秀吉には、長浜のころから仕えた古参の家臣がいました。そのうち二人、神子田正治と尾藤知宣は、どちらも所領を取り上げられて追放され、最後は斬られています。
二人の履歴はよく似ています。同じ黄母衣衆から出て、同じように戦場での一件で全てを失い、同じように許されませんでした。ただ、失い方は対照的です。神子田は負けて失い、尾藤は負けなかったのに失いました。この違いを並べると、秀吉が何を罰していたのかが見えてきます。
- 黄母衣衆とは何で、二人はそこからどう進んだのか
- 神子田正治が所領を失った二重堀の一件
- 尾藤知宣が、勝った戦で処分された理由
- 二人の経歴が、どこまで確かな史料にもとづくのか
- 古参が伸びず、子飼いが伸びた理由
本放送は日曜 午後8時(NHK総合)、日曜 午後6時(NHK BS)、日曜 午後0時15分(BSプレミアム4K)。再放送は翌週土曜 午後1時05分(NHK総合)と、日曜 午後6時(BSプレミアム4K)です。
二人は、同じところから出発した
神子田正治も尾藤知宣も、秀吉が信長から取り立てられて家臣を持ちはじめたころからの家臣です。二人とも黄母衣衆に加わったと伝わります。黄母衣衆は、母衣を背負って主君のそばに仕える精鋭の役で、信長の家中の仕組みを秀吉が自分の家に取り入れたものでした。
天正元年、秀吉が長浜城主になったとき、知宣は二百五十貫を与えられて黄母衣衆に入り、正治も長浜周辺で二百五十貫文を得ています。出発点は、文字どおり同じ額でした。
そこからは二人とも順調です。知宣は天正五年に播磨で五千石、正治も中国攻めの功で播磨に五千石を加増され、賤ヶ岳のあとには宍粟郡の広瀬城を与えられました。秀長の家臣団の面々と比べても、この時点では見劣りしません。
神子田正治 ─ 二重堀で敗走し、すべてを失う
天正十二年の小牧・長久手。正治は尾張春日井郡の二重堀の守りを任されました。ここを織田信雄の軍勢に奇襲され、部隊は敗走します。
秀吉の怒りは重く、所領をすべて没収のうえ高野山へ追放されました。一度の敗戦で、長浜以来の二十年近くが消えています。

しかも終わりではありませんでした。翌天正十三年閏八月、正治は高野山からも追われます。『武家事紀』によれば豊後まで逃げたといい、やがて捕らえられて斬られ、首は京の一条戻橋に晒されました。処刑の時期ははっきりしません。
高野山がどういう場所だったかは高野山はなぜ秀吉に焼かれなかったのかに書いています。秀吉はこの山を焼きませんでしたが、そこに逃げた家臣は許しませんでした。
尾藤知宣 ─ 勝った戦で、消極策をとがめられる
知宣の方は、少し遅れて同じ道をたどります。しかも、きっかけは負け戦ではありませんでした。
天正十五年四月十七日、根白坂の戦い。知宣は秀長の軍の軍監として、島津の夜襲を受けた宮部継潤の砦へ救援を出すことに反対し、島津が退いたあとの追撃も止めました。砦は守り切れ、戦には勝っています。
それでも秀吉は許しませんでした。同年七月二日、讃岐・丸亀の所領を没収され、追放されます。そこから三年流浪したのち、天正十八年七月に小田原攻めを終えた秀吉の前へ剃髪して現れ、赦しを請うて、路上で手打ちにされました。経緯は尾藤知宣とはに詳しくまとめています。
何が同じで、何が違ったのか
二人の歩みを並べてみます。出奔ではなく、どちらも主君の側から切られた点に注意してください。
| 神子田正治 | 尾藤知宣 | |
|---|---|---|
| 出発点 | 長浜で二百五十貫文。黄母衣衆 | 長浜で二百五十貫。黄母衣衆 |
| 最盛期 | 播磨で五千石加増、宍粟郡広瀬城 | 讃岐・丸亀の大名 |
| つまずき | 天正十二年、二重堀で敗走 | 天正十五年、根白坂で救援を止めた(戦には勝利) |
