豊臣兄弟!第22〜26回 史実解説|三木の干殺しと、二人の軍師が入れ替わった年

三木城:秀吉軍との三木合戦(三木の干殺し)で有名な別所長治の居城 三木城
この記事のポイント

  • 播磨攻めは三年以上かかった。秀吉の生涯でもっとも苦しい戦線
  • 三木の干殺し――兵糧攻めで三木城を落とすまで約二年
  • 黒田官兵衛が有岡城に幽閉される。信長は裏切りを疑い、人質の松寿丸に死を命じた
  • 竹中半兵衛が松寿丸をかくまい、そのまま病没する
▽ よく語られる話
秀吉は連戦連勝で出世した人である。
▼ 史実ではこうです
播磨では三年以上、徹底的に苦しんでいます。国衆に一斉離反され、味方の荒木村重に謀反され、参謀の竹中半兵衛を失った。秀吉の生涯でもっとも重い時期です。そしてこの粘りが、のちの水攻めや大返しの土台になります。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第22回「播磨大誤算」から第26回「信長を笑わせろ!」まで。播磨の国衆が一斉に離反し、秀吉が三年以上を費やして立て直すまでの五回である。

ここは秀吉の経歴でいちばん苦しい時期だ。そして黒田官兵衛と竹中半兵衛という二人の軍師の、もっとも重い場面でもある。

姫路城。秀吉はこの城を播磨攻めの拠点とした。現在の姿は江戸期の池田輝政による大改修後のもの

目次

この五回で実際に起きたこと

  • 天正五年(1577)… 秀吉が播磨へ。黒田官兵衛の献策で姫路城を拠点とする
  • 天正六年(1578)… 別所長治が離反。三木城の戦いが始まる
  • 同年十月荒木村重が有岡城で謀反。官兵衛が説得に赴き幽閉される
  • 天正七年(1579)六月竹中半兵衛、病没。享年三十六
  • 同年十月有岡城陥落。官兵衛が救出される
  • 天正八年(1580)正月… 三木城開城。別所長治が自害

補助線①:「三木の干殺し」という戦い方

三木城攻めは約二年に及ぶ兵糧攻めだった。城の周囲に付城を築き、補給路を断ち、飢えるのを待つ。

これは秀吉の得意技である。のちの備中高松城の水攻め、紀州太田城の水攻めも、原理は同じだ。兵を損なわず、時間と土木で勝つ。

そして別所長治は最後、城兵の命と引き換えに自害した。「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば」という辞世が伝わる。

補助線②:官兵衛は、なぜ一年も幽閉されたのか

荒木村重の謀反を知った黒田官兵衛は、単身で有岡城へ説得に向かい、そのまま捕らえられて土牢に幽閉された。約一年に及ぶ。

信長はこれを裏切りと判断した。そして人質に取っていた官兵衛の子・松寿丸(のちの黒田長政)を殺すよう命じる。

ここで竹中半兵衛が動く。松寿丸を殺したと偽って、自分の領地にかくまったのである。

官兵衛が救出されたとき、松寿丸は生きていた。だが半兵衛はすでに死んでいる。

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黒田官兵衛(如水):秀吉が最も恐れた天才軍師〜有岡城の幽閉から関ヶ原まで

土牢の一年が、この人の何を変えたのか。生涯を通して追っています。

なぜ半兵衛は、命令に背いてまで子どもを救ったのか

ここは、この五回でいちばん重い場面である。

信長が松寿丸を殺せと命じたのは、官兵衛が裏切ったと判断したからだ。人質を取っている以上、裏切れば人質を殺す。それが当時の理屈であり、信長は実際にそれを実行してきた人物である。

竹中半兵衛は、その命令に背いた。殺したと偽り、自分の領地に子どもを隠したのである。

これは並の危険ではない。露見すれば半兵衛自身が死ぬ。しかも官兵衛が本当に裏切っていた場合、庇う理由はどこにもない。

それでも半兵衛は「官兵衛は裏切っていない」という一点に賭けた。そして賭けは当たった。有岡城が落ち、土牢から官兵衛が出てきたとき、その判断は正しかったと証明される。

