滝川一益とは:信長の重臣はなぜすべてを失ったのか 蟹江城の一発逆転と、越前大野での最期、子孫のその後

船団を率いて城に迫る老将・滝川一益のイメージ(イラスト)

※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

滝川一益は、織田信長の重臣として伊勢攻略や武田攻めで活躍し、一時は上野一国を任されて関東の押さえとなった武将です。ところが本能寺の変で運命が一変し、北条軍に敗れて伊勢へ逃げ帰り、清須会議にも間に合いませんでした。柴田勝家について秀吉と戦って敗れ、すべての領地を失います。小牧・長久手の戦いでは秀吉方として蟹江城を海から奪う一発逆転を狙いましたが、半月あまりで家康に取り返されました。それでも命は助けられ、越前大野で余生を送って六十二歳で亡くなります。子孫は旗本や岡山藩の重臣として続き、刑法学者の瀧川幸辰もその流れをくむとされます。

この記事のポイント
  • 信長の重臣として伊勢・長島・武田攻めで活躍し、上野一国を与えられた
  • 本能寺の変のあと神流川の戦いで北条に敗れ、清須会議に間に合わず地位が急落
  • 賤ヶ岳で勝家方につき全領地を没収。蟹江城で一発逆転を狙うも失敗
  • 命は助けられ越前大野で没。子孫は旗本・岡山藩士として続いた
目次

滝川一益とは|信長の「攻めの重臣」

一益は大永五年(1525年)ごろの生まれとされ、近江の甲賀の出身とする説がありますが、若いころのことははっきりしません。信長に仕えると、伊勢攻めの先鋒として北伊勢を切り取り、長島一向一揆との戦いでは九鬼嘉隆らとともに水軍を率いて海から攻めました。海と船を使う戦いに強かったことは、のちの蟹江城の戦いにもつながっていきます。九鬼嘉隆については豊臣水軍とはで書いています。

上野一国と、欲しかった茶器|珠光小茄子の逸話

天正十年(1582年)の武田攻めで、一益は武田勝頼を天目山のふもとまで追いつめて滅ぼす大きな手柄を立てました。恩賞として与えられたのは上野一国と信濃の一部。関東の押さえを任される、重臣中の重臣の扱いでした。ところが一益本人は、領地よりも名物の茶器「珠光小茄子」が欲しかったといいます。遠い関東に置かれることになり、「茶の湯の冥加も尽きた」と嘆いたと伝わります。上野での一益の拠点は前橋城(厩橋城)でした。

神流川の戦いと清須会議|本能寺の変で狂った運命

そのわずか三か月後、本能寺の変で信長が倒れます。好機と見た北条氏は大軍で上野に攻めこみ、一益は神流川の戦いで初戦こそ勝ったものの翌日に敗れて、伊勢へ引き揚げることになりました。途中で信濃の小諸城を明け渡すなど帰国に手間取るうちに、織田家の今後を決める清須会議が開かれてしまいます。一益はその場にいられず、秀吉や柴田勝家らが話を進めるなかで、織田家での地位は一気に下がりました。清須会議については清須会議をわかりやすく解説で書いています。

賤ヶ岳で勝家方に|全領地を失い剃髪

天正十一年(1583年)、一益は柴田勝家と結んで秀吉と戦います。勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れて滅んだあとも、一益は伊勢の長島城に籠もって孤軍奮闘しましたが、七月には降伏しました。所領はすべて取り上げられ、一益は京の妙心寺で頭を丸めます。かつて関東を任された重臣が、一転して何も持たない身になったのです。賤ヶ岳の戦いの流れは賤ヶ岳の戦いをわかりやすく解説をご覧ください。

蟹江城の戦い|海から狙った一発逆転

天正十二年(1584年)、秀吉と徳川家康・織田信雄が争った小牧・長久手の戦いで、一益は秀吉方として再び表舞台に立ちます。長久手で秀吉方が敗れたあと、戦線が動かなくなると、一益は九鬼嘉隆の水軍とともに、信雄方の蟹江城を海から奪い取りました。城主の前田長定を寝返らせての奇襲です。蟹江城は、かつて一益自身が築き直した城で、勝手を知る場所でした。尾張への入口を押さえ、名誉を取り戻す一発逆転の賭けでした。

しかし家康と信雄の動きは素早く、すぐに蟹江城を囲みます。一益は半月あまり持ちこたえたものの、七月三日に城を明け渡しました。退去の途中で、寝返った前田長定は討ち取られています。この失敗で、秀吉は尾張を力ずくで取る道をあきらめ、信雄との講和へ向かうことになりました。戦いの詳しい経緯は蟹江城跡、小牧・長久手の戦い全体は小牧・長久手の戦いはどっちが勝った?で書いています。

▽ よく語られる話
蟹江城で失敗した一益は、怒った秀吉に見捨てられ、失意のうちに死んだ。
▼ 史実ではこうです
蟹江城の失敗のあとも、秀吉は一益の命を奪わず、一益に三千石、次男の一時に一万二千石を与えています。一益はその後、関東の大名たちとの交渉役を務めたとも伝わります。ただ、かつての重臣の地位に戻ることはなく、大きな領地や戦場を任されることはありませんでした。見捨てられたというより、表舞台からは静かに遠ざけられた、というほうが実態に近いでしょう。

越前大野での最期|六十二歳の死

晩年の一益は越前大野に住み、天正十四年(1586年)九月、六十二歳で亡くなりました。信長のもとで関東を任された武将としては、静かな最期です。同じように本能寺の変のあと運命が大きく変わった織田家の重臣には、丹羽長秀や柴田勝家がいますが、戦いに敗れながら命を保って畳の上で死んだのは、一益の生き方の特徴と言えるかもしれません。大野の城については越前大野城で書いています。

一益の子孫|旗本、岡山藩士、そして刑法学者へ

一益の長男・一忠は、敗戦の責任を問われて追放されました。次男の一時は家康に預けられて二千石を与えられ、その子孫は旗本として幕末まで続きます。三男の辰政は岡山藩の重臣となり、その流れからは、昭和の京大事件で知られる刑法学者・瀧川幸辰が出たとされます。また、織田信雄の家老で、一益から滝川の名字を与えられた滝川雄利は、のちに常陸の片野藩主となり、その子孫には幕末の大目付・滝川具挙もいます。蟹江の失敗で大名としての滝川家は途絶えましたが、その名は形を変えて江戸時代を生き抜きました。

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まとめ|一益は何を読み違えたのか

滝川一益は、信長の時代には攻めの重臣として輝きましたが、本能寺の変のあとの一年あまりで、上野、清須、賤ヶ岳、蟹江と、読み違いと不運が続きました。とくに清須会議にいられなかったことは、織田家の後継争いから外れる決定的な痛手でした。秀吉に処刑された武将たちと比べると、命を助けられた一益の扱いは寛大ですが、それは一益がもはや脅威ではなかったからでもあります。秀吉の処罰の基準は秀吉に処刑・切腹させられた人びとで見比べられます。

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