北野大茶湯・名護屋の瓜畑遊び・醍醐の花見はどう違う?|庶民を招いた茶会、秀吉と家康の仮装、大名の茶屋でもてなした最後の宴

満開の桜の下、打掛姿の女性たちが朱塗りの杯を前に座る醍醐の花見のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 秀吉が開いた大がかりな催しのうち、よく混同されるのが「北野大茶湯」「名護屋の瓜畑遊び」「醍醐の花見」の三つです
  • 北野大茶湯(天正15年・1587)は、身分を問わずだれでも参加できた大茶会で、1日で打ち切られました
  • 名護屋の瓜畑遊び(文禄2年・1593)は、朝鮮出兵の陣中で、秀吉が瓜売り、家康があじか(竹かご)売りに扮するなど、大名たちが仮装を楽しんだ催しです
  • 醍醐の花見(慶長3年・1598)は、大名が茶屋を建てて秀吉や女性たちをもてなした花見で、その5か月後に秀吉は亡くなりました

「秀吉が庶民も呼んで開いた茶会」「大名が仮装した宴」「大名が店を構えてもてなした花見」。この三つの記憶がまざってしまう人は多いようです。実はそれぞれ、北野大茶湯・名護屋の瓜畑遊び・醍醐の花見という別の催しで、開かれた年も目的もまったく違います。『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」の予習に、三つの違いを整理しておきましょう(北野大茶湯とは)。

目次

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三つの催しを一覧で比べる

まずは表で見比べます。だれが招かれたのか、何をしたのか、秀吉の人生のどの時期だったのかに注目すると、違いがはっきりします(史実ではこの後どうなる?第38回以降の年表)。

北野大茶湯 名護屋の瓜畑遊び 醍醐の花見
時期 天正15年(1587)10月1日 文禄2年(1593)の夏 慶長3年(1598)3月15日
場所 京都・北野天満宮と北野の松原 肥前・名護屋城の陣中 京都・醍醐寺
招かれた人 身分を問わずだれでも 陣中の大名たち 北政所・茶々ら女性たちと大名
中身 秀吉と三人の茶頭が茶をふるまう大茶会 大名たちが商人や旅人に扮する仮装の遊び 大名が建てた茶屋をめぐる花見の宴
秀吉の年齢 51歳 57歳 62歳
その後 予定の10日間を1日で打ち切り 朝鮮での戦いは続く 5か月後に秀吉が亡くなる

北野大茶湯 ─ だれでも参加できた大茶会

九州攻めを終え、聚楽第も完成した天正15年、秀吉は京都の北野天満宮で大茶会を開きました。高札で「茶の湯に心がけのある者は、若党・町人・百姓を問わずだれでも来てよい」と呼びかけ、釜一つ、茶碗一つを持ってくればよい、茶がなければ麦こがしでもかまわない、としています。拝殿には黄金の茶室が置かれ、秀吉と千利休・津田宗及・今井宗久の四人が茶をふるまいました(天下三宗匠とは)。

金の柱と壁、赤い障子と畳の黄金の茶室(イメージイラスト)
北野大茶湯の拝殿に運び込まれた黄金の茶室のイメージ(イメージイラスト)

10日間の予定でしたが、茶会は初日だけで打ち切られます。理由は肥後国人一揆の知らせとも、秀吉が満足したからともいわれ、はっきりしません(肥後国人一揆と佐々成政の切腹)。

名護屋の瓜畑遊び ─ 大名たちの仮装大会

文禄元年(1592)に始まった朝鮮出兵で、秀吉は肥前の名護屋に巨大な城を築き、全国の大名をここに集めました。戦いが長引くなか、文禄2年の夏、城内の瓜畑に茶屋を設けて、大名たちが仮装を楽しむ遊びが開かれたと『太閤記』などに伝わります(朝鮮出兵(文禄・慶長の役)をわかりやすく解説)。