だが半兵衛は、その四か月前に死んでいる。自分の賭けが正しかったことを、この人は知らないまま逝った。

なぜ官兵衛は、単身で有岡城へ行ったのか

もうひとつの「なぜ」である。

荒木村重の謀反を知ったとき、官兵衛は説得に行くと言い出した。危険は誰にでもわかる。それでも行った。

理由は史料からは断定できない。ただ、官兵衛と村重は旧知の間柄だった。話せばわかると考えたのだろう。

結果は土牢である。一年に及ぶ幽閉で、官兵衛は足が不自由になったと伝わる。そして出てきたとき、彼は以前と同じではなくなっていた。

「秀吉が最も恐れた男」と呼ばれる黒田官兵衛は、この土牢のあとに生まれている。人を信じて行った男が、人に裏切られて閉じ込められ、それでも生きて出てきた。その一年が何を変えたのかは、想像するしかない。

補助線③:二人の軍師が入れ替わった年

天正七年という年は、秀吉の頭脳が交代した年でもある。

六月に竹中半兵衛が病没し、十月に黒田官兵衛が土牢から出てくる。入れ替わるようにして、参謀が代わった。

半兵衛は稲葉山城を奪って返した男である。官兵衛は最後まで秀吉に警戒され続けた男だ。同じ「軍師」でも、質がまるで違う。

補助線④:この時期の秀長

播磨で兄が苦しんでいるあいだ、秀長は但馬を固めていた。但馬は播磨の背後にあたる。ここが崩れれば、秀吉は前後を挟まれる。

目立つ武功はない。だが「兄が正面で戦えるように、側面を塞ぐ」のがこの人の仕事だった。以後の四国・九州でも、この役割は変わらない。

現地はいま

  • 姫路城(兵庫県姫路市)… 秀吉の播磨攻めの拠点。現在は世界遺産
  • 三木城(兵庫県三木市)… 二年の兵糧攻めに耐えた別所氏の城
  • 有岡城(兵庫県伊丹市)… 荒木村重の城。官兵衛が幽閉された
  • 花隈城(兵庫県神戸市)… 有岡城の戦いで荒木方最後の牙城となった
  • 竹田城(兵庫県朝来市)… 秀長が押さえた但馬の城

よくある疑問

Q. 荒木村重はなぜ謀反したのですか?
A. 確たる理由は史料からは断定できません。本願寺との内通を疑われたため先手を打ったとも、信長の統制に反発したとも言われます。

Q. 竹中半兵衛の死因は?
A. 病死とされ、肺の病だったと伝わります。三木城の陣中で亡くなりました。

Q. 松寿丸とは誰ですか?
A. 黒田官兵衛の嫡男で、のちの黒田長政です。関ヶ原で東軍の主力として戦い、筑前福岡藩の初代藩主となりました。

イラストで見る武将・姫たち

この記事に登場する人物は、姉妹サイト「日本の武将ガイド」でイラストとあわせてご覧いただけます。

  • 黒田孝高 … 黒田官兵衛。有岡城の土牢に一年幽閉された
  • 竹中重治 … 竹中半兵衛。松寿丸をかくまい、この年に病没
  • 豊臣秀吉 … 播磨で生涯もっとも苦しい戦線を戦った
  • 豊臣秀長 … 但馬を固め、兄の側面を守った
  • 織田信長 … 裏切りを疑い、松寿丸に死を命じた

まとめ

播磨の三年は、秀吉が「勝ち続ける男」ではなかったことを示す時期である。

国衆に裏切られ、味方に謀反され、参謀を失った。それでも兵糧攻めで押し切った。この粘りが、のちの水攻めや大返しにつながっていく。

そして二年後、備中高松で信長の死を知ることになる。

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