<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>中国 | 日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</title>
	<atom:link href="https://www.jp-history.info/category/castle/area-chugoku/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>https://www.jp-history.info</link>
	<description>日本の歴史ガイドでは日本の城・史跡・銅像（アクセス・地図・場所）をご紹介。鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代（戦国時代）、江戸時代と幅広くご紹介致します。</description>
	<lastBuildDate>Fri, 23 Oct 2026 09:20:47 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>
	hourly	</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>
	1	</sy:updateFrequency>
	<generator>https://wordpress.org/?v=7.1.4</generator>

<image>
	<url>https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2024/08/cropped-250-250-32x32.png</url>
	<title>中国 | 日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</title>
	<link>https://www.jp-history.info</link>
	<width>32</width>
	<height>32</height>
</image> 
	<item>
		<title>備中松山城：天守が残る唯一の山城と、標高430メートルの日本三大山城</title>
		<link>https://www.jp-history.info/castle/24032.html</link>
					<comments>https://www.jp-history.info/castle/24032.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[Jphistory]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 28 Sep 2026 01:03:44 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お城・城跡]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[天空の城]]></category>
		<category><![CDATA[幕末・維新]]></category>
		<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本100名城]]></category>
		<category><![CDATA[日本三大山城]]></category>
		<category><![CDATA[現存天守]]></category>
		<guid isPermaLink="false">https://www.jp-history.info/photo/24032.html</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2026/09/bicchu-unkai-1024x576.webp" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>現存十二天守でいちばん高い場所にある城。七百年の歴史と、なぜ天守が残ったのか、雲海の狙い方まで解説します。</p>
<p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/24032.html">備中松山城：天守が残る唯一の山城と、標高430メートルの日本三大山城</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2026/09/bicchu-unkai-1024x576.webp" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>備中松山城（びっちゅうまつやまじょう）は、岡山県高梁市の臥牛山に築かれた山城です。標高およそ四百三十メートルの小松山に天守が建ち、現存天守をもつ山城としては、いちばん高いところにあります（現存天守で標高がもっとも高いのは松本城です）。山城でありながら天守が今日まで残った唯一の例で、<a href="https://www.jp-history.info/castle/23897.html">高取城</a>・<a href="https://www.jp-history.info/castle/497.html">岩村城</a>とならぶ日本三大山城のひとつです。延応二年（一二四〇）の築城から幕末まで、七百年近く城として使われ続けました。</p>
<h2>臥牛山に七百年 ─ 城のはじまり</h2>
<p>延応二年（一二四〇）、秋庭三郎重信が臥牛山の大松山に城を構えたのがはじまりと伝わります。鎌倉時代のことで、このときはまだ土と木の砦でした。</p>
<p>元弘年間には高橋宗康が入り、城域を南の小松山まで広げます。臥牛山は北から大松山・天神の丸・小松山・前山と四つの峰が連なる山で、この尾根全体が城として使われました。いま天守が建つのは小松山です。</p>
<p>山ひとつを丸ごと城にするという発想は、<a href="https://www.jp-history.info/castle/23897.html">高取城</a>や竹田城と同じです。ただ、この城が違うのは、近世に入っても山を下りなかったこと。ふつうは麓へ政庁を移しますが、備中松山城は山上を使い続けました。</p>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2026/09/bicchu-sannomaru-dobei.jpg" alt="備中松山城の三の丸から見上げる石垣と土塀、奥に櫓と天守" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:88%;color:#777;text-align:center;margin-top:-6px;">三の丸から見上げる石垣と土塀。狭間のあいた白壁の奥に、櫓と天守が重なって見える</p>
<h2>三村氏と備中兵乱</h2>
<p>戦国期、この城を握ったのが三村氏です。永禄四年（一五六一）に三村家親が毛利の支援を得て城を取り、備中一帯へ勢力を伸ばしました。<a href="https://www.jp-history.info/castle/6122.html">庭瀬城</a>をはじめ、備中の各地に支城を置いています。</p>
<p>しかし家親は<a href="https://www.jp-history.info/castle/5516.html">宇喜多直家</a>に討たれ、跡を継いだ元親は父の仇である宇喜多と結んだ毛利と決裂します。天正二年から三年（一五七四〜七五）にかけての備中兵乱です。</p>
<p>毛利の大軍に囲まれて城は落ち、三村氏は滅びました。<a href="https://www.jp-history.info/blog/22730.html">大和</a>で筒井と越智が争ったのと同じ時期に、備中では三村と宇喜多が争っていたことになります。地方の国人同士の争いに大勢力が乗り、勝った側が土地ごと飲み込む。戦国のどこででも起きた形です。</p>
<p>その後、天正七年（一五七九）に毛利輝元が前線基地として本格的に普請を始めます。織田との境目にあたる城として、ここで一度大きく作り直されました。</p>
<h2>小堀父子が手を入れた城</h2>
<p>関ヶ原のあと、備中は徳川の直轄地となり、代官として<a href="https://www.jp-history.info/blog/22846.html">小堀正次</a>が送り込まれます。<a href="https://www.jp-history.info/blog/17047.html">豊臣秀長</a>のもとで検地奉行を務め、<a href="https://www.jp-history.info/castle/22181.html">郡山城</a>の普請にも関わった人物です。</p>
<p>正次が没したあと、その仕事を引き継いだのが子の政一、のちの小堀遠州です。慶長十一年（一六〇六）ごろから城の修築にあたりました。遠州といえば茶と庭で知られますが、本業は普請奉行です。<a href="https://www.jp-history.info/blog/22744.html">わび茶の流れ</a>のなかに置かれる人物が、山城の石垣を積み直していたことになります。</p>
<p>父が秀長の大和で田を測り、子が徳川の備中で城を直す。<a href="https://www.jp-history.info/blog/23804.html">天正十三年の国替え</a>から二十年あまりで、同じ家の仕事の場所がこれだけ動きました。</p>
<h2>水谷勝宗の大改修と、いまの天守</h2>
<p>寛永十九年（一六四二）、水谷勝隆が入城します。その子勝宗が天和年間（一六八一〜八四）に大改修を行い、いま見る備中松山城の姿が整いました。天守、二重櫓、土塀。現存しているのはこのときの建物です。</p>
<p>天守は二層二階。他の現存天守とくらべれば小ぶりですが、山上に建てるのですから当然です。石も材木も人も、すべて山を担ぎ上げなければなりません。<a href="https://www.jp-history.info/blog/23860.html">石をどう集めるか</a>という問題は、山城ではそのまま城の大きさを決めます。</p>
<p>内部には囲炉裏と装束の間があります。籠城を想定した造りで、天守が住むための建物ではなく戦うための建物だったことがわかります。</p>
<h2>城を受け取りに来た大石内蔵助</h2>
<p>元禄六年（一六九三）、水谷氏が跡継ぎなく断絶します。城は幕府に返されることになり、その受け取りを命じられたのが赤穂藩の浅野家でした。</p>
<p>現地へ入り、城の引き渡しを取りしきったのが家老の大石内蔵助です。のちに赤穂事件で知られる人物が、その数年前にこの山城に詰めていたことになります。城内には大石が在番した際の逸話が伝わります。</p>
<div style="border:1px solid #dcd3bd;border-radius:8px;overflow:hidden;margin:1.8em 0;">
<div style="background:#eef1f5;padding:14px 18px;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#5b6b80;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▽ よく語られる話</div>
<div style="line-height:1.8;">大石内蔵助が備中松山城に立てこもった、あるいは城を攻め取った。</div>
</div>
<div style="background:#fdf8ec;padding:14px 18px;border-top:3px solid #B08520;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#8a7530;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▼ 史実ではこうです</div>
<div style="line-height:1.8;">城の受け取りは戦ではなく、事務手続きです。水谷家が断絶し、次の城主が決まるまでのあいだ、幕府の命で赤穂藩が城と領地を預かりました。大石はその実務を担当した家老です。城を明け渡す側との折衝が難航したという話は残りますが、武力で奪った事実はありません。</div>
</div>
</div>
<p><a href="https://www.jp-history.info/blog/23941.html">桑山重晴</a>が和歌山城を預かったのと同じで、城を預かるという仕事は戦国から江戸を通じてずっとありました。</p>
<h2>山田方谷と板倉勝静 ─ 幕末の備中松山藩</h2>
<p>正徳元年（一七一一）に板倉勝澄が入り、以後は板倉家が七代にわたって幕末まで治めます。この藩を有名にしたのが、藩政改革を担った山田方谷です。</p>
<p>方谷は農民の出から学問で身を立て、藩の財政を立て直しました。借財を整理し、特産品を開発し、藩札を刷り直す。<a href="https://www.jp-history.info/blog/23889.html">郡山の箱本</a>が町に自治を任せて回したように、方谷は藩の経済そのものを組み替えました。</p>
<p>その方谷を用いた板倉勝静は、幕府の老中首座まで進みます。徳川に最後まで従い、戊辰戦争では江戸を出て各地を転戦しました。主が不在のまま朝敵とされた備中松山藩を、無血で開城へ導いたのが方谷です。城が壊されずに済んだ背景には、この判断があります。</p>
<h2>なぜ天守が残ったのか</h2>
<p>明治四年（一八七一）の廃城で、多くの城は建物を売り払われました。備中松山城も同じ運命をたどるはずでしたが、結果として天守は残ります。理由は単純で、山の上にあったからです。</p>
<p>解体して麓まで下ろす手間と、売って得られる金額が釣り合いません。誰も手を出さないまま放置され、草木に埋もれていきました。<a href="https://www.jp-history.info/castle/23897.html">高取城</a>は建物が解体されて石垣だけが残りましたが、こちらは逆に建物が残ったことになります。</p>
<p>昭和三年に地元の町が二重櫓を修理し、昭和十四年から十六年にかけて天守の解体修理が行われました。昭和十六年に天守・二重櫓・三の平櫓東土塀が国宝（旧国宝。昭和二十五年の文化財保護法施行後は重要文化財）に、昭和三十一年に城跡が国の史跡に指定されています。</p>
<h2>雲海に浮かぶ城を見るには</h2>
<div style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> 雲海を狙うなら</div>
<ul style="margin:8px 0 0;padding-left:1.2em;">
<li><b>時期</b> … 九月下旬から四月上旬。とくに十月下旬から十二月上旬が出やすいとされます</li>
<li><b>時間</b> … 夜明け前から午前八時ごろまで。日が高くなると消えます</li>
<li><b>条件</b> … 前日が暖かく晴れ、夜間に冷え込み、風が弱い日。川霧が立つ朝が狙い目です</li>
<li><b>場所</b> … 城そのものではなく、臥牛山の中腹にある展望台から見下ろします。城とは別のルートです</li>
<li><b>足</b> … 展望台までは車。暗いうちに山道を上ることになるので、前日のうちに道を確認しておくと安心です</li>
</ul>
</div>
<p>雲海に浮かぶ城として知られるのは竹田城と<a href="https://www.jp-history.info/castle/497.html">岩村城</a>、そしてこの備中松山城です。ただ、現存天守が建ったまま雲の上に出るのはここだけです。</p>
<h2>駐車場と所要時間</h2>
<div style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> 訪ねるまえに</div>
<ul style="margin:8px 0 0;padding-left:1.2em;">
<li><b>車</b> … 八合目のふいご峠に駐車場があります。台数が限られ、行楽期は麓の城まちステーションから乗合バスに乗り換える形になります</li>
<li><b>徒歩</b> … ふいご峠から本丸まで徒歩約二十分。石段と坂が続きます</li>
<li><b>電車</b> … JR伯備線の備中高梁駅から。駅から登城口までは乗合タクシーやバスを使います</li>
<li><b>所要時間</b> … 城の見学だけで一時間から一時間半。雲海展望台をあわせるなら半日</li>
<li><b>装備</b> … 歩きやすい靴。冬の早朝はかなり冷えます</li>
</ul>
</div>
<p><a href="https://www.jp-history.info/castle/23897.html">高取城</a>のように片道一時間半を歩くのとくらべれば、ずっと軽い登城です。三大山城のなかでは最も訪ねやすい城といえます。</p>
<h2>見学順 ─ 大手門跡から天守まで</h2>
<div style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> おすすめの順路</div>
<ul style="margin:8px 0 0;padding-left:1.2em;">
<li><b>大手門跡</b> … 天然の岩盤の上に石垣を積み上げた場所。この城でいちばん写真に撮られる一角です</li>
<li><b>三の平櫓東土塀</b> … 現存する土塀。復元部分との違いを説明板で確かめられます</li>
<li><b>三の丸・二の丸</b> … 曲輪を上がっていくと、天守と二重櫓が並んで見えてきます</li>
<li><b>天守</b> … 内部に入れます。囲炉裏と装束の間を見ておいてください</li>
<li><b>二重櫓</b> … 天守の裏手。現存建物で、岩盤の上に建っています</li>
<li><b>大松山・天神の丸</b> … さらに北へ尾根を進むと、中世の城域に入ります。時間があれば</li>
</ul>
</div>
<p>近年は城に住みついた猫が城主として親しまれ、訪れる人の楽しみのひとつになっています。石垣と天守を見たあと、尾根を北へたどって中世の城域まで足を延ばすと、七百年分の層が一日で歩けます。<a href="https://www.jp-history.info/castle/23897.html">高取城</a>で猿石を探しながら歩くのと同じで、この城も段ごとに時代が違います。</p>
<p>同じころ城の普請を担った武将としては<a href="https://www.jp-history.info/blog/19192.html">藤堂高虎はなぜ築城の名手になったのか</a>もあわせてどうぞ。</p>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2026/09/bicchu-tenshu-ishigaki.jpg" alt="備中松山城の天守と、岩を抱き込んだ石垣" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:88%;color:#777;text-align:center;margin-top:-6px;">岩を抱き込んだ石垣の上に建つ天守。左奥に二重櫓が続く</p>
<p>関ヶ原のあと備中松山を与えられた小堀正次・遠州父子のその後は<a href="https://www.jp-history.info/blog/25468.html">小堀家はどう生き残ったのか：秀長の死から関ヶ原、徳川の作事奉行・小堀遠州、そして天明の改易まで</a>でくわしく紹介しています。</p>
<div class="jph-hub-cta" style="margin:2em 0 1.2em;"><a href="/taiga-toyotomi-kyodai" style="display:block;text-decoration:none;background:linear-gradient(135deg,#2b2118,#4a3520);border-radius:10px;padding:16px 20px;border-left:6px solid #c9a04a;"><span style="display:block;font-size:80%;letter-spacing:.15em;color:#e8cf8f;">特集 ─ 大河ドラマ『豊臣兄弟！』</span><span style="display:block;font-size:125%;font-weight:bold;margin:4px 0;color:#ffffff;">放送回ごとの史実解説と、登場人物のすべて</span><span style="display:block;font-size:88%;color:#dddddd;">秀吉と秀長の歩み、家臣と女性たち、ゆかりの城まで三百本以上を一覧に <img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /></span></a></div>
<div style="background:#f0f4f8;border:1px solid #d6dde6;border-left:4px solid #5b6b80;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#41506b;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> 姉妹サイト「幕末歴史ガイド」で読む</div>
<p><a style="font-weight:bold;font-size:106%;" href="https://www.bakumatsu.info/all-han/991.html">備中松山藩／板倉家５万石：板倉勝静 老中主座を務めた藩主自ら函館五稜郭まで転戦した備中松山藩</a></p>
<p>備中松山城の地を治めた備中松山藩が、幕末をどう生きたかをまとめています。</p>
</div>
<h2>まとめ</h2>
<div style="background:#f7f5f0;border-left:4px solid #B08520;padding:16px 20px;margin:1.5em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;">この記事の要点</div>
<ul style="margin:10px 0 0;padding-left:1.2em;">
<li>備中松山城は標高およそ四百三十メートルの小松山に建ち、現存天守をもつ山城ではいちばん高い場所にあります</li>
<li>延応二年（一二四〇）に秋庭重信が築き、戦国期は三村氏の城。天正二〜三年の備中兵乱で三村氏は滅びました</li>
<li>関ヶ原のあと小堀正次・政一（遠州）父子が修築し、天和年間の水谷勝宗の大改修でいまの姿になりました</li>
<li>元禄六年に水谷氏が断絶し、赤穂藩の大石内蔵助が城の受け取りにあたっています</li>
<li>幕末は板倉勝静と山田方谷の藩。山上にあったため廃城後も解体されず、天守が今日まで残りました</li>
</ul>
</div>
<p>山城で天守が残っているのは、日本でこの城だけです。石垣だけの高取城、石垣だけの竹田城と並べて見ると、建物がひとつ残ることの重みがわかります。</p>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<ul style="margin:8px 0 0;padding-left:1.2em;">
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/23897.html">高取城跡（高取町）：日本三大山城のひとつ、標高583メートルに残る総石垣の城</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/497.html">岩村城跡（恵那市）：日本一標高の高い山城と、女城主・森蘭丸・佐藤一斎の八百年</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/blog/22846.html">小堀正次とは：秀長と同い年の検地奉行、小堀遠州の父が大和の田を測るまで</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/6122.html">庭瀬城（庭瀬陣屋）：戦国時代は三村元親の支城</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/blog/23860.html">転用石とは：石仏や五輪塔が城の石垣に積まれている理由</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/22181.html">大和郡山城：秀長が百万石の政庁として築いた城</a></li>
</ul>
</div><p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/24032.html">備中松山城：天守が残る唯一の山城と、標高430メートルの日本三大山城</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://www.jp-history.info/castle/24032.html/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>足守陣屋：木下家定が関ヶ原の戦い後に徳川家康より２万５千石で拝領した足守陣屋</title>
		<link>https://www.jp-history.info/castle/6129.html</link>
					<comments>https://www.jp-history.info/castle/6129.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[Jphistory]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 09 Feb 2017 06:16:48 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お城・城跡]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[アクセス]]></category>
		<category><![CDATA[地図]]></category>
		<category><![CDATA[場所]]></category>