秀吉は瓜売りに、家康は「あじか」と呼ばれる竹かごの売り手に扮したといいます。ほかにも前田利家、蒲生氏郷、織田有楽斎らが、商人や旅の者の姿になって加わったと伝わります。天下人と大大名が身分を「やつす」ところに面白みがあった遊びで、北野大茶湯とはまったく別の催しです。

▽ よく語られる話
秀吉は北野大茶湯で、大名たちに仮装をさせて庶民をもてなした。
▼ 史実ではこうです
仮装の遊びは、北野大茶湯から6年後の名護屋での話です。北野大茶湯で秀吉が見せたのは、黄金の茶室と名物の茶道具、そして身分を問わない茶席でした。二つの話が一つにまざって伝わることがよくあります。

醍醐の花見 ─ 大名の茶屋でもてなした最後の宴

慶長3年(1598)3月15日、秀吉は京都の醍醐寺で盛大な花見を開きました。招かれたのは、北政所や茶々(淀殿)、松の丸殿ら秀吉の妻たちと、その侍女たちを中心とする千人を超える女性たちで、男性は秀頼と前田利家らわずかでした。道すじには大名たちが趣向をこらした茶屋を建て、一行をもてなしました。女性たちは途中で衣装を着替えるよう命じられ、何着もの小袖が用意されたと伝わります(秀吉の側室は何人いたのか)。

宴の席で、茶々と松の丸殿が盃を受ける順番を争い、前田利家の妻まつがその場をおさめたという逸話も残っています。この花見から5か月後の8月18日、秀吉は伏見城で亡くなりました(秀吉の死後、なぜ天下は家康に傾いたのか)。

三つを並べると見えること

北野大茶湯は、九州を平定し、天下人として自信に満ちた秀吉が、茶の湯を通じて天下の人びとに力を見せた催しでした。名護屋の瓜畑遊びは、出口の見えない戦いの陣中で、大名たちの気持ちをつなぎとめるための遊びでもあったでしょう。そして醍醐の花見は、跡継ぎの秀頼と妻たちに囲まれた、秀吉の最後の大きな宴でした。

北野大茶湯で茶頭を務めた利休は天正19年に切腹し、その年に秀長も亡くなっています。三つの催しの間に、豊臣家の顔ぶれが大きく変わっていったこともわかります(天正十九年に何が起きたのか)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第42回「北野大茶湯」は11月1日(日)放送予定です。伝えられているあらすじでは、聚楽第の完成を祝う大茶会を秀次(山田涼介)が提案し、秀長(仲野太賀)は「まだ早い」といさめるものの、秀吉の勢いは止められないとされます。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 秀吉や家康が仮装したのはどの催しですか?
A. 文禄2年(1593)に名護屋城で開かれた瓜畑遊びです。秀吉は瓜売り、家康はあじか売りに扮したと伝わります。

Q. 大名が茶屋を建ててもてなしたのはどの催しですか?
A. 慶長3年(1598)の醍醐の花見です。

Q. 北野大茶湯にはだれが参加できましたか?
A. 身分を問わず、茶の湯に心がけのある者ならだれでも参加できました。

Q. 醍醐の花見のあと秀吉はどうなりましたか?
A. 5か月後の慶長3年8月18日に伏見城で亡くなりました。

まとめ

北野大茶湯は天正15年のだれでも参加できた大茶会、名護屋の瓜畑遊びは文禄2年の大名たちの仮装の遊び、醍醐の花見は慶長3年の大名の茶屋でもてなした花見の宴でした。三つは年も場所も招かれた人も違いますが、どれも秀吉が人を驚かせ、楽しませることで力を示した催しという点では共通しています。第42回で描かれる北野大茶湯は、その始まりにあたる、秀吉がもっとも勢いに乗っていたころの一日です。

参考:「北野大茶湯之記」/小瀬甫庵『太閤記』/『義演准后日記』/熊倉功夫『茶の湯の歴史』朝日選書

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