※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
越前松平家は、徳川家康の次男・結城秀康に始まる家です。秀康は越前六十八万石の大名になりましたが、跡を継いだ子の松平忠直は元和九年(1623年)に改易されて豊後へ流され、忠直の子で越後高田の城主となった光長も、天和元年(1681年)の越後騒動で改易されました。家康の孫とひ孫が、二代続けて領地を取り上げられたのです。それでも越前松平家は絶えず、福井藩や松江藩、津山藩などに分かれて幕末まで続きました。
- 秀康の子・忠直は大坂の陣で真田信繁を討つ大手柄を立てたが、恩賞に不満を募らせ、乱行を理由に改易された
- 孫の光長は家臣の争い「越後騒動」を収められず、将軍綱吉の裁きで改易された
- 越前は弟の忠昌が継ぎ、秀康の子孫は福井・松江・津山などの大名家として続いた
- 「家康の長子筋」でありながら将軍になれなかった家の、二度の挫折
越前松平家とは|家康の次男・秀康から始まった家
結城秀康は、家康の次男として生まれながら、秀吉の養子となり、さらに下総の結城家の養子となった人物です。関ヶ原の戦いでは宇都宮に残って上杉景勝をおさえ、その功で越前六十八万石を与えられて福井城を築きました。しかし慶長十二年(1607年)、三十四歳の若さで亡くなります。秀康の子孫は徳川の姓ではなく松平を名のり、「越前松平家」と呼ばれるようになりました。秀康の生涯は結城秀康とは:家康の次男・於義丸が「養子」という名で秀吉に送られた、秀康が築いた城は福井城址で書いています。
松平忠直|真田信繁を討った若き当主
秀康のあとを継いだのは、嫡男の忠直でした。父が亡くなったとき、忠直はまだ十三歳。幼い当主のもとで家臣たちの対立が激しくなり、慶長十七年には重臣どうしの争いが武力でぶつかる「越前騒動」まで起きています。忠直は二代将軍秀忠の娘・勝姫を正室に迎え、将軍家とも強く結ばれていました。
忠直の名を一躍高めたのが、元和元年(1615年)の大坂夏の陣です。越前勢は天王寺・岡山の戦いで大坂城に一番乗りを果たし、忠直の鉄砲頭・西尾宗次が真田信繁(幸村)を討ち取りました。取った首の数は諸大名のなかで最も多かったといいます。真田信繁の最期は真田幸村(信繁)とは何者か、大坂の陣の全体像は大坂の陣をわかりやすく解説で書いています。
なぜ忠直は改易されたのか|恩賞への不満と「乱行」
ところが、これほどの手柄を立てながら、忠直の領地は増えませんでした。与えられたのは茶器などの褒美で、一方で弟の忠昌は加増を受けます。忠直は幕府への不満を募らせ、参勤を怠るようになったといわれます。やがて酒色におぼれ、正室勝姫の侍女や家臣を手にかけたという話まで伝わるようになりました。元和九年(1623年)、幕府は忠直に隠居を命じ、豊後へ流します。忠直は出家して「一伯」と名のり、豊後の萩原、のちに津守に住んで、慶安三年(1650年)に五十六歳で亡くなりました。身内であっても処罰が家族や家臣にどう及んだのかは、秀吉の時代の例と比べると違いが見えてきます(秀吉の処罰はなぜ家族まで及んだのか)。
松平光長|越後高田の城主と「越後騒動」
忠直が流されたあと、嫡男の光長は越前ではなく越後高田に移され、二十五万石余りの大名になりました。光長が本拠としたのが高田城です。光長は長く藩主の座にありましたが、晩年、跡継ぎをめぐって家老の小栗美作と、反対派の家臣たちが激しく対立します。これが越後騒動です。四代将軍家綱のもとでいったん裁きが下されましたが、五代将軍綱吉は将軍になると自ら裁き直し、天和元年(1681年)、小栗美作に切腹を命じ、光長も家を治められなかった責任を問われて改易されました。光長は伊予松山藩に預けられ、のちに許されています。
それでも家は続いた|福井・松江・津山へ
二度の改易を受けながらも、秀康の血筋は絶えませんでした。忠直が流されたあとの越前は、弟の忠昌が継いで福井藩となり、幕末には名君として知られる松平春嶽(慶永)を出します。秀康の三男・直政は出雲の松江藩主となり、松江城の城主として明治まで続きました。改易された光長の家も、養子を迎えて美作の津山藩主として再び大名に返り咲いています。家康の実質的な長子の家筋が、将軍にこそならなかったものの、全国に根を張って生き残ったのです。
結城秀康とは:家康の次男・於義丸が「養子」という名で秀吉に送られた
すべての始まり。秀吉の養子、結城家の養子を経て、越前六十八万石へ。
まとめ|将軍になれなかった「家康の長子筋」
家康の長男・信康が早くに亡くなったあと、本来なら家を継いでもおかしくなかった秀康の家は、秀忠の家に将軍の座を譲り、その子と孫は二度にわたって改易されました。大坂の陣の大手柄から、豊後への配流、越後騒動での改易、そして各地の大名家としての再生まで。越前松平家の歩みは、徳川一門であっても幕府の秩序から外れることは許されなかった、江戸時代初めの厳しさを物語っています。秀吉の時代の処罰との違いは秀吉に処刑・切腹させられた人びとと比べてみてください。