		<category><![CDATA[徳川家康]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[木下家定]]></category>
		<category><![CDATA[足守]]></category>
		<category><![CDATA[足守陣屋]]></category>
		<category><![CDATA[関ヶ原の戦い]]></category>
		<category><![CDATA[陣屋]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://www.jp-history.info/?p=6129</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori01.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>【城名】 足守陣屋 【足守陣屋の説明】 足守陣屋は岡山県岡山市北区足守にあった足守藩の陣屋である。慶長6年（1601年）、関ヶ原の戦いで中立を保った「木下家定」が徳川家康より足守藩2万5千石を与えられたことに始まる。 本 [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/6129.html">足守陣屋：木下家定が関ヶ原の戦い後に徳川家康より２万５千石で拝領した足守陣屋</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori01.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>【城名】<br />
足守陣屋</p>
<p>【足守陣屋の説明】<br />
足守陣屋は岡山県岡山市北区足守にあった<a href="https://www.bakumatsu.info/all-han/997.html" target="_blank" rel="noopener">足守藩</a>の陣屋である。慶長6年（1601年）、関ヶ原の戦いで中立を保った「<a href="https://www.busho-zukan.info/kinki/483.html" target="_blank" rel="noopener">木下家定</a>」が<a href="https://www.busho-zukan.info/kanto/944.html" target="_blank" rel="noopener">徳川家康</a>より足守藩2万5千石を与えられたことに始まる。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori02.jpg" alt="足守陣屋／アクセス・場所・地図 木下家定が関ヶ原の戦い後に徳川家康より２万５千石で拝領した足守陣屋【お城特集 日本の歴史】" width="898" height="608" class="aligncenter size-full wp-image-6131" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori02.jpg 898w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori02-300x203.jpg 300w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori02-768x520.jpg 768w" sizes="(max-width: 898px) 100vw, 898px" /></p>
<p>本格的な陣屋町として整備されたのは、足守藩第5代藩主「木下利貞」の時代で、寛文2年（1662年）から延宝7年（1679年）の間に改修されたと伝わる。初代「木下家定」には実子が4人いて、長男「勝俊」は若狭国<a href="https://www.bakumatsu.info/all-han/540.html" target="_blank" rel="noopener">小浜藩</a>で6万2千石、次男「利房」は若狭国高浜で3万石、三男「延俊」は<a href="https://www.jp-history.info/castle/243.html">姫路城</a>を領し、末弟には小早川家の養子となった「秀俊（<a href="https://www.busho-zukan.info/kinki/890.html" target="_blank" rel="noopener">小早川秀秋</a>）」がいた。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori03.jpg" alt="足守陣屋／アクセス・場所・地図 木下家定が関ヶ原の戦い後に徳川家康より２万５千石で拝領した足守陣屋【お城特集 日本の歴史】" width="970" height="668" class="aligncenter size-full wp-image-6132" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori03.jpg 970w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori03-300x207.jpg 300w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori03-768x529.jpg 768w" sizes="(max-width: 970px) 100vw, 970px" /></p>
<p>慶長5年（1600年）の関ヶ原の戦いでは兄弟ともに西軍、東軍にわかれて戦った。勝俊は伏見城籠城の守備から逃げたことで小浜城を没収され、次男「利房」は西軍に属し、東軍「前田利長」の<a href="https://www.jp-history.info/castle/6329.html">大聖寺城</a>攻めの際に城方へ援軍を出したため戦後除封された。三男「延俊」は終始東軍に属し、後に日出城3万石を与えられた。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori04.jpg" alt="足守陣屋／アクセス・場所・地図 木下家定が関ヶ原の戦い後に徳川家康より２万５千石で拝領した足守陣屋【お城特集 日本の歴史】" width="965" height="647" class="aligncenter size-full wp-image-6133" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori04.jpg 965w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori04-300x201.jpg 300w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori04-768x515.jpg 768w" sizes="(max-width: 965px) 100vw, 965px" /></p>
<p>一方「木下家定」は西軍・東軍のどちらにも属さず中立を保ったため家名を存続させた。それぞれ領地を失った兄弟は父の所領である足守を頼って逃れたが、家定亡き後の家督相続で互いに争い、結果的に木下家は改易されてしまう。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori06.jpg" alt="足守陣屋／アクセス・場所・地図 木下家定が関ヶ原の戦い後に徳川家康より２万５千石で拝領した足守陣屋【お城特集 日本の歴史】" width="1014" height="713" class="aligncenter size-full wp-image-6135" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori06.jpg 1014w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori06-300x211.jpg 300w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori06-768x540.jpg 768w" sizes="(max-width: 1014px) 100vw, 1014px" /></p>
<p>その後、木下利房が慶長19年（1614年）に勃発した「大坂冬の陣」で「徳川家康」の軍に属し戦功を挙げたため、元和2年（1616年）、2万5千石にて再び足守に入封しお家再興がなった。足守の地はそのまま木下家が統治し、11代藩主「利恭」の時代に明治維新を迎えている。</p>
<p>※足守藩出身の蘭学者「緒方洪庵」像<br />
<img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori05.jpg" alt="足守陣屋／アクセス・場所・地図 木下家定が関ヶ原の戦い後に徳川家康より２万５千石で拝領した足守陣屋【お城特集 日本の歴史】" width="683" height="499" class="aligncenter size-full wp-image-6134" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori05.jpg 683w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori05-300x219.jpg 300w" sizes="(max-width: 683px) 100vw, 683px" /></p>
<p>現在の陣屋跡は公園として整備されており、堀や石垣が残っている。建物の遺構は残されていない。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori07.jpg" alt="足守陣屋／アクセス・場所・地図 木下家定が関ヶ原の戦い後に徳川家康より２万５千石で拝領した足守陣屋【お城特集 日本の歴史】" width="650" height="421" class="aligncenter size-full wp-image-6136" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori07.jpg 650w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/ashimori07-300x194.jpg 300w" sizes="(max-width: 650px) 100vw, 650px" /></p>
<p>【足守陣屋・場所・アクセス】<br />
〒701-1463 岡山県岡山市北区足守801</p>
<p>【足守陣屋地図】<center><iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d2318.6102324749686!2d133.79858676560062!3d34.730141391655515!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x355401c34be81121%3A0x68dcb2ad39e04ad9!2z6Laz5a6I6Zmj5bGL6Leh!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1486618558588" width="100%" height="450" frameborder="0" style="border:0" allowfullscreen></iframe><br />
</center></p>
<p>あわせて読みたい：<a href="https://www.jp-history.info/blog/27093.html">ねねはどこの家の生まれか ─ 杉原・浅野・木下の三つの家</a></p><p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/6129.html">足守陣屋：木下家定が関ヶ原の戦い後に徳川家康より２万５千石で拝領した足守陣屋</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://www.jp-history.info/castle/6129.html/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>庭瀬城（庭瀬陣屋）：戦国時代は三村元親の支城で江戸時代には板倉氏が支配した庭瀬城</title>
		<link>https://www.jp-history.info/castle/6122.html</link>
					<comments>https://www.jp-history.info/castle/6122.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[Jphistory]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 09 Feb 2017 05:21:00 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お城・城跡]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[アクセス]]></category>
		<category><![CDATA[三村元親]]></category>
		<category><![CDATA[地図]]></category>
		<category><![CDATA[城]]></category>
		<category><![CDATA[場所]]></category>
		<category><![CDATA[庭瀬]]></category>
		<category><![CDATA[庭瀬城]]></category>
		<category><![CDATA[庭瀬陣屋]]></category>
		<category><![CDATA[支城]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[板倉氏]]></category>
		<category><![CDATA[江戸時代]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://www.jp-history.info/?p=6122</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/niwase01.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>【城名】 庭瀬城 【庭瀬城の説明】 庭瀬城は岡山県岡山市北区にある平城である。戦国時代に備中の「三村元親」が備前の「宇喜多直家」の侵攻に備える為に築かせたと伝えられている。 天正10年（1582年） 羽柴秀吉の備中高松城 [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/6122.html">庭瀬城（庭瀬陣屋）：戦国時代は三村元親の支城で江戸時代には板倉氏が支配した庭瀬城</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/niwase01.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>【城名】<br />
庭瀬城</p>
<p>【庭瀬城の説明】<br />
庭瀬城は岡山県岡山市北区にある平城である。戦国時代に備中の「三村元親」が備前の「宇喜多直家」の侵攻に備える為に築かせたと伝えられている。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/niwase02.jpg" alt="庭瀬城（庭瀬陣屋）／アクセス・場所・地図 戦国時代は三村元親の支城で江戸時代には板倉氏が支配した庭瀬城【お城特集 日本の歴史】" width="729" height="582" class="aligncenter size-full wp-image-6124" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/niwase02.jpg 729w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/niwase02-300x240.jpg 300w" sizes="(max-width: 729px) 100vw, 729px" /></p>
<p>天正10年（1582年） <a href="https://www.busho-zukan.info/tokai/47.html">羽柴秀吉</a>の<a href="https://www.jp-history.info/castle/1248.html">備中高松城</a>水攻めの際に、<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/591.html" target="_blank" rel="noopener">毛利輝元</a>の国境防衛七城の１つとなり、城主の「井上有景」が8百人の兵を率い守備する。<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/551.html" target="_blank" rel="noopener">吉川元春</a>、<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/561.html" target="_blank" rel="noopener">小早川隆景</a>は庭瀬城が孤立した立地であったため、撤退するよう下命したが、有景はその命令に背き秀吉軍との間で激戦が交わされた。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/niwase04.jpg" alt="庭瀬城（庭瀬陣屋）／アクセス・場所・地図 戦国時代は三村元親の支城で江戸時代には板倉氏が支配した庭瀬城【お城特集 日本の歴史】" width="1074" height="665" class="aligncenter size-full wp-image-6125" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/niwase04.jpg 1074w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/niwase04-300x186.jpg 300w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/niwase04-768x476.jpg 768w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/niwase04-1024x634.jpg 1024w" sizes="(max-width: 1074px) 100vw, 1074px" /></p>
<p>その結果、庭瀬城は落城し「<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/997.html">宇喜多秀家</a>」の所領となりしばらくの間は城主不在となる。慶長6年、宇喜多氏の重臣であった「戸川達安」が入城し<a href="https://www.bakumatsu.info/all-han/1001.html" target="_blank" rel="noopener">庭瀬藩</a>を立藩。城を廃して二ノ丸に藩庁を設置し庭瀬陣屋として整備を行った。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/niwase05.jpg" alt="庭瀬城（庭瀬陣屋）／アクセス・場所・地図 戦国時代は三村元親の支城で江戸時代には板倉氏が支配した庭瀬城【お城特集 日本の歴史】" width="693" height="599" class="aligncenter size-full wp-image-6126" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/niwase05.jpg 693w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/niwase05-300x259.jpg 300w" sizes="(max-width: 693px) 100vw, 693px" /></p>
<p>そして陣屋とその周辺に陣屋街を形成した。延宝7年（1679年）4代目藩主「戸川安風」が僅か9歳で早世し戸川氏は断絶・改易となった。その後20年間は天領として支配された。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/niwase06.jpg" alt="庭瀬城（庭瀬陣屋）／アクセス・場所・地図 戦国時代は三村元親の支城で江戸時代には板倉氏が支配した庭瀬城【お城特集 日本の歴史】" width="934" height="871" class="aligncenter size-full wp-image-6127" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/niwase06.jpg 934w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/niwase06-300x280.jpg 300w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/niwase06-768x716.jpg 768w" sizes="(max-width: 934px) 100vw, 934px" /></p>
<p>元禄12年（1699年）には「板倉重高」が2万石で入封し幕末まで板倉氏が支配した。現在の庭瀬陣屋跡には清山神社が建立しており、陣屋の遺構として石垣や堀が残されている。</p>
<p>【庭瀬城（庭瀬陣屋）・場所・アクセス】<br />
〒701-0153 岡山県岡山市北区庭瀬829-5</p>
<p>【庭瀬城（庭瀬陣屋）地図】<center><iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d3282.4676535591675!2d133.84621083513426!3d34.642890774022135!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x3553ff41c8410f6f%3A0x279b61e1902f9cca!2z5bqt54Cs5Z-O5Z2A!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1486617816890" width="100%" height="450" frameborder="0" style="border:0" allowfullscreen></iframe><br />
</center></p>
<p>三村氏の本城については<a href="https://www.jp-history.info/castle/24032.html">備中松山城：天守が残る唯一の山城と、標高430メートルの日本三大山城</a>にまとめています。</p><p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/6122.html">庭瀬城（庭瀬陣屋）：戦国時代は三村元親の支城で江戸時代には板倉氏が支配した庭瀬城</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://www.jp-history.info/castle/6122.html/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>大内氏館：陶晴賢の謀反により討たれた大内義隆ら歴代大内氏の居館 大内氏館</title>
		<link>https://www.jp-history.info/castle/6070.html</link>
					<comments>https://www.jp-history.info/castle/6070.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[Jphistory]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 02 Feb 2017 05:51:37 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お城・城跡]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[アクセス]]></category>
		<category><![CDATA[地図]]></category>
		<category><![CDATA[場所]]></category>
		<category><![CDATA[大内氏]]></category>
		<category><![CDATA[大内氏館]]></category>
		<category><![CDATA[大内義隆]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[謀反]]></category>
		<category><![CDATA[陶晴賢]]></category>
		<category><![CDATA[館]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://www.jp-history.info/?p=6070</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/oouchi01.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>【城名】 大内氏館 【大内氏館の説明】 大内氏館は山口県山口市大殿大路にあった城館で代々大内氏の居館であった。24代当主の「大内弘世」が山口を本拠と定め、移り住んだ時に築かれた居館で、京都を模した館として建てられました。 [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/6070.html">大内氏館：陶晴賢の謀反により討たれた大内義隆ら歴代大内氏の居館 大内氏館</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/oouchi01.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>【城名】<br />
