- 備中高松城は低湿地に築かれた沼城で、鉄砲でも騎馬でも攻めにくかった。水攻めはその裏返しの策である
- 堤は天正十年五月八日に着工し、五月十九日に完成した。十二日である
- 土嚢一俵につき銭百文と米一升。当時としては破格の報酬で人を集めた
- 『太閤記』は高さ約七メートル・幅約二十一メートルと伝えるが、蛙ヶ鼻の発掘では高さ約五メートル・基底幅二十六・五メートルだった
- 発案者を黒田官兵衛とする話は有名だが、家臣の吉田長利の献策とする説もある
刀を抜かずに城を落とす。それが水攻めである。
羽柴秀吉は生涯に三度、大がかりな水攻めを行った。備中高松城、紀州の太田城、そして家臣の石田三成に命じた忍城。そのうち最も有名で、最も成功したのが備中高松城である。
ここでは、その堤がどう築かれ、実際にどれほどの大きさだったのかを、発掘調査の数字まで含めて見ていきたい。
沼の城だった ── だから攻められなかった
備中高松城(岡山県岡山市北区)は、天然の要害という言葉から想像する山城とはまったく違う。低湿地に築かれた、平地の沼城である。
石垣も高い土塁もない。それでも難攻不落だった理由は、まわりが泥だったからである。
- 足を取られるので騎馬が使えない
- 寄せ手が身を隠せる場所がなく、鉄砲の的になる
- 大軍で押しても、接近できる正面が狭い
城主は清水宗治。毛利方の将で、備中経略の要にいた人物である。守る側から見れば、これほど条件のいい城はない。

城跡に立つ「高松城水攻之図」の案内板。水に囲まれた城と、堤の位置が描かれている。
水攻めは誰の案だったのか
「黒田官兵衛の献策」として広く知られている。
ただし、ここは少し慎重に見たほうがいい。足守川を堰き止める具体的な方法については、黒田家臣の吉田長利の献策とする説も伝わっている。官兵衛自身は、門前村から下出田村までの区間の工事を指導したと記録されている。
大きな構想を出した人物と、実際の土木を設計した人物と、区間を指揮した人物。それぞれ別だったとしても不思議ではない。「誰の案か」を一人に絞る話は、後世の読み物のなかで整えられていった面がある。
五月八日に着工し、五月十九日に終わった
日付がはっきり残っている。
- 天正十年五月八日 … 築堤開始
- 五月十九日 … 完成
十二日である。
重機のない時代に、川を堰き止める規模の堤を十二日で仕上げた。これは戦の巧拙というより、動員と兵站の話である。
秀吉という武将の本質は、ここに出ていると思う。三木城でも鳥取城でも、彼は敵と斬り合うより先に、兵糧と土木で勝負を決めている。
土嚢一俵に、銭百文と米一升
十二日という速さの理由は、報酬にある。
土嚢一俵を運べば、銭百文と米一升。当時としては非常に高額な報酬だった。士卒だけでなく、周辺の農民も動員されている。
つまり秀吉は、人を徴発したのではなく、買った。
ここは地味だが重要なところだと思う。命令で動かせば手は抜かれるが、割のいい賃仕事なら人は勝手に集まり、勝手に働く。戦国の合戦を経済で解いた例として、これほどわかりやすいものはない。
『太閤記』の堤と、掘り出された堤
では、その堤はどれくらいの大きさだったのか。
ここで、伝承と実測が食い違う。
この差は面白い。後世の記録は堤を「高く」語り、実物は「太く」造られていた。
土木として考えれば、実物のほうが理にかなっている。低湿地に高い堤を細く積めば崩れる。底を広く取って低く抑えるのが、軟弱地盤での正解である。
北は土嚢、南は筵 ── 地面に合わせて造り分けていた
発掘でわかったことは、大きさだけではない。
北側では土嚢を積み、南側では筵(むしろ)状の編み物を敷いた上に盛土していた。同じ堤なのに、区間によって工法が違う。
これは、その場所の地盤に合わせて造り分けたということである。基底面の標高は約三・五メートル、最高点は八・八メートル。十二日という工期の内側で、地面を読みながら手法を変えていた。
「一夜城」のような伝説的な速さの話は各地にあるが、備中高松の堤は、速さの中身が発掘で裏づけられた稀な例といえる。
二百ヘクタールの湖ができた
堤が完成したのは五月十九日。ちょうど梅雨に入る時期である。
足守川の水が堰き止められ、増水した水が城のまわりに溜まった。できあがった水面は、およそ二百ヘクタール。
沼城は、文字どおり湖に浮かぶ孤島になった。兵糧は入らない。援軍も近づけない。矢も鉄砲も、一切いらなくなった。
毛利の援軍は、なぜ動けなかったのか
毛利輝元・吉川元春・小早川隆景は救援に出ている。
兵力について、秀吉自身は手紙に「五万ばかり」と書いた。ただしこの数は秀吉が水増ししたもので、実際は一万程度だったとする説もある。
数がどうであれ、結果は同じだった。湖のこちら側にいる秀吉軍に、援軍は手を出せない。水は毛利の足も止めていた。
六月三日の夜、密書が届く
にらみ合いのなかで、事態が動く。
六月三日の夜、秀吉方が密書を手に入れた。本能寺で信長が討たれたことを知らせる書状である。
ここから先の秀吉の速さは、堤を十二日で築いたのと同じ性質のものだった。その夜のうちに毛利と交渉に入り、翌四日には和睦をまとめている。
和睦の条件は、こう変わった
交渉の中身も残っている。
- 毛利方の提示 … 備中・備後・美作・伯耆・出雲の五国割譲、城兵の命は助ける
- 秀吉の要求 … 五国割譲に加えて、清水宗治の切腹
- 最終的な合意 … 割譲は備中・美作・伯耆の三国に譲歩。ただし宗治の切腹は譲らなかった
領土は削り、人命の条件は削らなかった。信長の死を隠したまま、秀吉は「急いでいない側」の顔で交渉している。この一晩の胆力が、後の天下取りの入口になった。
六月四日、舟の上で
天正十年六月四日の朝、清水宗治は湖に浮かべた小舟の上で腹を切った。
辞世が伝わっている。
浮世をば 今こそ渡れ 武士の
名を高松の 苔に残して
城跡には、この歌を刻んだ碑が立っている。

