豊臣秀次の生涯は、駆け上がるのも落ちるのも異常に速いものでした。十七歳で二万四千の総大将として大敗し、十八歳で四十三万石、二十四歳で関白、二十五歳で従一位・左大臣。そして二十八歳で切腹。敗軍の将から関白まで七年、関白から死まで四年です。この速さは本人の功績によるものではありません。秀吉に実子がいなかったという一点が、この人の位を押し上げ続けました。
- 生まれは永禄十一年(一五六八)。秀吉の姉・ともの子で、実父は三好吉房
- 天正十三年に近江八幡で四十三万石。秀長に次いで豊臣一門で二番目の大身
- 天正十九年に尾張・伊勢北部で百万石、同年十二月に関白
- 翌年には従一位・左大臣。武家としては頂点に近い
- 正室は池田恒興の娘(若政所)
十七歳 ― 敗軍の将として始まった
秀次の名が大きく記録に出るのは、天正十二年の白山林の戦いです。二万四千の総大将として徳川方の奇襲を受け、大敗しました。数え十七歳です。
このとき彼はまだ三好信吉と名のっていました。長宗我部包囲網のために阿波の三好康長の養子に出されていた時期です。
秀吉からは厳しい折檻状が届きます。普通なら、ここで武将としての評価は決まってしまう。ところが秀次の場合、翌年から位が上がりはじめます。
十八歳 ― 近江四十三万石
天正十三年八月、秀次は近江国の蒲生・甲賀・野洲・坂田・浅井の五郡を与えられます。本人分が二十万石、宿老衆分が二十三万石、あわせて四十三万石でした。
この規模を比べてみると意味がわかります。同じ年に豊臣秀長が大和・紀伊・和泉で七十三万石。豊臣一門で秀長に次ぐ二番目の大身が、十八歳の秀次だったのです。
居城として築いたのが八幡山城で、安土城の遺構を多く取り入れたと伝わります。そして同じころ、羽柴秀次と名を改めました。
十九歳から二十一歳 ― 公家の列に入る
ここからは官位が駆け上がります。
- 天正十四年春 右近衛権中将、十一月に参議
- 天正十五年十一月 従三位・権中納言
- 天正十六年四月 従二位
参議より上は公卿です。二十歳で従三位に上がるというのは、武家出身者としては破格でした。秀吉が関白となり豊臣姓を創り出したことで、一門に官位を配る回路ができていたのです。
二十四歳 ― 百万石と、関白
転機は天正十九年です。この年、秀吉の嫡子・鶴松が三歳で死にました。
後継者を失った秀吉は、甥に家督を譲ります。織田信雄の旧領だった尾張国と伊勢国北部五郡が秀次に与えられ、旧領とあわせて百万石。居城を清洲城に移しました。
官位も一気に進みます。十一月二十八日に権大納言、十二月四日に内大臣、そして十二月二十八日に関白。一か月で三段上がっています。
数え二十四歳の関白でした。
二十五歳 ― 従一位・左大臣
翌天正二十年、一月二十九日に左大臣、五月十七日に従一位。
従一位は人臣の最高位にあたります。二十五歳でそこに達した武家出身者は、ほとんど例がありません。
ただし、この位は本人が戦や政で勝ち取ったものではありません。秀吉に実子がいないという事情が、そのまま位になっていたのです。
正室は池田恒興の娘
秀次の正室は池田恒興の娘で、若政所と呼ばれました。
池田恒興といえば、小牧・長久手の「中入り」を献策し、その作戦の途中で討死した武将です。秀次が白山林で大敗したのと同じ、天正十二年四月九日のことでした。同じ日に、義理の父が死に、婿が敗れている。
側室には、菊亭晴季の娘である一の台、最上義光の娘駒姫、淡輪徹斎の娘の小督局などがいました。のちに秀次事件で三条河原に引き出されたのは、この人たちです。
生き残った娘もいます。のちに真田信繁の側室となった隆清院がその一人と伝えられます。
なぜここまで速かったのか
秀次の出世を説明するのに、本人の資質を持ち出す必要はありません。理由ははっきりしています。
秀吉に実子がいなかった。それだけです。
秀吉は姉の子である甥を、後継者候補として位に押し上げ続けました。十八歳で四十三万石を与えたのも、二十四歳で関白を譲ったのも、鶴松を失った直後だったからです。
裏を返せば、秀次の地位は自分の足で立っていなかったということになります。しかも秀吉と秀次が養子縁組したことを示す明証は確認されていません。制度に支えられていない地位でした。
だから秀頼が生まれたとき、この地位はそのまま崩れます。文禄四年、二十八歳で高野山に追われ、切腹しました。
まとめ
十七歳で敗軍の将、十八歳で四十三万石、二十四歳で関白、二十五歳で従一位。そして二十八歳で切腹。
上がるのも落ちるのも、本人の手柄でも失敗でもありませんでした。秀吉に子がいるかどうかだけで決まっていた。豊臣秀次という人の速さは、豊臣という家の不安定さそのものです。