大内氏館</p>
<p>【大内氏館の説明】<br />
大内氏館は山口県山口市大殿大路にあった城館で代々大内氏の居館であった。24代当主の「大内弘世」が山口を本拠と定め、移り住んだ時に築かれた居館で、京都を模した館として建てられました。そのため、詰城として館の背後に「高嶺城」があります。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/oouchi02.jpg" alt="大内氏館／アクセス・場所・地図 陶晴賢の謀反により討たれた大内義隆ら歴代大内氏の居館 大内氏館【お城特集 日本の歴史】" width="894" height="901" class="aligncenter size-full wp-image-6073" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/oouchi02.jpg 894w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/oouchi02-150x150.jpg 150w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/oouchi02-298x300.jpg 298w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/oouchi02-768x774.jpg 768w" sizes="(max-width: 894px) 100vw, 894px" /></p>
<p>当初は塀や堀で囲まれた程度の館だったが、徐々に空堀や土塁を増築していき城砦としての役割も果たせるようになっていった。天文20年（1551年）、時の当主「<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/497.html" target="_blank" rel="noopener">大内義隆</a>」は家臣の「陶隆房」の謀反により自刃して果てた。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/oouchi03.jpg" alt="大内氏館／アクセス・場所・地図 陶晴賢の謀反により討たれた大内義隆ら歴代大内氏の居館 大内氏館【お城特集 日本の歴史】" width="1055" height="1005" class="aligncenter size-full wp-image-6074" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/oouchi03.jpg 1055w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/oouchi03-300x286.jpg 300w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/oouchi03-768x732.jpg 768w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/oouchi03-1024x975.jpg 1024w" sizes="(max-width: 1055px) 100vw, 1055px" /></p>
<p>その後、新たな当主として<a href="https://www.busho-zukan.info/kyushu/51.html" target="_blank" rel="noopener">大友宗麟</a>の弟で大内氏に養子として入っていた「大内義長」が大内氏館に入った。弘治2年（1556年）に「<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/592.html" target="_blank" rel="noopener">毛利元就</a>」が侵攻してくると大内義長は山口を放棄して逃亡し、ここに名門大内氏は滅びた。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/oouchi04.jpg" alt="大内氏館／アクセス・場所・地図 陶晴賢の謀反により討たれた大内義隆ら歴代大内氏の居館 大内氏館【お城特集 日本の歴史】" width="875" height="601" class="aligncenter size-full wp-image-6075" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/oouchi04.jpg 875w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/oouchi04-300x206.jpg 300w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/02/oouchi04-768x528.jpg 768w" sizes="(max-width: 875px) 100vw, 875px" /></p>
<p>大内氏館もその役目を終えることとなり、館跡には「毛利隆元」が大内義隆の菩提を弔うために龍福寺を建立しています。現在は大内氏館の復元整備が進められています。</p>
<h2>京を写した町と、その中心にあった館</h2>
<p>大内氏館は、城というより「館」です。堀と土塁で囲んだ方形の区画に、住まいと政庁と庭園が収まっていました。大内弘世が山口を本拠と定めたとき、京の町にならって道を碁盤の目に区切り、川を鴨川に見立てて町を造ったと伝わります。館はその町の中心に置かれました。戦うための城は別にあり、背後の山に詰城として高嶺城が築かれています。館と詰城を組み合わせる考え方は、各地の戦国大名に共通するものでした。</p>
<h2>西国一の大名がここにいた</h2>
<p>大内氏は周防・長門を本拠に、北九州や石見にも勢力を伸ばした大大名です。日明貿易で富を集め、京から公家や僧を招いて文化を育てました。雪舟が山口に住んだのもこのころです。大内義隆の代には、宣教師フランシスコ・ザビエルが訪れ、布教を許されています。山口が「西の京」と呼ばれたのは、この時代の蓄積があったからです。</p>
<h2>家臣に攻められた館</h2>
<p>天文二十年（一五五一）、重臣の陶隆房（のちの晴賢）が兵を挙げ、義隆は館を追われて長門の大寧寺で自害しました。文化を好み、武を軽んじたと非難されての謀反でしたが、実際には家中の対立が積み重なった末の出来事です。そのあと当主に立てられたのが、大友氏から養子に入っていた大内義長でした。弘治二年（一五五六）には毛利元就が攻め寄せ、義長は山口を捨てて逃れ、大名としての大内氏は滅びます。</p>
<h2>館の跡に寺が建った</h2>
<p>館の跡地には、毛利隆元が義隆の菩提を弔うために龍福寺を移しました。滅ぼした側が、滅ぼされた当主を供養する形です。境内の発掘で、池を中心にした庭園や、館を囲む堀と土塁の跡が見つかり、いまは西門や庭園が復元整備されています。土塁や堀の見方は<a href="https://www.jp-history.info/blog/22475.html">城の基本用語</a>にまとめました。</p>
<h2>現地はいま</h2>
<p>館跡は龍福寺の境内にあり、自由に歩けます。復元された西門や池泉庭園、土塁の一部を見られます。山口駅からバスで十分ほど、背後の高嶺城跡とあわせて歩くと、平地の館と山の城の関係がよく分かります。</p>
<p>【大内氏館・場所・アクセス】<br />
〒753-0034 山口県山口市下竪小路57-3</p>
<p>【大内氏館地図】<center><iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d6600.981697819565!2d131.475146980126!3d34.184933029132225!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x354497005726d8ed%3A0x13c2fd58929e476e!2z5pys5Li46Leh!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1486014286054" width="100%" height="450" frameborder="0" style="border:0" allowfullscreen></iframe><br />
</center></p><p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/6070.html">大内氏館：陶晴賢の謀反により討たれた大内義隆ら歴代大内氏の居館 大内氏館</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://www.jp-history.info/castle/6070.html/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>沼城跡（亀山城・岡山市）：宇喜多直家の十五年と、中国大返しが休んだ城</title>
		<link>https://www.jp-history.info/castle/5516.html</link>
					<comments>https://www.jp-history.info/castle/5516.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[Jphistory]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 11 Nov 2016 07:47:12 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お城・城跡]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[アクセス]]></category>
		<category><![CDATA[亀山]]></category>
		<category><![CDATA[亀山城]]></category>
		<category><![CDATA[喜多直家]]></category>
		<category><![CDATA[地図]]></category>
		<category><![CDATA[城]]></category>
		<category><![CDATA[場所]]></category>
		<category><![CDATA[岡山城]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[沼城]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://www.jp-history.info/?p=5516</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/numa01.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>沼城（ぬまじょう）は、岡山市の東部にあった平山城です。亀山城とも呼ばれます。宇喜多直家がこの城を手に入れ、岡山城へ移るまでの十五年ほどをここで過ごしました。備前一国を手中にしていった時期がちょうどこの城の時代で、跡地には [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/5516.html">沼城跡（亀山城・岡山市）：宇喜多直家の十五年と、中国大返しが休んだ城</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/numa01.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>沼城（ぬまじょう）は、岡山市の東部にあった平山城です。亀山城とも呼ばれます。宇喜多直家がこの城を手に入れ、<a href="https://www.jp-history.info/castle/100.html">岡山城</a>へ移るまでの十五年ほどをここで過ごしました。備前一国を手中にしていった時期がちょうどこの城の時代で、跡地には「宇喜多家飛躍の地」の碑が立っています。遺構は多く残っていませんが、丘のかたちと登り口に城の面影があります。</p>
<div style="background:#f7f5f0;border-left:4px solid #B08520;padding:16px 20px;margin:1.5em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;">この記事のポイント</div>
<ul style="margin:10px 0 0;padding-left:1.2em;">
<li>宇喜多直家が備前を押さえていった時期の本拠</li>
<li>もとは浦上氏の家臣・中山信正の城で、直家が義父にあたる信正を討って城主となった</li>
<li>中国大返しの途中、秀吉軍がこの城で兵を休めたと伝わる</li>
<li>直家が岡山へ移ったのち支城となり、やがて廃された</li>
</ul>
</div>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/numa05.jpg" alt="城跡への登り口" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">麓の登り口に立つ石灯籠と鳥居。この先の丘が城跡で、木立のあいだを道が登っていく。</p>
<h2>沼城とはどんな城か</h2>
<p>沼城は、平野のなかに残った低い丘を使った城です。標高はわずかで、山城というより、小高い場所に曲輪を並べた平山城でした。周囲は低湿地で、その水が堀の役目を果たしていたと考えられています。城の名が「沼」であることが、その立地をそのまま語っています。</p>
<p>この一帯は、備前の東部から播磨へ抜ける街道と、吉井川の水運が交わるところです。備前の内側を押さえるにも、東へ兵を出すにも都合がよい。直家がこの城を足がかりに勢力を広げられたのは、この位置によるところが大きいはずです。</p>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/numa03.jpg" alt="本丸跡を示す標柱" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">木の標柱に「本丸跡」と記されている。まわりは落ち葉に覆われた平場で、建物の跡は地表からはたどれない。</p>
<h2>義父を討って城主となる</h2>
<p>もともとこの城は、浦上宗景の家臣・中山信正のものでした。信正は直家の妻の父、つまり義父にあたります。永禄二年（一五五九）、直家は主君の意を受けて信正を討ち、城を手に入れました。同じころ、島村盛実らも討たれています。備前の国人衆のあいだで、力の配置が組み替えられた時期でした。</p>
<p>直家は沼城を拠点に、竜の口城を攻め、備中の三村氏と戦い、やがて主君の浦上氏をも追って備前を掌握します。謀略を重ねた人物として語られることが多く、その評価については<a href="https://www.jp-history.info/castle/100.html">岡山城の記事</a>でくわしく取りあげています。ここでは、その十五年がこの丘の上で組み立てられたという事実を押さえておけば十分です。</p>
<h2>中国大返しと、この城</h2>
<div style="border:1px solid #dcd3bd;border-radius:8px;overflow:hidden;margin:1.8em 0;">
<div style="background:#eef1f5;padding:14px 18px;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#5b6b80;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▽ よく語られる話</div>
<div style="line-height:1.8;">中国大返しは、秀吉の軍が昼夜を分かたず走り通した驚異の強行軍だった。</div>
</div>
<div style="background:#fdf8ec;padding:14px 18px;border-top:3px solid #B08520;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#8a7530;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▼ 史実ではこうです</div>
<div style="line-height:1.8;">速さは確かに異例でしたが、ただ走り続けたわけではありません。備中高松からの帰り道、秀吉の軍は沼城で兵を休めたと伝わります。この城は宇喜多領で、街道ぞいに味方の城と兵糧があったからこそ、部隊をまとめて動かせました。食糧と替えの草鞋、休む場所が先回りして用意されていたという話も残ります。大返しを支えたのは足の速さだけではなく、宇喜多氏の協力をふくむ兵站でした。</div>
</div>
</div>
<p>この前段にあたるのが<a href="https://www.jp-history.info/blog/19994.html">備中高松城の水攻め</a>です。城を水で囲んだまま毛利と和睦をまとめ、軍を反転させる—その途中に、この沼城があります。備前から播磨へ、そして<a href="https://www.jp-history.info/castle/243.html">姫路城</a>へ。街道の各所に味方の拠点が並んでいたことが、あの速度を可能にしました。</p>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/numa02.jpg" alt="城跡に建つ社殿" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">城跡の平場に建つ小さな社殿。板張りの簡素な建物で、地元の人によって守られている。</p>
<h2>岡山へ移り、城は役目を終える</h2>
<p>直家は天正のはじめごろ、岡山の丘に本拠を移しました。旭川の流れを付け替え、町ごと城下をつくり変える大工事です。低湿地の小さな丘では、大名の城下町は載せられません。沼城は支城となり、やがて城としての役目を終えました。</p>
<p>関ヶ原の戦いのあと、<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/997.html">宇喜多秀家</a>は八丈島へ流され、岡山には<a href="https://www.busho-zukan.info/kinki/890.html" target="_blank" rel="noopener noreferrer">小早川秀秋</a>が入ります。このころ沼城も廃されたとされますが、正確な時期を伝える記録はありません。建物は取り払われ、丘には社と碑だけが残りました。</p>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p><a href="https://www.jp-history.info/castle/3952.html">瀬田城跡（大津市）：唐橋を焼いて光秀を止めた山岡景隆と、数日という時間</a></div>
<h2>沼城跡の訪ね方</h2>
<p>城跡は岡山市東区の沼にあり、岡山駅から車で三十分ほど。麓に石碑と登り口があり、丘の上まで数分で登れます。曲輪だった平場と、その縁の段差をたどれば、城の規模はつかめます。案内ののぼり旗が道しるべになっています。</p>
<p>岡山の城をめぐるなら、直家が移った<a href="https://www.jp-history.info/castle/100.html">岡山城</a>とセットで訪ねるのが自然です。丘の小城から、旭川を付け替えた城下町へ—十五年のあいだに何が変わったかが、二つの城を歩くとよくわかります。</p>
<p>所在地：〒709-0621 岡山県岡山市東区沼1801</p>
<div style="background:#f7f5f0;border:1px solid #e3dccb;border-radius:8px;padding:16px 20px;margin:2em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:8px;">備前・備中の城をめぐる</div>
<ul style="margin:0;padding-left:1.2em;">
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/100.html">岡山城：宇喜多秀家が築いた烏城</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/blog/19994.html">なぜ秀吉は備中高松城を水攻めにしたのか</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/829.html">津山城跡：美作の要の城</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/730.html">三木城：秀吉の兵糧攻めの舞台</a></li>
</ul>
</div>
<p><iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d3279.9272142417044!2d134.03346049111224!3d34.70701573375804!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x35540deda27b8197%3A0xcf0a9a7b42634ced!2z5rK85Z-O6Leh!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1478850454765" width="100%" height="450" frameborder="0" style="border:0" allowfullscreen></iframe></p>
<p>宇喜多と争った三村氏の本城は<a href="https://www.jp-history.info/castle/24032.html">備中松山城：天守が残る唯一の山城と、標高430メートルの日本三大山城</a>です。</p><p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/5516.html">沼城跡（亀山城・岡山市）：宇喜多直家の十五年と、中国大返しが休んだ城</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://www.jp-history.info/castle/5516.html/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>佐東銀山城：毛利元就の攻撃により落城した名門安芸武田氏の居城 佐東銀山城</title>
		<link>https://www.jp-history.info/castle/5446.html</link>
					<comments>https://www.jp-history.info/castle/5446.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[Jphistory]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 07 Nov 2016 01:49:10 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お城・城跡]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[アクセス]]></category>
		<category><![CDATA[佐東銀山]]></category>
		<category><![CDATA[佐東銀山城]]></category>
		<category><![CDATA[地図]]></category>
		<category><![CDATA[城]]></category>
		<category><![CDATA[場所]]></category>
		<category><![CDATA[安芸武田氏]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[毛利元就]]></category>
		<category><![CDATA[落城]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://www.jp-history.info/?p=5446</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama01.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>【城名】 佐東銀山城 【佐東銀山城の説明】 佐東銀山城は広島県広島市安佐南区にあった山城である。承久3年（1221年）の承久の乱の後、安芸国佐東郡を拝領した武田氏当主「武田信光」は武田山の麓に守護所を建て、近隣の経営に乗 [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/5446.html">佐東銀山城：毛利元就の攻撃により落城した名門安芸武田氏の居城 佐東銀山城</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama01.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>【城名】<br />
佐東銀山城</p>
<p>【佐東銀山城の説明】<br />
佐東銀山城は広島県広島市安佐南区にあった山城である。承久3年（1221年）の承久の乱の後、安芸国佐東郡を拝領した武田氏当主「武田信光」は武田山の麓に守護所を建て、近隣の経営に乗り出した。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama02.jpg" alt="佐東銀山城／アクセス・場所・地図 毛利元就の攻撃により落城した名門安芸武田氏の居城 佐東銀山城【お城特集 日本の歴史】" width="725" height="610" class="aligncenter size-full wp-image-5448" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama02.jpg 725w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama02-300x252.jpg 300w" sizes="(max-width: 725px) 100vw, 725px" /></p>
