられた大名は、多くが「侍従」「少将」などの公家の官職にも任じられ、武家でありながら朝廷の身分秩序にも組み込まれていきます。

秀吉は、なぜ名字まで配ったのか

尾張の百姓の家に生まれた秀吉には、父祖の代から仕えてきた譜代の家臣がいませんでした。身内として頼れるのは、弟の秀長や甥たち、妻ねねの親族くらいです。そのうえ、服属させた大名の多くは、もとは織田家の同僚や、自分と戦った相手でした。

そこで秀吉は、大名たちに自分と同じ羽柴の名字を名のらせ、形の上で「羽柴一門」という大きな一族を作り上げました。血はつながっていなくても、同じ名字を名のる者どうしという関係が、秀吉を頂点とする主従の秩序を目に見える形にしたのです。豊臣という氏で朝廷の世界の頂点に立ち、羽柴という名字で武家の世界を一つの家のようにまとめる、という二段構えでした。

建設中の聚楽第を見上げる秀吉の後ろ姿のイメージ(イラスト)
建設中の聚楽第を見上げる秀吉のイメージ(イラスト)。天正16年の聚楽第行幸では、羽柴を名のる大名たちが天皇の前で秀吉への忠誠を誓いました。記録をもとに描いた想像図です。

天正16年(1588)、秀吉は後陽成天皇を聚楽第に迎え、集まった大名たちに、天皇と関白・秀吉への忠誠を誓う起請文を出させました。豊臣の氏と羽柴の名字で束ねた大名たちを、天皇の前でひとつの秩序として見せる、秀吉の政権の頂点ともいえる場面です。聚楽第については 秀吉は京都で何をしていたのか でふれています。

羽柴の名字は、その後どうなったのか

秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いで徳川家康が主導権を握ると、羽柴の名字は少しずつ意味を失っていきます。それでも、島津家久・細川忠興・池田輝政・福島正則など、しばらく羽柴を名のり続けた大名もいました。大坂の陣で豊臣家が滅ぶと、羽柴の名字はほぼ使われなくなり、秀吉の妻・ねねが養子に羽柴の家を継がせようとしたときも、幕府は羽柴を名のることを許さず、木下の名字に改めさせたと伝わります。

一方、豊臣の氏を受けた大名たちも、江戸時代にはそれぞれ源や藤原などの氏に改めていきました。こうして、秀吉が作った二つの名前は、豊臣家とともに表舞台から消えていったのです。豊臣家の最期は 豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのか や、秀次事件の記事でも取り上げています。

よくある疑問

Q. 豊臣秀吉と羽柴秀吉、どちらが正しい名前ですか?
A. どちらも正しい名前です。羽柴は名字、豊臣は朝廷から与えられた氏で、秀吉は両方を使い分けていました。

Q. 秀長も豊臣を名のったのですか?
A. はい。秀長も羽柴の名字と豊臣の氏を持ち、大納言になってからは「大和大納言」と呼ばれました。

Q. 徳川家康も羽柴を名のったのですか?
A. 家康の子の結城秀康が羽柴を名のったことは知られています。家康や秀忠にも羽柴の名字が与えられたとする見方がありますが、家康自身は正式な場では源の氏を使っていました。

Q. 「豊臣」という名前の由来は何ですか?
A. 「豊かな臣」という意味をこめたとも言われますが、名づけの理由をはっきり記した史料はありません。

まとめ

「豊臣」は秀吉が朝廷に認めさせた新しい氏、「羽柴」は信長の家臣時代から名のった名字で、秀吉は生涯この二つを使い分けました。そして豊臣の氏で朝廷の頂点に立つ一方、羽柴の名字を大名たちに配って、形の上の一族「羽柴一門」を作り上げます。譜代の家臣を持たない秀吉にとって、名前を配ることは天下をまとめるための大切な仕組みで、第38回で秀吉が新しい氏の名前を思案する場面は、その仕組みが始まる瞬間でもあるのです。

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