| 処分 | 所領没収、高野山へ追放。翌年さらに追放 | 所領没収、追放 |
| 最期 | 斬首。首は一条戻橋に晒される。時期は未詳 | 天正十八年七月、赦しを請うた末に路上で手打ち |
秀吉が罰したのは、負けたことではなかった
並べてみると、はっきりします。神子田は負けました。けれども尾藤は負けていません。それでも処分は同じでした。
つまり秀吉が見ていたのは、勝敗そのものではなかった。与えた役目に対して、その者がどう振る舞ったかでした。二重堀を守れと言われて守れなかった。援軍を出すかどうかの場で、出さないほうに賭けた。どちらも「言われた役を果たしていない」と判断されたのだと思います。

同じころ仙石秀久も戸次川の大敗で改易されていますが、こちらはのちに小田原攻めの働きで大名に戻っています。許された者と、許されなかった者の差がどこにあったのかは、秀吉に処刑・切腹させられた人びとと並べて読むと考えやすくなります。
ただし、この二人の経歴は確かな史料が少ない
ここまで書いてきたことには、前置きが要ります。尾藤知宣の記事でも触れましたが、史料の性格の問題です。
なぜ古参は伸びず、子飼いが伸びたのか
もう一つ、二人を並べて見えることがあります。長浜からの古参は、思ったほど大きくなっていないということです。
神子田は五千石の加増どまり、知宣でようやく讃岐一国です。同じころ、藤堂高虎のような後から来た者や、加藤清正・福島正則のような子飼いの世代が伸びていきます。
秀吉の家は、十年ごとに規模が変わりました。長浜の二百五十貫の家と、百万石を分け与える家では、求められる仕事がまるで違います。戦場で手柄を立てる古参より、国を治められる者が要る段階に入っていました。二人の失脚は、その入れ替わりと重なって起きています。
知宣の跡に讃岐へ入ったのは生駒親正でした。高松城を築き、城下町を整えた人です。求められていたのはそちらの仕事だったと言ってよいと思います。
よくある疑問
二人をめぐってよく聞かれることを、根白坂の戦いの話とあわせて整理しておきます。
Q. 黄母衣衆とは何ですか。
A. 母衣を背負って主君のそばに仕える精鋭の役で、信長の家中の仕組みを秀吉が自分の家に取り入れたものです。神子田正治も尾藤知宣も、ここから出発しています。
Q. 二人は『豊臣兄弟!』に登場しますか。
A. この記事を書いている時点では、どちらも配役が発表されていません。ただし根白坂で砦を守った宮部継潤は土平ドンペイさんで発表済みです。九州攻めが描かれるなら、尾藤が出てくる可能性はあります。
Q. 尾藤知宣はなぜ、負けていないのに処分されたのですか。
A. 砦は守り切れましたが、軍監として救援に反対し、追撃も止めたことが問題にされました。結果ではなく、役目に対する振る舞いを見られたのだと考えられます。
Q. 神子田正治はいつ処刑されたのですか。
A. 時期ははっきりしません。天正十三年閏八月に高野山からも追放されたあと、豊後まで逃げて捕らえられ、斬られて首は一条戻橋に晒されたと伝わります。
まとめ
- 神子田正治と尾藤知宣は、ともに長浜以来の古参で黄母衣衆の出身。出発点は同じ二百五十貫だった
- 神子田は天正十二年、小牧・長久手の二重堀で敗走して所領を没収され、高野山へ追放。翌年さらに追われ、斬首されて首を一条戻橋に晒された
- 尾藤は天正十五年、根白坂で救援を止めたことをとがめられて追放。戦には勝っていた
- 秀吉が罰したのは勝敗ではなく、与えた役目に対する振る舞いだったとみられる
- 二人の経歴の多くは『武家事紀』など江戸期の編さん物に拠り、「なぜ」の部分は後から整えられた可能性がある
- 長浜の古参は伸びきらず、国を治められる世代へ入れ替わっていった。知宣の跡の讃岐には生駒親正が入り、高松城と城下町を整えた