<p>しかし、正安元年（1299年）には桜尾城主「平員家」の攻撃を受け、佐東郡の武田氏守護所は攻め取られた。その後、鎌倉時代末期に「武田信宗」により、防衛に適した現在の武田山山頂に「佐東銀山城」が建てられたとされる。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama03.jpg" alt="佐東銀山城／アクセス・場所・地図 毛利元就の攻撃により落城した名門安芸武田氏の居城 佐東銀山城【お城特集 日本の歴史】" width="520" height="636" class="aligncenter size-full wp-image-5449" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama03.jpg 520w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama03-245x300.jpg 245w" sizes="(max-width: 520px) 100vw, 520px" /></p>
<p>室町時代に入ると周防国の大内氏から度々侵略を受けるようになり、武田元繁は山陰の尼子氏との関係を強化した。永正14年（1517年）には尼子氏と共同で「<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/592.html" target="_blank" rel="noopener">毛利元就</a>」吉川連合軍と戦い、この戦で当主「元繁」は討死してしまう。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama04.jpg" alt="佐東銀山城／アクセス・場所・地図 毛利元就の攻撃により落城した名門安芸武田氏の居城 佐東銀山城【お城特集 日本の歴史】" width="743" height="519" class="aligncenter size-full wp-image-5450" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama04.jpg 743w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama04-300x210.jpg 300w" sizes="(max-width: 743px) 100vw, 743px" /></p>
<p>以降、安芸武田氏の弱体化が進むことになる。天文10年（1541年）、毛利元就は「<a href="https://www.jp-history.info/castle/4663.html">吉田郡山城</a>の戦い」で尼子氏の攻撃を撃退し、同年には「佐東銀山城」を攻略して武田氏を滅ぼした。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama05.jpg" alt="佐東銀山城／アクセス・場所・地図 毛利元就の攻撃により落城した名門安芸武田氏の居城 佐東銀山城【お城特集 日本の歴史】" width="829" height="562" class="aligncenter size-full wp-image-5451" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama05.jpg 829w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama05-300x203.jpg 300w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama05-768x521.jpg 768w" sizes="(max-width: 829px) 100vw, 829px" /></p>
<p>元就が大内氏へ従属しいた関係上、城代には大内氏重臣の「<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/522.html" target="_blank" rel="noopener">冷泉隆豊</a>」が任命された。天文23年（1554年）、毛利元就は大内氏の内紛に乗じて戦を仕掛け「厳島の戦い」で大内氏の実権を握っていた「<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/514.html" target="_blank" rel="noopener">陶晴賢</a>」を敗死に追いやり大内氏の所領を勝ち取った。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama06.jpg" alt="佐東銀山城／アクセス・場所・地図 毛利元就の攻撃により落城した名門安芸武田氏の居城 佐東銀山城【お城特集 日本の歴史】" width="740" height="629" class="aligncenter size-full wp-image-5452" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama06.jpg 740w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama06-300x255.jpg 300w" sizes="(max-width: 740px) 100vw, 740px" /></p>
<p>佐東銀山城には大内氏方の「栗田肥後入道」が城番していたが毛利軍に降伏・開城している。以降、<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/591.html">毛利輝元</a>が「<a href="https://www.jp-history.info/castle/909.html">広島城</a>」へ本拠地を移し、関ヶ原の戦いが終結すると同時に佐東銀山城は廃城となった。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama08.jpg" alt="佐東銀山城／アクセス・場所・地図 毛利元就の攻撃により落城した名門安芸武田氏の居城 佐東銀山城【お城特集 日本の歴史】" width="608" height="576" class="aligncenter size-full wp-image-5453" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama08.jpg 608w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/11/satokanayama08-300x284.jpg 300w" sizes="(max-width: 608px) 100vw, 608px" /></p>
<p>現在、この辺りはハイキングコースとなっており城の遺構としては曲輪、堀切、石垣、井戸などが残されている。</p>
<p>【佐東銀山城・場所・アクセス】<br />
〒731-0137 広島県広島市安佐南区山本町</p>
<p>【佐東銀山城地図】<center><iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d11065.634347479398!2d132.4431266557273!3d34.456392601356406!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x355a9913e7475d9d%3A0x5df18eb655894f7d!2z5L2Q5p2x6YqA5bGx5Z-O6Leh!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1478483513519" width="100%" height="450" frameborder="0" style="border:0" allowfullscreen></iframe><br />
</center></p>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/902.html">福山城跡：福島正則の改易のあとに水野勝成が三年で築いた城と、北側だけ鉄板を張った天守</a><br />十万石の大名がつくるには大きすぎる城。その理由と、伏見城から運ばれた櫓と門。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/998.html">萩城跡（指月城）：毛利が百二十万石を失って移った城と、倒幕の司令塔にならなかった理由</a><br />正月に倒幕の可否を問う儀式が二百五十年続いた、という話を検証しています。</p>
</div><p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/5446.html">佐東銀山城：毛利元就の攻撃により落城した名門安芸武田氏の居城 佐東銀山城</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://www.jp-history.info/castle/5446.html/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>吉田郡山城：毛利元就飛躍の城で広島城へ移転まで本城だった毛利家の吉田郡山城</title>
		<link>https://www.jp-history.info/castle/4663.html</link>
					<comments>https://www.jp-history.info/castle/4663.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[Jphistory]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 02 Nov 2016 04:24:49 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お城・城跡]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本100名城]]></category>
		<category><![CDATA[アクセス]]></category>
		<category><![CDATA[吉田]]></category>
		<category><![CDATA[吉田郡山城]]></category>
		<category><![CDATA[地図]]></category>
		<category><![CDATA[城]]></category>
		<category><![CDATA[場所]]></category>
		<category><![CDATA[広島城]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[毛利元就]]></category>
		<category><![CDATA[毛利家]]></category>
		<category><![CDATA[郡山城]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://www.jp-history.info/?p=4663</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/yoshida01.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>【城名】 吉田郡山城 【吉田郡山城の説明】 吉田郡山城は広島県安芸高田市吉田町吉田にあった山城である。 築城時期は不明だが吉田荘の地頭職として「毛利時親」が下向し館を作り住んだのが始まりと伝えられている。 当時の郡山城は [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/4663.html">吉田郡山城：毛利元就飛躍の城で広島城へ移転まで本城だった毛利家の吉田郡山城</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/yoshida01.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>【城名】<br />
吉田郡山城</p>
<p>【吉田郡山城の説明】<br />
吉田郡山城は広島県安芸高田市吉田町吉田にあった山城である。<br />
築城時期は不明だが吉田荘の地頭職として「毛利時親」が下向し館を作り住んだのが始まりと伝えられている。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/yoshida02.jpg" alt="吉田郡山城／アクセス・場所・地図 毛利元就飛躍の城で広島城へ移転まで本城だった毛利家の吉田郡山城【お城特集 日本の歴史】" width="548" height="450" class="aligncenter size-full wp-image-4665" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/yoshida02.jpg 548w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/yoshida02-300x246.jpg 300w" sizes="(max-width: 548px) 100vw, 548px" /></p>
<p>当時の郡山城は、地方の一豪族や地頭の砦や館程度のもので、12代当主「<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/592.html" target="_blank" rel="noopener">毛利元就</a>」が城主になり、始めて城の大改修が行われた。元就は地方豪族として次男「元春」を吉川家へ、三男「隆景」を小早川家へ養子として送り込み、少しずつ勢力を拡大しつつ西の大内氏や山陰の尼子氏に従いながら毛利家飛躍の時期を見計らっていた。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/yoshida03.jpg" alt="吉田郡山城／アクセス・場所・地図 毛利元就飛躍の城で広島城へ移転まで本城だった毛利家の吉田郡山城【お城特集 日本の歴史】" width="608" height="463" class="aligncenter size-full wp-image-4666" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/yoshida03.jpg 608w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/yoshida03-300x228.jpg 300w" sizes="(max-width: 608px) 100vw, 608px" /></p>
<p>天文9年（1540年）、元就が尼子氏の支配から大内氏へ寝返った際には、<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/949.html" target="_blank" rel="noopener">尼子晴久</a>が3万の軍勢で攻め寄せてきたがこれを見事に撃退している。（吉田郡山の戦い）この頃の郡山城は大改修を行う前と考えられている。</p>
<p>この戦のあと、大内氏では重臣である「<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/514.html" target="_blank" rel="noopener">陶晴賢</a>」が主家に反旗を翻し、幼君を大内家の養子に迎え実質的支配を行っていた。これを時機到来と考えた元就は晴賢軍を厳島へと誘導し、大群が身動きできない中、少数精鋭による奇襲により陶軍を打ち破った。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/yoshida04.jpg" alt="吉田郡山城／アクセス・場所・地図 毛利元就飛躍の城で広島城へ移転まで本城だった毛利家の吉田郡山城【お城特集 日本の歴史】" width="501" height="395" class="aligncenter size-full wp-image-4667" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/yoshida04.jpg 501w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/yoshida04-300x237.jpg 300w" sizes="(max-width: 501px) 100vw, 501px" /></p>
<p>この戦に勝利した元就の行動は素早く、日本海側の「三本松城」をいち早く抑えついに周防・長門・安芸を領する大名にのし上がった。そして、中国地方統一の総仕上げとして山陰の雄「尼子義久」を攻め始める。</p>
<p>永禄5年（1562年）から永禄8年（1565年）にかけて尼子包囲網を敷いた元就はついに義久を降し、山陰地方の統一も果たした。これにより毛利家は120万石以上を領する大大名となった。</p>
<p>元就が死去し嫡孫の輝元が跡を継ぐと、中央では<a href="https://www.busho-zukan.info/tokai/32.html">織田信長</a>より取り立てられた<a href="https://www.busho-zukan.info/tokai/47.html">羽柴秀吉</a>（豊臣秀吉）が天下をほぼ掌握し、毛利家も秀吉の麾下に加わった。そして、<a href="https://www.busho-zukan.info/hokuriku/996.html">前田利家</a>や<a href="https://www.busho-zukan.info/kanto/944.html">徳川家康</a>、<a href="https://www.busho-zukan.info/koshinetsu/263.html" target="_blank" rel="noopener noreferrer">上杉景勝</a>、<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/997.html">宇喜多秀家</a>らと共に五大老に任命された。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/yoshida05.png" alt="吉田郡山城／アクセス・場所・地図 毛利元就飛躍の城で広島城へ移転まで本城だった毛利家の吉田郡山城【お城特集 日本の歴史】" width="710" height="580" class="aligncenter size-full wp-image-4668" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/yoshida05.png 710w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/yoshida05-300x245.png 300w" sizes="(max-width: 710px) 100vw, 710px" /></p>
<p>一方、吉田郡山城は山間部に位置し交通の便にも不便なため、広島の地に城を築き、天正19年（1591年）に<a href="https://www.jp-history.info/castle/909.html">広島城</a>がほぼ完成すると毛利家家臣団や商人、町人なども広島の地へと移っていった。ここに毛利家本城としての役割を終えた吉田郡山城は事実上の廃城となった。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/yoshida06.jpg" alt="吉田郡山城／アクセス・場所・地図 毛利元就飛躍の城で広島城へ移転まで本城だった毛利家の吉田郡山城【お城特集 日本の歴史】" width="493" height="916" class="aligncenter size-full wp-image-4669" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/yoshida06.jpg 493w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/yoshida06-161x300.jpg 161w" sizes="(max-width: 493px) 100vw, 493px" /></p>
<p>しかし、広島城移転後も何等かの形で吉田郡山城を利用した形跡が残っており完全に廃城となったわけではないようだ。世の中が徳川家の時代に入ると、慶長20年（1615年）幕府が出した一国一城令により吉田郡山城は破却された。</p>
<p>【吉田郡山城・場所・アクセス】<br />
〒731-0501 広島県安芸高田市吉田町吉田郡山</p>
<p>【吉田郡山城地図】<center><iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d4640.460058796368!2d132.7056657416569!3d34.67235762372836!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x0%3A0xe4ee12bf89bbcd28!2z5ZCJ55Sw6YOh5bGx5Z-O6Leh!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1478060599147" width="100%" height="450" frameborder="0" style="border:0" allowfullscreen></iframe><br />
</center></p>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/902.html">福山城跡：福島正則の改易のあとに水野勝成が三年で築いた城と、北側だけ鉄板を張った天守</a><br />十万石の大名がつくるには大きすぎる城。その理由と、伏見城から運ばれた櫓と門。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/1688.html">岩国城跡：完成から七年で壊された南蛮造りの天守と、幕末まで藩と認められなかった吉川家</a><br />関ヶ原での一つの判断が、二百五十年にわたって尾を引いた城の話です。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/998.html">萩城跡（指月城）：毛利が百二十万石を失って移った城と、倒幕の司令塔にならなかった理由</a><br />正月に倒幕の可否を問う儀式が二百五十年続いた、という話を検証しています。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/1223.html">月山富田城跡（安来市）：大内を退けた城が毛利に落ちた理由と、七曲りの登城路</a><br />日本五大山城のひとつ。堅さではなく外側の固め方で勝負がつきました。</p>
</div><p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/4663.html">吉田郡山城：毛利元就飛躍の城で広島城へ移転まで本城だった毛利家の吉田郡山城</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://www.jp-history.info/castle/4663.html/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>羽衣石城：毛利元就と激しく争い伯耆国で勢力を誇った南条宗勝の居城 羽衣石城</title>
		<link>https://www.jp-history.info/castle/5047.html</link>
					<comments>https://www.jp-history.info/castle/5047.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[Jphistory]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 18 Oct 2016 08:07:36 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お城・城跡]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[アクセス]]></category>
		<category><![CDATA[伯耆]]></category>
		<category><![CDATA[南条宗勝]]></category>
		<category><![CDATA[地図]]></category>
		<category><![CDATA[城]]></category>
		<category><![CDATA[場所]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[毛利元就]]></category>
		<category><![CDATA[羽衣石]]></category>
		<category><![CDATA[羽衣石城]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://www.jp-history.info/?p=5047</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi01.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>【城名】 羽衣石城 【羽衣石城の説明】 羽衣石城は鳥取県東伯郡湯梨浜町にあった山城である。貞治5年（1366年）に「南条貞宗」が築城したと伝えられている。 戦国時代に入ると尼子氏が伯耆国へ進出し、南條氏の「羽衣石城」もそ [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/5047.html">羽衣石城：毛利元就と激しく争い伯耆国で勢力を誇った南条宗勝の居城 羽衣石城</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi01.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>【城名】<br />