清水宗治の辞世を刻んだ歌碑。背後に広がるのが城跡の一帯。
宗治が死んだあと、秀吉はただちに東へ返した。世にいう中国大返しである。
三つの水攻めを並べてみる
秀吉に関わる大規模な水攻めは三つある。堤の長さで並べると、印象が変わる。
数字だけ見れば忍城の石田堤が突出しているが、石田堤は元荒川の自然堤防などを取り込んで築かれている。ゼロから積んだ長さではない。そして忍城は、水攻めをかけながら落ちなかった。
備中高松城は、規模では最大ではない。それでも成功例として残ったのは、地形の選び方と、決着までの速さによる。
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現地はいま

「清水長左衛門尉宗治公 首塚」の標柱。城跡公園の一角にある。
城跡は高松城址公園として整備されている。本丸跡、宗治の首塚、辞世の歌碑が残り、堀跡には水面がある。
そして、水攻めを実感したいなら蛙ヶ鼻築堤跡まで足を延ばしたい。城跡から東へ離れた場所に、堤の一部が二百五十メートルにわたって残っている。発掘で土嚢や杭の痕跡が確認されたのも、ここである。
近くには、同じ備中の平城である庭瀬城(庭瀬陣屋)もある。
よくある疑問
Q. 堤は本当に十二日で完成したのですか?
A. 五月八日着工・五月十九日完成と伝わります。高額の報酬で農民まで動員したことが記録されており、短期完成そのものは否定されていません。
Q. 『太閤記』の数字と発掘の数字、どちらが正しいのですか?
A. 蛙ヶ鼻で実際に掘り出された数値のほうが、その地点については確実です。ただし堤は全長約三キロあり、区間によって規模が違った可能性があります。
Q. 水攻めは黒田官兵衛の発案ですか?
A. そう伝わりますが、足守川の堰き止め方は家臣の吉田長利の献策とする説もあります。一人の手柄と決めつけないほうがよさそうです。
Q. 清水宗治はなぜ助からなかったのですか?
A. 秀吉が最後まで切腹条件を下げなかったためです。領土の割譲では譲歩しましたが、宗治の命だけは譲りませんでした。
まとめ
備中高松城の水攻めは、戦というより工事だった。
十二日で堤を築き、梅雨の水を引き込み、二百ヘクタールの湖を作った。矢は飛ばず、鉄砲も鳴らず、城は孤島になった。
そして発掘は、その堤が『太閤記』の言うより低く、太かったことを教えてくれた。伝説は高さを盛り、実際の現場は安定を取っていた。この差にこそ、当時の技術者の判断が残っている。
蛙ヶ鼻の田んぼのなかを、二百五十メートルの土の高まりが弧を描いて延びている。四百年前の十二日間が、いまも地面に残っている。

