妻子人質令とは|天正17年、秀吉が大名の妻子を京に集めた理由 ─ 聚楽第の大名屋敷から江戸の制度へ

水堀と石垣に囲まれ、金箔瓦の御殿がかがやく聚楽第のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 妻子人質令とは、天正17年(1589)9月、秀吉が諸大名に対して、妻子を京に住まわせるよう命じたことを指す呼び名です
  • 大名たちは聚楽第のまわりに屋敷を構え、そこに妻や跡継ぎを置きました。大名本人が国に帰っても、家族は秀吉の目の届く京に残ることになります
  • この命令を受けて、徳川家康は翌年正月、跡継ぎの長丸(のちの秀忠)を京に送りました
  • 大名の妻子を都に置く仕組みは、のちに江戸幕府にも受け継がれ、大名の妻子を江戸に住まわせる制度につながっていきます

『豊臣兄弟!』第46回では、病のあさひを家康が秀長に託す場面があるようです。この時期、大名の家族が京に集まっていたのには理由がありました。天正17年(1589)9月、秀吉は諸大名に、妻子を京に住まわせるよう命じたのです。のちに「妻子人質令」とも呼ばれるこの命令は、何をねらったものだったのでしょうか。この記事では、命令の中身と背景、そしてその後の影響を解説します。

水堀と石垣に囲まれ、金箔瓦の御殿がかがやく聚楽第のイメージ(イラスト)
水堀と石垣に囲まれた聚楽第のイメージ(イラスト)
目次

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天正17年9月の命令

天正17年9月、秀吉は諸大名に、妻子を連れて京にのぼり、これからは京に住むよう命じました。奈良の興福寺の僧が書いた『多聞院日記』には、諸国の大名衆がみな女房衆を聚楽に同道し、今後は在京するように、という命令が出たことが記されています。

命令の文書そのものは残っていませんが、このころから大名の妻子が京に移り住んだことは、各地の記録からうかがえます。「妻子人質令」という呼び名は、のちの研究者がつけたものです。

聚楽第のまわりの大名屋敷

秀吉は天正15年(1587)に聚楽第を完成させると、そのまわりに大名たちの屋敷を建てさせました。翌年の聚楽第行幸では、諸大名が天皇の前で秀吉への忠誠を誓っています(聚楽第とは、聚楽第行幸とは)。

妻子を京に住まわせる命令は、この大名屋敷を、大名の家族が暮らす場所に変えるものでした。大名本人が国に帰っていても、妻や跡継ぎは京の屋敷に残ります。秀吉に逆らえば、家族の身が危うくなる。妻子は、大名が秀吉に従い続けることの保証、つまり人質の役割を果たしたのです。

▽ よく語られる話
秀吉は大名の妻子を京に閉じこめ、自由を奪った。
▼ 史実ではこうです
大名の妻子は京の屋敷で暮らし、外出や行き来もありました。牢に入れられたわけではありません。ただ、大名が秀吉に背けば家族に危険が及ぶという点で、人質としての意味を持っていたことは確かです。

なぜ天正17年だったのか

天正17年は、秀吉が天下統一の仕上げにかかった年でした。関東の北条氏はまだ従わず、奥州では伊達政宗が会津の蘆名氏を滅ぼしていました。北条との戦いを前に、すでに従った大名たちを確実につなぎとめておく必要があったのです(天正十七年に何が起きたのか)。

大きな戦のあいだに、味方の大名が寝返れば、秀吉の足もとが崩れます。妻子を京に集めておけば、大名は秀吉にそむきにくくなります。北条攻めの半年前に出されたこの命令は、戦の前の備えでもありました。

雪の降る冬の聚楽第の書院で、元服の礼装の少年が上段の天下人の前に平伏するイメージ(イラスト)
聚楽第で元服する長丸(秀忠)のイメージ(イラスト)

徳川家康と長丸

この命令を受けて、徳川家康は翌天正18年の正月、跡継ぎの長丸を京に送りました。12歳の長丸は秀吉のもとで元服し、秀吉の一字を与えられて秀忠と名のったと伝わります。秀吉は長丸の上洛を急がなくてよいとしていたのに対し、家康のほうから送りたいと申し出たともいわれ、北条の縁者でもあった家康が、秀吉への忠誠をはっきり示そうとしたものと見られます(旭姫の死と秀忠の上洛)。

時期 できごと
天正15年(1587) 聚楽第が完成。まわりに大名屋敷が建てられる
天正16年(1588)4月 聚楽第行幸。諸大名が秀吉への忠誠を誓う
天正17年(1589)9月 秀吉、諸大名に妻子を京に住まわせるよう命じる
天正18年(1590)正月 家康の跡継ぎ・長丸が上洛
天正18年 小田原攻め
文禄年間以降 伏見城の城下に大名屋敷が移る
江戸時代 大名の妻子は江戸に住むことが定められる

江戸幕府へ受け継がれた仕組み

大名の妻子を政権の本拠に住まわせる仕組みは、秀吉のあと、徳川家康にも受け継がれました。江戸時代には、大名の正室と跡継ぎは江戸の屋敷に住むことが定められ、大名本人は国元と江戸を行き来する参勤交代を行うようになります。

天正17年の命令は、豊臣政権が大名を従える仕組みとしてだけでなく、二百六十年続く江戸幕府の大名統制の先がけとしても、大きな意味を持っていたのです。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第46回は11月29日(日)放送予定です。伝えられているあらすじでは、家康が体調のすぐれないあさひを秀長に託すようです。大名の家族が京に集まっていたこの時期の事情を知っておくと、場面の背景がわかりやすくなります。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 妻子人質令はいつ出されましたか?
A. 天正17年(1589)9月です。

Q. どんな命令でしたか?
A. 諸大名に、妻子を連れて京にのぼり、京に住まわせるよう命じたものです。

Q. 命令の文書は残っていますか?
A. 文書そのものは残っておらず、『多聞院日記』などの記録から内容がわかります。

Q. 江戸時代の制度とどう関係しますか?
A. 大名の妻子を江戸に住まわせる江戸幕府の仕組みの先がけになりました。

まとめ

天正17年9月、秀吉は諸大名に妻子を京に住まわせるよう命じました。聚楽第のまわりの大名屋敷に家族を置かせることで、大名が秀吉にそむけないようにしたのです。北条攻めを前に出されたこの命令は、徳川家康の跡継ぎ・秀忠の上洛にもつながり、のちの江戸幕府の大名統制にも受け継がれていきました。

参考:『多聞院日記』/黒田基樹『羽柴秀長の生涯』平凡社新書

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