羽衣石城</p>
<p>【羽衣石城の説明】<br />
羽衣石城は鳥取県東伯郡湯梨浜町にあった山城である。貞治5年（1366年）に「南条貞宗」が築城したと伝えられている。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi02.jpg" alt="羽衣石城／アクセス・場所・地図 毛利元就と激しく争い伯耆国で勢力を誇った南条宗勝の居城 羽衣石城【お城特集 日本の歴史】" width="860" height="659" class="aligncenter size-full wp-image-5049" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi02.jpg 860w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi02-300x230.jpg 300w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi02-768x589.jpg 768w" sizes="(max-width: 860px) 100vw, 860px" /></p>
<p>戦国時代に入ると尼子氏が伯耆国へ進出し、南條氏の「羽衣石城」もその攻撃を受けて降伏・開城している。天文9年（1540年）、<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/949.html" target="_blank" rel="noopener">尼子晴久</a>が<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/592.html" target="_blank" rel="noopener">毛利元就</a>の郡山城を攻撃すると南條氏はこの戦に参加している。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi03.jpg" alt="羽衣石城／アクセス・場所・地図 毛利元就と激しく争い伯耆国で勢力を誇った南条宗勝の居城 羽衣石城【お城特集 日本の歴史】" width="515" height="463" class="aligncenter size-full wp-image-5050" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi03.jpg 515w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi03-300x270.jpg 300w" sizes="(max-width: 515px) 100vw, 515px" /></p>
<p>天文12年（1543年）には「<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/497.html" target="_blank" rel="noopener">大内義隆</a>」の<a href="https://www.jp-history.info/castle/1223.html">月山富田城</a>（尼子氏の本城）の攻撃に「南条宗勝」が加わり、義隆の先導役を務めている。その後、徐々に力をつけてきた「毛利元就」に臣従した宗勝は元就の支援を得て、永禄5年（1562年）尼子氏により奪われていた伯耆の旧領を回復した。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi05.jpg" alt="羽衣石城／アクセス・場所・地図 毛利元就と激しく争い伯耆国で勢力を誇った南条宗勝の居城 羽衣石城【お城特集 日本の歴史】" width="453" height="441" class="aligncenter size-full wp-image-5051" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi05.jpg 453w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi05-300x292.jpg 300w" sizes="(max-width: 453px) 100vw, 453px" /></p>
<p>天正3年（1575年）秋、南条宗勝が急死すると家督は嫡子「元続」が継ぎ、次第に織田家に接近するようになる。毛利氏から離反した南條氏は、天正8年（1580年）から毛利家の吉川軍と交戦状態にはいる。その一方で織田家の中国地方担当官である「<a href="https://www.busho-zukan.info/tokai/47.html">羽柴秀吉</a>」の<a href="https://www.jp-history.info/castle/1214.html">鳥取城</a>攻めに合力したりしている。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi06.jpg" alt="羽衣石城／アクセス・場所・地図 毛利元就と激しく争い伯耆国で勢力を誇った南条宗勝の居城 羽衣石城【お城特集 日本の歴史】" width="550" height="733" class="aligncenter size-full wp-image-5052" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi06.jpg 550w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi06-225x300.jpg 225w" sizes="(max-width: 550px) 100vw, 550px" /></p>
<p>天正12年（1584年）、<a href="https://www.busho-zukan.info/tokai/32.html">織田信長</a>が横死したあとに「羽柴秀吉」と「<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/591.html">毛利輝元</a>」による和睦が成立し、南条氏は八橋城を除く東伯耆3郡を与えられた。しかし、その後も八橋城の奪還を諦めずついに旧領全ての回復に成功する。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi04.jpg" alt="羽衣石城／アクセス・場所・地図 毛利元就と激しく争い伯耆国で勢力を誇った南条宗勝の居城 羽衣石城【お城特集 日本の歴史】" width="528" height="402" class="aligncenter size-full wp-image-5053" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi04.jpg 528w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi04-300x228.jpg 300w" sizes="(max-width: 528px) 100vw, 528px" /></p>
<p>天正19年（1591年）、南條元続が死去すると幼い「元忠」が家督を継承した。慶長5年（1600年）、関ヶ原の戦いで西軍に属した「南条元忠」は西軍の敗北により所領没収の上、羽衣石城は廃城、南條氏は改易された。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi07.jpg" alt="羽衣石城／アクセス・場所・地図 毛利元就と激しく争い伯耆国で勢力を誇った南条宗勝の居城 羽衣石城【お城特集 日本の歴史】" width="400" height="315" class="aligncenter size-full wp-image-5054" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi07.jpg 400w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi07-300x236.jpg 300w" sizes="(max-width: 400px) 100vw, 400px" /></p>
<p>慶長19年（1614年）、元忠は「大坂冬の陣」に際し多くの一族旧臣とともに大坂城へ入り戦ったが、徳川方の「<a href="https://www.busho-zukan.info/tokai/943.html">藤堂高虎</a>」と内通していたことが発覚して大坂城内にて切腹。これで南條氏の大名復帰は完全に断たれることになる。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi08.jpg" alt="羽衣石城／アクセス・場所・地図 毛利元就と激しく争い伯耆国で勢力を誇った南条宗勝の居城 羽衣石城【お城特集 日本の歴史】" width="538" height="405" class="aligncenter size-full wp-image-5055" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi08.jpg 538w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/10/ueshi08-300x226.jpg 300w" sizes="(max-width: 538px) 100vw, 538px" /></p>
<p>現在の城跡には羽衣石城「模擬天守」が建てられており、石垣などが残されている。</p>
<p>【羽衣石城・場所・アクセス】<br />
〒689-0733 鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石</p>
<p>【羽衣石城地図】<center><iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d26005.200896680795!2d133.87493706941927!3d35.438696494877746!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x0%3A0x9c07a31f1849bee7!2z57696KGj55-z5Z-O6Leh!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1476776110227" width="100%" height="450" frameborder="0" style="border:0" allowfullscreen></iframe><br />
</center></p>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p><a href="https://www.jp-history.info/castle/1904.html">鹿野城跡（鳥取市）：堀に桜が映る亀井茲矩の城と、関ヶ原より二十年早い入城</a></div><p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/5047.html">羽衣石城：毛利元就と激しく争い伯耆国で勢力を誇った南条宗勝の居城 羽衣石城</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://www.jp-history.info/castle/5047.html/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>浜田城跡（浜田市）：城を焼いたのは長州軍ではない ― 石州口の戦いと自焼退城</title>
		<link>https://www.jp-history.info/castle/4545.html</link>
					<comments>https://www.jp-history.info/castle/4545.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[Jphistory]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 23 Sep 2016 15:50:36 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お城・城跡]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[幕末・維新]]></category>
		<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[アクセス]]></category>
		<category><![CDATA[古田重治]]></category>
		<category><![CDATA[地図]]></category>
		<category><![CDATA[城]]></category>
		<category><![CDATA[場所]]></category>
		<category><![CDATA[幕末]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[松平武聡]]></category>
		<category><![CDATA[浜田]]></category>
		<category><![CDATA[浜田城]]></category>
		<category><![CDATA[長州藩]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://www.jp-history.info/?p=4545</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/Hamada_castle_a_site_of_Honmaru-1024x768.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>浜田城（はまだじょう）は、日本海に面した石見の城です。大坂の陣の功で古田重治が入り、城と城下町を築きました。幕末、第二次長州征討の石州口で長州軍と戦った浜田藩は敗れ、藩主は城を出ます。このとき城は焼けましたが、長州軍が焼 [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/4545.html">浜田城跡（浜田市）：城を焼いたのは長州軍ではない ― 石州口の戦いと自焼退城</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/Hamada_castle_a_site_of_Honmaru-1024x768.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>浜田城（はまだじょう）は、日本海に面した石見の城です。大坂の陣の功で古田重治が入り、城と城下町を築きました。幕末、第二次長州征討の石州口で長州軍と戦った浜田藩は敗れ、藩主は城を出ます。このとき城は焼けましたが、長州軍が焼いたのではなく、藩みずからが火を放ちました。城跡は城山公園として残り、石垣と移築された門が見られます。</p>
<div style="background:#f7f5f0;border-left:4px solid #B08520;padding:16px 20px;margin:1.5em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;">この記事のポイント</div>
<ul style="margin:10px 0 0;padding-left:1.2em;">
<li>大坂の陣の功で古田重治が入り、日本海ぞいに築かれた平山城</li>
<li>二代で御家騒動が起き、以後は譜代・親藩の大名が次々に入れ替わった</li>
<li>幕末の藩主は水戸徳川家の出で、藩内は割れていた</li>
<li>城が焼けたのは長州軍の攻撃ではなく、退却にあたっての自焼</li>
</ul>
</div>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/Hamada_castle_Gate_of_the_castle.jpg" alt="城山の登り口に移された門" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">城山の登り口に建つ門。津和野藩の武家屋敷から移されたもので、浜田城の遺構ではないが、当時の門の姿を伝えている。奥に石段と石垣が続く。</p>
<h2>日本海を背にした城</h2>
<p>浜田城は、河口ちかくの独立した丘に築かれています。北は日本海、東西を川にはさまれ、南だけが陸につながる地形です。山頂に本丸、そこから段々に二の丸、三の丸を下ろし、麓に居館と城下町を置きました。石垣は自然石を積んだもので、段ごとに折れを入れて横矢がかかるようになっています。</p>
<p>石見は、銀山を抱える土地です。石見銀山は江戸幕府の直轄地となり、そこから積み出される銀と、日本海の廻船が行き来しました。浜田はその海ぞいにあり、港と街道を押さえる位置にあります。城が置かれた理由は、この海にあります。</p>
<h2>古田氏の築城と、お家騒動</h2>
<p>元和年間、大坂の陣の功で古田重治が五万四千石を与えられ、この地に入りました。重治は城を築き、町割りを整えます。ところが二代重恒の代に家中が分裂し、家督をめぐる争いから幕府の裁定を受けることになりました。いわゆる古田騒動です。結果として古田家は改易されます。</p>
<p>以後、浜田には松平（松井）氏、本多氏、松平（越智）氏と大名が入れ替わりました。西国をにらむ要地であり、譜代や親藩が置かれる土地だったからです。石高はおおむね五万石前後で、大きな藩ではありません。しかし、萩の毛利家に近いという一点が、この藩の立場を決めていました。</p>
<h2>城は誰が焼いたのか</h2>
<div style="border:1px solid #dcd3bd;border-radius:8px;overflow:hidden;margin:1.8em 0;">
<div style="background:#eef1f5;padding:14px 18px;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#5b6b80;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▽ よく語られる話</div>
<div style="line-height:1.8;">浜田城は、攻め寄せた長州軍の砲撃と放火によって焼け落ちた。</div>
</div>
<div style="background:#fdf8ec;padding:14px 18px;border-top:3px solid #B08520;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#8a7530;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▼ 史実ではこうです</div>
<div style="line-height:1.8;">火を放ったのは浜田藩自身です。石州口の戦いで前線が破られると、藩主の松平武聡は城を捨てて退くことを決め、城に火をかけて出ました。敵に城と兵糧を使わせないための自焼退城です。長州軍が入ったとき、城はすでに焼けていました。幕末には、こうして城を焼いて退く判断がいくつかの藩で行われています。城が戦って落ちたのか、みずから捨てられたのかは、その藩がどんな状態にあったかを映します。</div>
</div>
</div>
<p>浜田藩が戦いきれなかった背景には、藩内の分裂がありました。藩主の松平武聡は水戸徳川家の出身で、<a href="https://www.jp-history.info/castle/19218.html">水戸</a>の斉昭の子、徳川慶喜の弟にあたります。水戸は攘夷論の発信地でしたが、藩としての浜田は幕府の命で長州と戦う立場にありました。藩士のあいだにも意見の隔たりがあり、士気はそろいません。</p>
<p>攻める長州側を指揮したのは大村益次郎でした。村医から兵学者となり、西洋式の用兵で石州口を進めます。山あいの道を通る部隊の動かし方、銃の使い方が、旧来の戦い方と噛み合わなかった—石州口の戦いは、その差がはっきり出た戦線でした。</p>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p><a href="https://www.jp-history.info/end-of-edo-period/18176.html">大村益次郎「木屋町の遭難」</a></div>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/Hamada_castle_a_site_of_Honmaru.jpg" alt="本丸跡の広場" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">草に覆われた本丸跡。建物はなく、平場と木立が残るだけで、右手に石造りの小さな記念物が立つ。</p>
<h2>城が焼けたあとの浜田</h2>
<p>藩主が退いたのち、浜田藩は所領を失い、藩そのものが消えました。旧藩士の一部は美作の鶴田へ移り、そこで藩を再興しています。城下は長州の支配下に置かれ、やがて明治の府県に組み込まれました。城が焼けたことは、この町にとって藩の終わりとほぼ同じ意味を持っています。</p>
<p>城山には、のちに津和野藩の武家屋敷の門が移されました。浜田城のものではありませんが、失われた城の入口を補うように、今は登り口に建っています。石垣は各所に残り、本丸まで登れば日本海と浜田の港が見わたせます。</p>
<h2>浜田城跡の訪ね方</h2>
<p>城跡はJR浜田駅から歩いて二十分ほど、城山公園として開かれています。麓の護国神社から登り、移築された門をくぐって石段を上がると、十五分ほどで本丸跡に着きます。石垣は段ごとに残っていて、折れの付け方を見ながら登ると城の構えがよくわかります。</p>
<p>山陰の城をめぐるなら、<a href="https://www.jp-history.info/castle/998.html">萩城</a>や<a href="https://www.jp-history.info/castle/237.html">松江城</a>、<a href="https://www.jp-history.info/castle/1223.html">月山富田城</a>と結ぶ行程が組めます。長州と幕府がぶつかった線を西からたどると、浜田がその最前線だったことが地図の上でも見えてきます。</p>
<p>所在地：〒697-0027 島根県浜田市殿町123-1</p>
<div style="background:#f7f5f0;border:1px solid #e3dccb;border-radius:8px;padding:16px 20px;margin:2em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:8px;">山陰の城をめぐる</div>
<ul style="margin:0;padding-left:1.2em;">
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/998.html">萩城跡：毛利家が移った城</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/237.html">松江城：祈祷札で国宝になった天守</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/1223.html">月山富田城跡：尼子氏の本拠</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/19218.html">水戸城跡：藩主の生家、徳川御三家の城</a></li>
</ul>
</div>
<p><iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d3244.0!2d132.0735383!3d34.9031847!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x355a57638f57afd3%3A0x15c1e872cf97ac80!2z5rWc55Sw5Z-O6Leh!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1700000000000!5m2!1sja!2sjp" width="100%" height="450" style="border:0;" allowfullscreen="" loading="lazy" referrerpolicy="no-referrer-when-downgrade"></iframe></p>
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/998.html">萩城跡（指月城）：毛利が百二十万石を失って移った城と、倒幕の司令塔にならなかった理由</a><br />正月に倒幕の可否を問う儀式が二百五十年続いた、という話を検証しています。</p>
<div style="background:#f0f4f8;border:1px solid #d6dde6;border-left:4px solid #5b6b80;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#41506b;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> 姉妹サイト「幕末歴史ガイド」で読む</div>
<p><a style="font-weight:bold;font-size:106%;" href="https://www.bakumatsu.info/all-han/981.html">浜田藩／松平家６万１千石：松平武聰 長州藩大村益次郎の軍に惨敗し城を捨てて敗走した浜田藩</a></p>
<p>浜田城の地を治めた浜田藩が、幕末をどう生きたかをまとめています。</p>
</div><p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/4545.html">浜田城跡（浜田市）：城を焼いたのは長州軍ではない ― 石州口の戦いと自焼退城</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://www.jp-history.info/castle/4545.html/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>三原城：小早川隆景が築城した瀬戸内海の浮城 三原城</title>
		<link>https://www.jp-history.info/castle/4353.html</link>
					<comments>https://www.jp-history.info/castle/4353.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[Jphistory]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 08 Sep 2016 07:46:24 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お城・城跡]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[アクセス]]></category>
		<category><![CDATA[三原]]></category>
		<category><![CDATA[三原城]]></category>
		<category><![CDATA[地図]]></category>
		<category><![CDATA[城]]></category>
		<category><![CDATA[場所]]></category>
		<category><![CDATA[小早川隆景]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[浮城]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://www.jp-history.info/?p=4353</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/mihara01.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>【城名】 三原城 【三原城の説明】 三原城は現在の広島県三原市にあった城である。当時は海に面していたため浮城とも呼ばれていた。築城者は毛利元就の三男「小早川隆景」で小早川家は元々水軍を主体とした家柄であった。このことから [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/4353.html">三原城：小早川隆景が築城した瀬戸内海の浮城 三原城</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/mihara01.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>【城名】<br />
三原城</p>
<p>【三原城の説明】<br />
三原城は現在の広島県三原市にあった城である。当時は海に面していたため浮城とも呼ばれていた。築城者は<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/592.html" target="_blank" rel="noopener">毛利元就</a>の三男「<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/561.html" target="_blank" rel="noopener">小早川隆景</a>」で小早川家は元々水軍を主体とした家柄であった。このことから瀬戸内海を一層掌握するため、隆景は「高山城」「新高山城」を経て「三原城」の築城を開始した。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/mihara02.jpg" alt="三原城／アクセス・場所・地図 小早川隆景が築城した瀬戸内海の浮城 三原城【お城特集 日本の歴史】" width="298" height="402" class="aligncenter size-full wp-image-4355" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/mihara02.jpg 298w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/mihara02-222x300.jpg 222w" sizes="(max-width: 298px) 100vw, 298px" /></p>
<p>もともと小早川家は「沼田小早川家」「竹原小早川家」にわかれていたが、隆景が両小早川家を束ねて当主に治まった。弘治元年（1555年）の「厳島の戦い」では毛利水軍の主力として小早川水軍を率いて毛利家を勝利へと導いている。</p>
<p>以降、隆景は小早川水軍を掌握し、三原城の整備や城下町の形成など城の増改築を推し進め三原の城を近世城郭へと変貌させた。中央では<a href="https://www.busho-zukan.info/tokai/32.html" target="_blank" rel="noopener">織田信長</a>が覇権を握り多方面へ自身の軍団を送り込んでいた。中国地方統一の担当官は「<a href="https://www.busho-zukan.info/tokai/47.html">羽柴秀吉</a>」で、毛利家は度々秀吉と戦を繰り返し徐々に自領内へ攻め込まれるようになる。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/mihara03.jpg" alt="三原城／アクセス・場所・地図 小早川隆景が築城した瀬戸内海の浮城 三原城【お城特集 日本の歴史】" width="484" height="545" class="aligncenter size-full wp-image-4357" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/mihara03.jpg 484w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/mihara03-266x300.jpg 266w" sizes="(max-width: 484px) 100vw, 484px" /></p>
<p>毛利家が秀吉との攻防戦を繰り広げているさなか、天正10年（1582年）織田信長が家臣の<a href="https://www.busho-zukan.info/kinki/50.html" target="_blank" rel="noopener noreferrer">明智光秀</a>に討たれるという大事件が発生する。いち早く主君の仇を討ちたい秀吉は信長の死を隠しながら毛利家と和睦の交渉を進めついに交渉がまとまった。</p>
<p>この交渉がまとまったのと当時に秀吉は大急ぎで京都へ引き返し、山崎の戦いで見事光秀を討ち取った。その後も<a href="https://www.busho-zukan.info/hokuriku/1150.html">柴田勝家</a>・<a href="https://www.busho-zukan.info/tokai/4586.html">滝川一益</a>を破り、織田家重臣の中で勝ち残り徐々に天下人への道を進み始める。</p>
<p>毛利家では秀吉とよしみを結ぶことが最善の策と考え、秀吉の軍門に実質的に降ることになり、四国征伐や九州征伐に積極的に協力した。この頃、本拠地を「<a href="https://www.jp-history.info/castle/4663.html">吉田郡山城</a>」から瀬戸内海の「<a href="https://www.jp-history.info/castle/909.html">広島城</a>」へと移した。小早川隆景は秀吉の各地の戦に貢献したことで、筑前国を加増され「<a href="https://www.jp-history.info/castle/5255.html">名島城</a>」を与えられた。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/mihara04.jpg" alt="三原城／アクセス・場所・地図 小早川隆景が築城した瀬戸内海の浮城 三原城【お城特集 日本の歴史】" width="1077" height="599" class="aligncenter size-full wp-image-4358" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/mihara04.jpg 1077w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/mihara04-300x167.jpg 300w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/mihara04-768x427.jpg 768w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/mihara04-1024x570.jpg 1024w" sizes="(max-width: 1077px) 100vw, 1077px" /></p>
<p>さらに小早川家の跡継ぎに秀吉の甥である「<a href="https://www.busho-zukan.info/kinki/890.html" target="_blank" rel="noopener noreferrer">小早川秀秋</a>」を迎え家の安泰を図った。文禄4年（1595年）、養子の秀秋に家督を譲り隆景自身は「三原城」に戻り隠居した。そして、慶長2年（1597年）三原城にて病死した。</p>
<p>慶長5年（1600年）、関ヶ原の戦いが勃発すると秀秋は東軍の<a href="https://www.busho-zukan.info/kanto/944.html">家康</a>に戦の最中に寝返り、備前<a href="https://www.jp-history.info/castle/100.html">岡山城</a>を賜った。しかし、その後、若くして病死し跡継ぎもいなかったため小早川家は改易されてしまう。</p>
<p>一方毛利本家は「<a href="https://www.busho-zukan.info/kinki/476.html">石田三成</a>」率いる西軍の総大将に祭り上げられたことで領地の1/4を失った。広島城は「<a href="https://www.busho-zukan.info/tokai/994.html">福島正則</a>」に与えられ<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/591.html">毛利輝元</a>は日本海側の「萩城」へ移封となる。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/mihara05.jpg" alt="三原城／アクセス・場所・地図 小早川隆景が築城した瀬戸内海の浮城 三原城【お城特集 日本の歴史】" width="470" height="352" class="aligncenter size-full wp-image-4359" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/mihara05.jpg 470w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/mihara05-300x225.jpg 300w" sizes="(max-width: 470px) 100vw, 470px" /></p>
<p>三原城は福島家の支城として正則の子、正之が城主に治まった。ところが天下を統一した徳川家康は秀吉恩顧の大名を次々と改易し福島家もその例外ではなかった。結局、正則は広島城を没収され川中島へ流されることになった。これは2代将軍「徳川秀忠」の代の出来事である。</p>
<p>広島城には、紀伊和歌山藩主「浅野長晟」が入封し三原城には浅野家の家老が城代として入城する。江戸時期を通して浅野家が広島城、三原城を統治し続け明治維新を迎えている。</p>
<p><img decoding="async" src="http://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/mihara06.jpg" alt="三原城／アクセス・場所・地図 小早川隆景が築城した瀬戸内海の浮城 三原城【お城特集 日本の歴史】" width="775" height="481" class="aligncenter size-full wp-image-4360" srcset="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/mihara06.jpg 775w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/mihara06-300x186.jpg 300w, https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/mihara06-768x477.jpg 768w" sizes="(max-width: 775px) 100vw, 775px" /></p>
<p>現在の遺構は天守台や本丸を取り巻く堀や石垣、それに本丸中門跡や櫓を残すのみとなっている。平成16年ごろから城跡の復元や公園にする整備が進められている。</p>
<p>【三原城・場所・アクセス】<br />
〒723-0004 広島県三原市館町1-1-1</p>
<p>【三原城地図】<center><iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d3292.0289502179003!2d133.08029723719645!3d34.40061007439484!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x3550566c82ba8891%3A0xcc3bb5f9b46e432e!2z5LiJ5Y6f5Z-O6Leh!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1473320542107" width="100%" height="450" frameborder="0" style="border:0" allowfullscreen></iframe><br />
</center></p>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/902.html">福山城跡：福島正則の改易のあとに水野勝成が三年で築いた城と、北側だけ鉄板を張った天守</a><br />十万石の大名がつくるには大きすぎる城。その理由と、伏見城から運ばれた櫓と門。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/1688.html">岩国城跡：完成から七年で壊された南蛮造りの天守と、幕末まで藩と認められなかった吉川家</a><br />関ヶ原での一つの判断が、二百五十年にわたって尾を引いた城の話です。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/1258.html">今治城：堀に海水を引きこんだ日本三大水城と、藤堂高虎が砂地に築くために考えた犬走り</a><br />堀の水は海の水。潮で水位が変わり、海の魚が泳ぐ城です。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/5213.html">湯築城跡（道後公園）：石垣も天守もない河野氏の城と、発掘で現れた家臣の屋敷</a><br />伊予の守護・河野氏が二百五十年を過ごした中世の城。道後温泉のすぐ隣です。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/931.html">尾道城：歴史に存在しなかった天守と、廃墟を経て視点場になるまで</a><br />城ではなかった天守。観光のために建てられ、廃墟を経て姿を消しました。</p>
</div><p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/4353.html">三原城：小早川隆景が築城した瀬戸内海の浮城 三原城</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://www.jp-history.info/castle/4353.html/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>鹿野城跡（鳥取市）：堀に桜が映る亀井茲矩の城と、関ヶ原より二十年早い入城</title>
		<link>https://www.jp-history.info/castle/1904.html</link>
					<comments>https://www.jp-history.info/castle/1904.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[Jphistory]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 17 Jun 2016 15:54:12 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お城・城跡]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[アクセス]]></category>
		<category><![CDATA[ガイド]]></category>
		<category><![CDATA[亀井琉球守]]></category>
		<category><![CDATA[亀井茲矩]]></category>
		<category><![CDATA[地図]]></category>
		<category><![CDATA[城]]></category>
		<category><![CDATA[場所]]></category>
		<category><![CDATA[尼子家]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[旧臣]]></category>
		<category><![CDATA[関ヶ原の戦い]]></category>
		<category><![CDATA[鹿野]]></category>
		<category><![CDATA[鹿野城]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://www.jp-history.info/?p=1904</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/06/shikano-03.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>鹿野城（しかのじょう）は、因幡の西部、鳥取市鹿野町にあった平山城です。城主として知られるのは亀井茲矩で、尼子再興軍に身を投じた武将のひとりでした。城山の裾を二重の堀がめぐり、今もその水面が残ります。茲矩は城だけでなく町と [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/1904.html">鹿野城跡（鳥取市）：堀に桜が映る亀井茲矩の城と、関ヶ原より二十年早い入城</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/06/shikano-03.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>鹿野城（しかのじょう）は、因幡の西部、鳥取市鹿野町にあった平山城です。城主として知られるのは亀井茲矩で、尼子再興軍に身を投じた武将のひとりでした。城山の裾を二重の堀がめぐり、今もその水面が残ります。茲矩は城だけでなく町と用水を整え、鹿野の町並みの骨格をつくりました。城跡は桜の名所として知られ、堀に映る花が見どころになっています。</p>
<div style="background:#f7f5f0;border-left:4px solid #B08520;padding:16px 20px;margin:1.5em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;">この記事のポイント</div>
<ul style="margin:10px 0 0;padding-left:1.2em;">
<li>尼子再興軍の生き残りだった亀井茲矩が長く城主をつとめた城</li>
<li>茲矩が鹿野に入ったのは関ヶ原より二十年ほど前で、関ヶ原は加増の節目</li>
<li>城下の町割りと用水、新田開発が今の鹿野の町並みのもとになっている</li>
<li>亀井家の津和野移封後は鳥取藩池田家の支城となり、やがて廃された</li>
</ul>
</div>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/06/shikano-01.jpg" alt="堀ぞいに咲く桜" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">城山の裾をめぐる堀と、水ぎわに並ぶ桜。手前は堀に架かる橋の擬宝珠で、朱色の欄干が水面の色に映える。</p>
<h2>水をたたえた堀と、城山の構え</h2>
<p>鹿野城は、独立した小山を本丸とし、その周囲に二重の堀をめぐらせた城です。山上には本丸と二の丸が階段状に置かれ、麓の平地に居館と家臣屋敷、その外に城下町が広がる構成でした。山城と平城の性格をあわせ持つ、近世のはじめによく見られる形です。</p>
<p>今も残るのは、この堀と城山の地形です。石垣は一部が山腹に残りますが、建物は伝わっていません。堀は幅が広く、水面に山と桜がそのまま映りこみます。城を守るための水が、そのまま景色をつくる装置になっている—鹿野城跡が写真に撮られやすい理由は、この構造にあります。</p>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/06/shikano-02.jpg" alt="堀の水面に映る桜と山" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">堀の水が鏡のようになり、桜と対岸の山、そして空を映している。城山の南側にあたる一角。</p>
<h2>尼子再興軍から、秀吉の与力へ</h2>
<p>亀井茲矩はもともと湯氏の出で、尼子氏の家臣の家に生まれました。<a href="https://www.jp-history.info/castle/1223.html">月山富田城</a>が毛利に落ちて尼子氏が滅んだのち、山中幸盛（鹿介）らが起こした尼子再興軍に加わります。再興軍は<a href="https://www.jp-history.info/castle/1714.html">上月城</a>で織田方として毛利軍と戦いますが、援軍が絶たれて落城し、幸盛は護送の途中で討たれました。茲矩は亀井の名跡を継ぎ、以後は<a href="https://www.busho-zukan.info/tokai/47.html">秀吉</a>の与力として働きます。</p>
<p>天正八年（一五八〇）からの秀吉の因幡攻めで、<a href="https://www.jp-history.info/castle/1214.html">鳥取城</a>は兵糧攻めによって落ちました。この一連の戦いのなかで鹿野城も織田方のものとなり、茲矩が城を預かることになります。</p>
<h2>鹿野城主になったのはいつか</h2>
<div style="border:1px solid #dcd3bd;border-radius:8px;overflow:hidden;margin:1.8em 0;">
<div style="background:#eef1f5;padding:14px 18px;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#5b6b80;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▽ よく語られる話</div>
<div style="line-height:1.8;">亀井茲矩は関ヶ原の戦いの功によって鹿野城を与えられ、大名になった。</div>
</div>
<div style="background:#fdf8ec;padding:14px 18px;border-top:3px solid #B08520;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#8a7530;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▼ 史実ではこうです</div>
<div style="line-height:1.8;">茲矩が鹿野に入ったのは天正九年（一五八一）ごろ、因幡攻めの直後です。関ヶ原よりおよそ二十年前から、すでにこの城を任されていました。本能寺の変ののちも秀吉に従い、一万三千石余の領主として鹿野を治めています。関ヶ原で東軍についたことによる加増で三万八千石となり、あらためて大名として認められました。関ヶ原は「城をもらった年」ではなく「石高が三倍近くになった年」です。城と町の整備も、関ヶ原の前から長い時間をかけて進められていました。</div>
</div>
</div>
<h2>町と用水をつくった城主</h2>
<p>茲矩の名が地元で語り継がれているのは、戦よりも普請と開発のためです。城下では街路を碁盤目に区切り、寺を配置して町をまとめました。周辺では用水路を引き、日本海ぞいの砂丘地や河内川ぞいの荒地を新田に変えています。灌漑と新田開発は、石高を増やすもっとも確かな方法でした。</p>
<p>鹿野には、山中幸盛の菩提を弔うために茲矩が建てたと伝わる幸盛寺があります。尼子再興軍でともに戦った主筋を、大名となったのちに祀ったことになります。城下町の寺と町割りは今も歩いてたどれる形で残り、鹿野は城下町の面影を保つ町として知られています。</p>
<p>茲矩はまた、海の外との交易にも強い関心を持っていました。朱印船を仕立てて東南アジアへ船を出し、「琉球守」を名のったとも伝わります。この話は別の記事でくわしく取りあげています。</p>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p><a href="https://www.jp-history.info/blog/1939.html">亀井茲矩は秀吉に琉球攻めを懇願し、琉球守を名のった</a></div>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/06/shikano-03.jpg" alt="堀端に立つ木造の常夜灯" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">堀端に立つ木組みの常夜灯ごしに城山をのぞむ。山腹を桜が覆い、その下に堀の水が広がる。</p>
<h2>津和野へ移り、支城となって消える</h2>
<p>亀井家は二代政矩のとき、石見の津和野へ移されました。鹿野の地は鳥取藩池田家の領内に入り、鹿野城は支城として城代が置かれます。ただし一国一城令ののちは城としての機能を縮小し、建物は取り払われて堀と地形だけが残りました。廃城の詳しい経緯を伝える記録は多くありません。</p>
<p>因幡から伯耆にかけては、<a href="https://www.jp-history.info/castle/5047.html">羽衣石城</a>のように毛利と尼子・織田のあいだで揺れた城が点在します。鹿野城もその一つでしたが、戦国の城で終わらず、城下町と用水という形で次の時代に残ったところに特徴があります。</p>
<h2>鹿野城跡の訪ね方</h2>
<p>城跡は鹿野城跡公園として整備され、堀のまわりを一周できます。桜の季節には堀ぞいの並木が花をつけ、夜は照明も入ります。城山へは登る道がついており、山上からは鹿野の町と周囲の山並みが見わたせます。石垣の一部が残る区間もあるので、足もとを確かめながら歩くのがよいところです。</p>
<p>町へ下りれば、茲矩の町割りが残る通りと、幸盛寺をはじめとする寺が並びます。城跡と町をあわせて歩いて一時間ほど。鳥取市中心部からは車で四十分ほどで、<a href="https://www.jp-history.info/castle/1214.html">鳥取城</a>とあわせてまわる行程が組みやすい位置にあります。</p>
<p>所在地：〒689-0405 鳥取県鳥取市鹿野町鹿野</p>
<div style="background:#f7f5f0;border:1px solid #e3dccb;border-radius:8px;padding:16px 20px;margin:2em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:8px;">尼子と因幡の城をたどる</div>
<ul style="margin:0;padding-left:1.2em;">
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/1223.html">月山富田城跡：尼子氏の本拠</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/1714.html">上月城跡：尼子再興軍の最後</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/1214.html">鳥取城跡：渇え殺しの舞台</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/5047.html">羽衣石城：伯耆で毛利と争った南条氏の城</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/blog/1939.html">亀井茲矩と琉球守の逸話</a></li>
</ul>
</div>
<p><iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d3249.8176727212153!2d134.06218393663695!3d35.45930803902955!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x0000000000000000%3A0x1f3e054e606f896b!2z6bm_6YeO5Z-O6Leh5YWs5ZyS!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1466178761909" width="100%" height="450" frameborder="0" style="border:0" allowfullscreen></iframe></p>
<div style="background:#f0f4f8;border:1px solid #d6dde6;border-left:4px solid #5b6b80;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#41506b;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> 姉妹サイト「幕末歴史ガイド」で読む</div>
<p><a style="font-weight:bold;font-size:106%;" href="https://www.bakumatsu.info/all-han/945.html">鹿野藩／池田家１万石：池田政直 播磨国福本へ移封のため廃藩</a></p>
<p>鹿野城の地を治めた鹿野藩が、幕末をどう生きたかをまとめています。</p>
</div><p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/1904.html">鹿野城跡（鳥取市）：堀に桜が映る亀井茲矩の城と、関ヶ原より二十年早い入城</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://www.jp-history.info/castle/1904.html/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>岩国城跡：完成から七年で壊された南蛮造りの天守と、幕末まで藩と認められなかった吉川家</title>
		<link>https://www.jp-history.info/castle/1688.html</link>
					<comments>https://www.jp-history.info/castle/1688.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[Jphistory]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 09 Jun 2016 07:27:08 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お城・城跡]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[幕末・維新]]></category>
		<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本100名城]]></category>
		<category><![CDATA[アクセス]]></category>
		<category><![CDATA[ガイド]]></category>
		<category><![CDATA[吉川広家]]></category>
		<category><![CDATA[地図]]></category>
		<category><![CDATA[城]]></category>
		<category><![CDATA[場所]]></category>
		<category><![CDATA[岩国]]></category>
		<category><![CDATA[岩国城]]></category>
		<category><![CDATA[岩国藩]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[錦帯橋]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://www.jp-history.info/?p=1688</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2026/09/iwakunijo-kintaikyo-tenshu-ame-1024x695.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>岩国城は、関ヶ原の戦いのあと吉川広家が横山の山上に築いた城です。ところが完成からわずか七年で、一国一城令によって天守も櫓も取り壊されてしまいました。城としての寿命が七年しかなかった例は、全国を見てもそう多くありません。し [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/1688.html">岩国城跡：完成から七年で壊された南蛮造りの天守と、幕末まで藩と認められなかった吉川家</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2026/09/iwakunijo-kintaikyo-tenshu-ame-1024x695.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>岩国城は、関ヶ原の戦いのあと吉川広家が横山の山上に築いた城です。ところが完成からわずか七年で、一国一城令によって天守も櫓も取り壊されてしまいました。城としての寿命が七年しかなかった例は、全国を見てもそう多くありません。しかもこの地を治めた岩国吉川家は、幕末になるまで正式な藩として認められませんでした。三万石以上の領地を持ち、城まで築いたのに、大名の列に加えてもらえなかった。関ヶ原でのある判断が、二百五十年にわたって尾を引いたのです。</p>
<div style="background:#f7f5f0;border-left:4px solid #B08520;padding:16px 20px;margin:1.5em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;">この記事のポイント</div>
<ul style="margin:10px 0 0;padding-left:1.2em;">
<li>吉川広家が築いた城。完成から七年で一国一城令により破却された</li>
<li>天守は最上階が張り出す南蛮造り（唐造り）だった</li>
<li>岩国吉川家は幕末まで正式な藩として認められなかった</li>
<li>麓の居館「御土居」跡が吉香公園、山頂に再建天守が建つ</li>
<li>錦帯橋は城の完成から六十年以上あとに架けられたもの</li>
</ul>
</div>
<h2>関ヶ原で吉川広家がしたこと</h2>
<p><svg viewBox="0 0 660 386" width="100%" style="max-width:660px;height:auto;display:block;margin:1.5em auto;font-family:sans-serif;"><rect x="0" y="0" width="660" height="386" fill="#fdfcf8" stroke="#e3dccb"/><text x="24" y="34" font-size="17" font-weight="bold" fill="#8a7530">岩国城と吉川家のあゆみ</text><line x1="24" y1="48" x2="636" y2="48" stroke="#B08520" stroke-width="2"/><text x="24" y="70" font-size="12" fill="#8a7530">年</text><text x="150" y="70" font-size="12" fill="#8a7530">できごと</text><rect x="24" y="80" width="612" height="34" fill="#f7f5f0"/><text x="30" y="98" font-size="13" fill="#5b5344">慶長五年</text><text x="150" y="98" font-size="13" fill="#3a3630">関ヶ原の戦い。吉川広家は徳川方と通じ、毛利本隊を動かさなかった</text><text x="30" y="134" font-size="13" fill="#5b5344">慶長五年</text><text x="150" y="134" font-size="13" fill="#3a3630">毛利は防長二国へ減封。広家は岩国三万石を預かる</text><rect x="24" y="152" width="612" height="34" fill="#f7f5f0"/><text x="30" y="170" font-size="13" fill="#5b5344">慶長七年</text><text x="150" y="170" font-size="13" fill="#3a3630">横山の山上と麓で築城を開始</text><text x="30" y="206" font-size="13" fill="#5b5344">慶長十三年</text><text x="150" y="206" font-size="13" fill="#3a3630">岩国城が完成。天守は最上階が張り出す南蛮造り</text><rect x="24" y="224" width="612" height="34" fill="#f7f5f0"/><text x="30" y="242" font-size="13" fill="#5b5344">元和元年</text><text x="150" y="242" font-size="13" fill="#3a3630">一国一城令により、完成から七年で天守を破却</text><text x="30" y="278" font-size="13" fill="#5b5344">延宝元年</text><text x="150" y="278" font-size="13" fill="#3a3630">吉川広嘉が錦帯橋を架ける</text><rect x="24" y="296" width="612" height="34" fill="#f7f5f0"/><text x="30" y="314" font-size="13" fill="#5b5344">慶応四年</text><text x="150" y="314" font-size="13" fill="#3a3630">岩国吉川家がようやく正式に藩と認められる</text></svg></p>
<p>吉川広家は<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/592.html" target="_blank" rel="noopener noreferrer">毛利元就</a>の孫にあたり、毛利家を支える両川（りょうせん）の一方、吉川家を継いだ人物です。<a href="https://www.jp-history.info/blog/17100.html">関ヶ原の戦い</a>で<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/591.html">毛利輝元</a>は西軍の総大将にかつぎ上げられましたが、広家は徳川方と密かに通じ、南宮山に布陣した毛利勢を最後まで動かしませんでした。広家の狙いは、毛利本家の領地を守ることにあります。戦後、<a href="https://www.busho-zukan.info/kanto/944.html">家康</a>は毛利の所領安堵をいったん約束したものの、輝元が西軍の中心にいた証拠が出てきたことで話が変わり、毛利は中国八か国から周防・長門の二か国へ大幅に減らされました。このとき家康は広家個人に周防国を与えようとしたと伝わりますが、広家はそれを辞退して毛利本家に譲り、自分は岩国三万石を預かる立場に収まります。同じ関ヶ原で寝返った<a href="https://www.jp-history.info/blog/17104.html">小早川秀秋</a>が二十一歳で急死したのとくらべると、広家の選択はずっと地味ですが、家を残すという一点では確実に成果を上げました。ただしこの一件が、のちのちまで毛利本家との関係に影を落とすことになります。</p>
<h2>山上の城と、麓の御土居</h2>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2026/09/iwakunijo-otemon-natsu.jpg" alt="岩国城跡の木の門と石段" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">城域へ入る木の門。太い柱に横木を渡した簡素な構えで、両側に橋の欄干が付く。門をくぐった先は石を敷いた道になっている。</p>
<p>広家が選んだのは、錦川が大きく蛇行してつくった横山という山でした。三方を川が囲み、残る一方が山続きという地形で、天然の堀を持つ山城になります。城は山上の本丸を中心に、二の丸・北の丸・曲輪が尾根に沿って並ぶ形。そして麓には御土居（おどい）と呼ばれる居館を築き、日常の政務や住まいはこちらで行いました。戦のときだけ山に籠もるという、中世以来の山城と居館の組み合わせです。ところが江戸時代に入って戦がなくなると、この形式そのものが時代遅れになっていきます。同じ毛利家中でも、本家は日本海に面した<a href="https://www.jp-history.info/castle/998.html">萩城</a>を新たに築いて政庁としました。写真の大手門は、山上へ上がる道の途中にある門を復元したものです。</p>
<h2>南蛮造りの天守と、七年で終わった城</h2>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2026/09/iwakunijo-tenshu-nanbanzukuri.jpg" alt="岩国城の天守を横から見た南蛮造りの張り出し" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">横から見た天守。上の階が下の階より外へ張り出しているのがわかる。これが南蛮造り（唐造り）と呼ばれる形で、いま建っているのは昭和に再建された建物。</p>
<p>慶長十三年に完成した岩国城の天守は、南蛮造り（唐造り）と呼ばれる特殊な形をしていました。最上階が下の階よりも外へ張り出す造りで、同じ形式の天守は小倉城や高松城など、西国にいくつか例があるだけです。張り出した分だけ真下が見え、石垣に取りついた敵を上から狙える。見た目の奇抜さだけでなく、実用の理屈もある形でした。ところがその天守は、完成してわずか七年後、元和元年の一国一城令によって取り壊されます。一国一城令は大名の居城を一つに限る法令で、毛利家の城は萩城ひとつと定められた以上、岩国城は残せません。しかも岩国は毛利家の領内ですから、吉川家に選択の余地はありませんでした。三万石の身代で山上に城を築き、七年で自ら壊す。この城は、戦国が終わったという事実を最も短い時間で突きつけられた城の一つです。同じころ幕府の側は、<a href="https://www.jp-history.info/castle/902.html">福山城</a>のように十万石の大名に不釣り合いなほど大きな城を築かせています。壊させる城と築かせる城の線引きが、そのまま新しい秩序の地図でした。</p>
<h2>藩と認められなかった二百五十年</h2>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2026/09/iwakunijo-hiroba-ame.jpg" alt="雨に濡れた岩国城跡の北の丸" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">雨の日の北の丸。木立に囲まれた平坦地で、いまは何も建っていない。ここに屋敷が並んでいたのは、わずか七年だった。</p>
<div style="border:1px solid #dcd3bd;border-radius:8px;overflow:hidden;margin:1.8em 0;">
<div style="background:#eef1f5;padding:14px 18px;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#5b6b80;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▽ よく語られる話</div>
<p style="margin:0;line-height:1.8;">岩国吉川家は三万石を領し、城まで持っていたのだから、当然ひとつの藩として扱われていた。</p>
</div>
<div style="background:#fdf8ec;padding:14px 18px;border-top:3px solid #B08520;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#8a7530;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▼ 史実ではこうです</div>
<p style="margin:0;line-height:1.8;">岩国吉川家が正式に藩として認められたのは、幕末も終わりに近い慶応四年のことでした。それまでは毛利本家の家臣という扱いで、幕府の大名の列には加えられていません。理由は関ヶ原にあります。広家が徳川方と通じたことが、毛利本家からは裏切りと受け取られ、本家は吉川家を独立した大名として幕府に届け出ようとしませんでした。広家の判断は毛利という家を救いましたが、その恩は代を重ねるうちに忘れられ、残ったのは「本家を売った家」という見方のほうだった。二百五十年という時間の長さが、この確執の深さを物語っています。毛利という家がどこから来たのかは、<a href="https://www.jp-history.info/castle/4663.html">元就が飛躍の足がかりにした吉田郡山城</a>の記事で追えます。</p>
</div>
</div>
<h2>錦帯橋は、城が壊されたあとに架けられた</h2>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2026/09/iwakunijo-kintaikyo-tenshu-ame.jpg" alt="錦帯橋ごしに見上げた雨の岩国城天守" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">錦帯橋の反り橋ごしに見上げた岩国城。雨のなか、山の上に天守が浮かんで見える。</p>
<p>岩国といえば錦帯橋を思い浮かべる人がほとんどでしょう。五つの木のアーチが連なるあの橋は、しかし城と同じ時代のものではありません。架けられたのは延宝元年、三代の吉川広嘉の代で、城の天守が壊されてから六十年近くあとのことです。錦川は大水のたびに橋を押し流してしまう川で、何度架けても流される。その繰り返しに終止符を打つために考え出されたのが、川の中に石の橋脚を築き、そのあいだを木の反り橋でつなぐという構造でした。橋は戦のためではなく、御土居と城下町、そして家臣の屋敷をつなぐ日常の道として必要とされたのです。城を失った吉川家が次に力を注いだのが橋だったというのは、時代の変わり方をよく表しています。守るための普請から、暮らしのための普請へ。岩国ではその転換が、目に見える形で残りました。</p>
<h2>いまの岩国城と、山頂の再建天守</h2>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2026/09/iwakunijo-tenshu-ishigaki.jpg" alt="石垣の上に建つ岩国城の天守を坂道から見上げる" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">石垣の上に建つ天守を坂道から見上げる。下層は黒い板張り、上層は白い漆喰で、屋根の反りが幾重にも重なる。</p>
<p>山頂には天守が建っていますが、これは昭和に鉄筋コンクリートで再建されたものです。しかも本来の天守台の位置ではなく、そこから少し南へずらして建てられています。理由は単純で、錦帯橋のほうから見上げたときに天守が見えるようにするためでした。本来の天守台は、のちの発掘調査をもとに石垣が復元され、再建天守のすぐそばで見ることができます。つまりこの城では、観光のために選ばれた位置の天守と、実際にそこにあった天守台の両方が並んでいるわけです。史跡としてどちらが正しいかという議論はありますが、見る側にとっては両方を見くらべられる珍しい場所でもあります。山上へはロープウェーで上がれ、そこから本丸まで歩いて数分。大手門、北の丸、そして復元された天守台と、一時間ほどで一巡できます。</p>
<h2>訪ね方と見どころ</h2>
<p>所在地は山口県岩国市横山。日本100名城の七十四番です。錦帯橋を渡り、吉香公園を抜けてロープウェー乗り場へ、という順路が自然でしょう。吉香公園は御土居の跡ですから、公園を歩くこと自体が城跡めぐりになっています。見どころを挙げるなら、まず復元された旧天守台の石垣。次に、山上から見下ろす錦川の蛇行です。三方を川に囲まれているという立地が、上から見ると一目でわかります。それから大手門と北の丸。北の丸は写真のとおり何もない平坦地ですが、ここに屋敷が並んでいたと思って立つと、七年で終わった城の短さが実感できます。麓には吉川家ゆかりの資料館もあり、関ヶ原での判断をめぐる資料が展示されています。<a href="https://www.jp-history.info/category/castle/japan-100-castle">日本100名城の一覧</a>もあわせてどうぞ。</p>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/1160.html">大分府内城：海際に築かれた白雉城と、竹中半兵衛の従弟・竹中重利が整えた縄張</a><br />荷落を荷揚へ改めた港の城。天守は焼けましたが、櫓は江戸のまま残っています。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/4846.html">高岡城跡：高山右近が縄張を引いた前田利長の隠居城と、廃城になっても埋められなかった水堀</a><br />一国一城令で廃城になったのに、なぜ水堀が四百年残ったのか。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/1102.html">福岡城跡：天守はあったのかなかったのか、黒田長政が名島から移した五十二万石の城</a><br />天守台はあるのに、建っていたかどうかが決着していない城です。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/661.html">高松城跡（玉藻公園）：堀に潮が満ちる日本三大水城と、海へ開く水手御門</a><br />堀に鯛が泳ぐ瀬戸内の海城。藩主が小舟で御座船へ向かった水手御門が残ります。</p>
</div>
<div style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#8a7530;letter-spacing:.08em;margin-bottom:4px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> この続きを読む</div>
<p><a href="/blog/24275.html" style="font-weight:bold;">毛利秀元とは：秀長の娘きくを妻にした毛利の跡継ぎ、関ヶ原「宰相殿の空弁当」と長府藩のはじまり</a></p>
<div style="font-size:90%;color:#555;margin-top:4px;">南宮山で一度も戦えなかった毛利勢の大将。その妻は秀長の娘でした。</div>
</div>
<div style="background:#f0f4f8;border:1px solid #d6dde6;border-left:4px solid #5b6b80;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#41506b;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> 姉妹サイト「幕末歴史ガイド」で読む</div>
<p><a style="font-weight:bold;font-size:106%;" href="https://www.bakumatsu.info/bakumatsu-blog/14656.html">【現地取材】岩国城と錦帯橋を歩く—六万石を領しながら、幕末まで大名ではなかった吉川家</a></p>
<p>運営者が実際に現地を歩いた、写真つきの記録です。</p>
</div>
<h2>岩国城跡・場所とアクセス</h2>
<p>〒741-0081 山口県岩国市横山3丁目城山</p>
<p><iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d3244.0!2d132.1741976!3d34.175242!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x3545346b00b2e4f9%3A0xb017c1c8f78249cc!2z5bKp5Zu95Z-O!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1700000000000!5m2!1sja!2sjp" width="100%" height="450" style="border:0;" allowfullscreen="" loading="lazy" referrerpolicy="no-referrer-when-downgrade"></iframe></p>
<div class="jph-related" style="background:#f7f5f0;border:1px solid #e3dccb;border-radius:8px;padding:16px 20px;margin:2em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:8px;">あわせて読みたい</div>
<ul style="margin:0;padding-left:1.2em;">
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/998.html">萩城：長州藩の本城と、幕末の志士たちを生んだ城下</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/blog/17100.html">関ヶ原の戦いをわかりやすく解説！なぜ西軍は有利な布陣で負けたのか</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/blog/17104.html">小早川秀秋はなぜ裏切ったのか？関ヶ原の“主役”と21歳での急死</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/902.html">福山城跡：福島正則の改易のあとに水野勝成が三年で築いた城</a></li>
</ul>
</div><p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/1688.html">岩国城跡：完成から七年で壊された南蛮造りの天守と、幕末まで藩と認められなかった吉川家</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://www.jp-history.info/castle/1688.html/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>萩城跡（指月城）：毛利が百二十万石を失って移った城と、倒幕の司令塔にならなかった理由</title>
		<link>https://www.jp-history.info/castle/998.html</link>
					<comments>https://www.jp-history.info/castle/998.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[Jphistory]]></dc:creator>
		<pubDate>Mon, 23 May 2016 02:34:20 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お城・城跡]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[幕末・維新]]></category>
		<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本100名城]]></category>
		<category><![CDATA[アクセス]]></category>
		<category><![CDATA[ガイド]]></category>
		<category><![CDATA[久坂玄瑞]]></category>
		<category><![CDATA[地図]]></category>
		<category><![CDATA[城]]></category>
		<category><![CDATA[場所]]></category>
		<category><![CDATA[幕末]]></category>
		<category><![CDATA[志士]]></category>
		<category><![CDATA[指月城]]></category>
		<category><![CDATA[日本のお城]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[萩]]></category>
		<category><![CDATA[萩城]]></category>
		<category><![CDATA[討幕]]></category>
		<category><![CDATA[長州藩]]></category>
		<category><![CDATA[高杉晋作]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://www.jp-history.info/?p=998</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/Hagi_Castle_air-1024x980.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>萩城は、関ヶ原に敗れた毛利家が日本海側に構えた城です。中国八か国百二十万石から周防・長門二か国へ削られ、瀬戸内の広島城を去って、山陰の指月山のふもとに新しい政庁を置きました。この移転を屈辱と受け取り、その恨みが二百五十年 [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/998.html">萩城跡（指月城）：毛利が百二十万石を失って移った城と、倒幕の司令塔にならなかった理由</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/Hagi_Castle_air-1024x980.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>萩城は、関ヶ原に敗れた毛利家が日本海側に構えた城です。中国八か国百二十万石から周防・長門二か国へ削られ、瀬戸内の広島城を去って、山陰の指月山のふもとに新しい政庁を置きました。この移転を屈辱と受け取り、その恨みが二百五十年後の討幕につながった、という語り方が広く知られています。ただ、その物語には後からつくられた部分も少なくありません。しかも幕末の長州が倒幕へ動いたとき、藩の中枢はすでに萩にはなく、山口へ移っていました。</p>
<div style="background:#f7f5f0;border-left:4px solid #B08520;padding:16px 20px;margin:1.5em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;">この記事のポイント</div>
<ul style="margin:10px 0 0;padding-left:1.2em;">
<li>関ヶ原後、毛利は百二十万石から周防・長門二か国へ大幅に減らされた</li>
<li>萩を居城としたのは幕府の指定によるとされるが、近年は別の見方もある</li>
<li>城は指月山の山頂に詰丸、山麓に本丸・二の丸・三の丸を置く構え</li>
<li>正月に倒幕の可否を問う儀式があったという話は、史料の裏づけを欠く</li>
<li>幕末には藩庁が萩から山口へ移り、倒幕の司令塔は萩ではなくなっていた</li>
</ul>
</div>
<h2>百二十万石から三十六万石へ</h2>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/Hagi_Castle_Walls.jpg" alt="萩城跡の海に面した石垣と土塀" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">海際に伸びる石垣と、その上に続く白い土塀。手前は広い芝地で、右手には静かな海が広がる。</p>
<p><a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/592.html" target="_blank" rel="noopener noreferrer">毛利元就</a>が一代で築きあげた勢力は、<a href="https://www.jp-history.info/castle/4663.html">吉田郡山城</a>から始まり、孫の輝元の代には広島城を本拠とする中国地方の大大名になっていました。その毛利が<a href="https://www.jp-history.info/blog/17100.html">関ヶ原の戦い</a>で西軍の総大将にかつぎ上げられ、敗れます。戦後処理で領地は周防・長門の二か国、石高にして三十六万九千石ほどに減らされました。八か国から二か国へ、石高では三分の一以下です。家臣をすべて抱えきれる規模ではなく、毛利家は多くの家臣を帰農させたり、禄を大幅に削ったりして乗り切ることになります。この処理の過程で生まれたのが、<a href="https://www.jp-history.info/castle/1688.html">岩国の吉川家</a>をめぐる本家との確執でした。石垣を積む前から、この藩は苦労を背負っていたわけです。</p>
<h2>なぜ萩だったのか</h2>
<div style="border:1px solid #dcd3bd;border-radius:8px;overflow:hidden;margin:1.8em 0;">
<div style="background:#eef1f5;padding:14px 18px;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#5b6b80;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▽ よく語られる話</div>
<p style="margin:0;line-height:1.8;">毛利輝元は山口か防府に城を構えたかったが、幕府が「日本海側の僻地である萩に置け」と厳命したため、やむなく萩へ追いやられた。</p>
</div>
<div style="background:#fdf8ec;padding:14px 18px;border-top:3px solid #B08520;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#8a7530;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▼ 史実ではこうです</div>
<p style="margin:0;line-height:1.8;">この話は長く語られてきましたが、近年は見方が分かれています。輝元が候補地をいくつか挙げて幕府に伺いを立て、そのなかから萩が決まったという経緯は史料にも見えますが、幕府が意地悪で僻地を指定したという筋書きまで裏づけられているわけではありません。萩は日本海の海運の要にあたり、三角州で城下町を広げやすく、背後に山を持つという条件もそろっています。防長二か国を治めるうえで不合理な場所ではなかった、という評価も出てきました。「屈辱の地へ追われた」という語りは、のちに長州が倒幕へ向かう物語のなかで意味を与えられ、強められていった面があります。</p>
</div>
</div>
<h2>指月山と三角州 ― 城の構え</h2>
<p>萩城が建つのは、松本川と橋本川という二本の川にはさまれた三角州の先端です。その先端に指月山という標高百四十メートルほどの山があり、城はこの山と平地の両方を使っています。山頂には詰丸と呼ばれる区画を置き、いざというときに籠もれるようにした。ふだんの政務は山麓の本丸・二の丸・三の丸でおこないます。平時の利便と戦時の備えを、高さで分けたわけです。同じ考え方は<a href="https://www.jp-history.info/castle/1688.html">岩国城</a>の山上の城と麓の御土居にも見られ、江戸初期に築かれた城にはこの形がいくつも残っています。ただし萩城の場合、その詰丸が使われることは一度もありませんでした。三方を川と海に囲まれ、陸から攻めるには三角州の狭い付け根を通るしかない。攻め口が限られるという点では、かなり有利な地形です。</p>
<h2>「今年は倒幕の機はいかに」という年賀の儀式</h2>
<div style="border:1px solid #dcd3bd;border-radius:8px;overflow:hidden;margin:1.8em 0;">
<div style="background:#eef1f5;padding:14px 18px;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#5b6b80;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▽ よく語られる話</div>
<p style="margin:0;line-height:1.8;">長州藩では毎年正月、家老が藩主に「今年、倒幕の機はいかがでしょうか」と問い、藩主が「時期尚早」と答える儀式が二百五十年続いた。この積年の恨みが幕末に爆発した。</p>
</div>
<div style="background:#fdf8ec;padding:14px 18px;border-top:3px solid #B08520;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#8a7530;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▼ 史実ではこうです</div>
<p style="margin:0;line-height:1.8;">よく知られた逸話ですが、これを裏づける同時代の記録は見つかっていません。幕末以降、あるいは明治になってから語られはじめた話とみられています。そもそも徳川の世で、家臣が毎年公然と倒幕を口にする儀式を二百五十年続けていたとすれば、とうに幕府の知るところとなっていたはずです。長州が倒幕へ動いた理由は、積年の恨みという単純なものではなく、黒船来航以降の政局のなかで藩論が揺れ、禁門の変や二度の長州征討を経て追い詰められていった結果でした。物語としては魅力的ですが、事実として扱うには材料が足りません。</p>
</div>
</div>
<h2>松下村塾と、この城下から出た人々</h2>
<p>萩の城下町からは、幕末を動かした人間が驚くほど多く出ています。吉田松陰がひらいた松下村塾に学んだ久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一。それに伊藤博文や山県有朋も、この塾の門をくぐっています。塾が開かれていた期間は数年にすぎません。そのわずかな時間に、これだけの人間が集まった。理由のひとつは、松陰が身分にこだわらず教えたことでしょう。下級武士も足軽も、町人の子も同じ部屋で学んでいます。彼らの多くは若くして死にました。久坂と入江は禁門の変で、吉田稔麿は<a href="https://www.jp-history.info/end-of-edo-period/18182.html">池田屋事件</a>で命を落としています。生き残って新政府の中枢に入った者と、志半ばで死んだ者が、同じ塾の名簿に並んでいる。<a href="https://www.jp-history.info/castle/19218.html">水戸の弘道館</a>が別の形で幕末を動かしたのとあわせて見ると、藩校や私塾がこの時代にどれほどの意味を持っていたかがわかります。</p>
<h2>藩庁は、萩から山口へ移っていた</h2>
<p>意外に知られていないのですが、長州藩が本格的に動きはじめたとき、藩の中枢はすでに萩を離れていました。文久年間に藩庁が山口へ移されているのです。表向きの理由は、海に面した萩が外国船の砲撃に弱いこと。ただし実際には、京や九州との連絡を取りやすい内陸へ出たかったという事情が大きかったとみられます。萩は日本海に面していて、瀬戸内や京への行き来には山を越えねばなりません。全国の政局に関わろうとすれば、この立地は不利でした。つまり、長州が倒幕へ舵を切ったときの司令塔は山口であって、萩ではなかった。萩城は幕末を通じて城として機能し続けましたが、歴史の焦点はすでに別の場所へ移っていたのです。この時期の長州は<a href="https://www.jp-history.info/castle/4545.html">浜田城</a>を攻め落とし、<a href="https://www.jp-history.info/castle/902.html">福山城</a>にも兵を向けています。守る側から攻める側へ立場が変わっていました。</p>
<h2>明治の破却と、残ったもの</h2>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/Hagi_Castle_air.jpg" alt="萩城跡と指月山を上空から見た写真" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">海に突き出した指月山と、その南のふもとに広がる城跡。三方を海に囲まれ、陸とつながるのは南側だけであることがよくわかる。</p>
<p>萩城には五層の天守が建っていました。明治の廃城令を受けて建物は解体され、天守も失われます。皮肉なのは、新政府をつくった側の藩の城が、その新政府の方針によって壊されたことです。城を惜しむより、旧時代を片づけることが優先された時代でした。ただし萩の場合、失われなかったものがあります。城下町です。武家屋敷の白壁と土塀、鍵の手に折れる道、夏みかんの木が塀越しに枝を伸ばす風景が、ほぼそのまま残りました。萩が近代の産業都市にならなかったことが、結果として町並みを守ったのです。城跡には天守台の石垣と堀、そして写真のような海際の石垣が残っています。城下町と、松下村塾をふくむ一帯は世界遺産の構成資産にも選ばれました。</p>
<h2>訪ね方と見どころ</h2>
<p>所在地は山口県萩市堀内。日本100名城の七十五番です。城跡は指月公園として開かれていて、入口で城と町の位置関係を頭に入れておくと歩きやすくなります。まず天守台に上がってください。ここに五層の天守が建っていたのだと思って海を見ると、この城が海に向いて建っていたことがわかります。次に堀沿いを歩いて、海際の石垣まで出る。潮の匂いがする城跡というのは、そう多くありません。体力があれば指月山に登って詰丸跡へ。標高はさほどでもありませんが、道は急です。城を出たら堀内地区の武家屋敷、菊屋横町、そして松下村塾へ。城跡だけを見て帰るのは、萩という町ではもったいない。町全体がひとつの史跡だと思って歩くのがおすすめです。<a href="https://www.jp-history.info/category/castle/japan-100-castle">日本100名城の一覧</a>もあわせてどうぞ。</p>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/909.html">広島城：毛利輝元が山を下りて築いた鯉城と、「広島」という名の始まり</a><br />町の名が城とともに生まれた三角州の城。福島正則改易のいきさつも扱っています。</p>
</div>
<h2>萩城跡・場所とアクセス</h2>
<p>〒758-0057 山口県萩市大字堀内2区1-1</p>
<p><iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d3244.0!2d131.3833634!3d34.4186854!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x3544af661e1fa631%3A0xae6461ed2dd5ce2a!2z6JCp5Z-O6Leh!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1700000000000!5m2!1sja!2sjp" width="100%" height="450" style="border:0;" allowfullscreen="" loading="lazy" referrerpolicy="no-referrer-when-downgrade"></iframe></p>
<div class="jph-related" style="background:#f7f5f0;border:1px solid #e3dccb;border-radius:8px;padding:16px 20px;margin:2em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:8px;">あわせて読みたい</div>
<ul style="margin:0;padding-left:1.2em;">
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/1688.html">岩国城跡：完成から七年で壊された南蛮造りの天守と、幕末まで藩と認められなかった吉川家</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/4663.html">吉田郡山城：毛利元就飛躍の城で、広島城へ移るまでの本拠</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/end-of-edo-period/18182.html">池田屋事件のすべて─新選組はなぜ三条小橋で斬り込んだのか</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/19218.html">水戸城跡：石垣も天守もない御三家の城と、弘道館が動かした幕末</a></li>
</ul>
</div><p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/998.html">萩城跡（指月城）：毛利が百二十万石を失って移った城と、倒幕の司令塔にならなかった理由</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://www.jp-history.info/castle/998.html/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>尾道城：歴史に存在しなかった天守と、廃墟を経て視点場になるまで</title>
		<link>https://www.jp-history.info/castle/931.html</link>
					<comments>https://www.jp-history.info/castle/931.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[Jphistory]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 20 May 2016 01:18:18 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お城・城跡]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[アクセス]]></category>
		<category><![CDATA[ガイド]]></category>
		<category><![CDATA[三層三階]]></category>
		<category><![CDATA[地図]]></category>
		<category><![CDATA[城]]></category>
		<category><![CDATA[場所]]></category>
		<category><![CDATA[尾道]]></category>
		<category><![CDATA[尾道城]]></category>
		<category><![CDATA[尾道市]]></category>
		<category><![CDATA[広島県]]></category>
		<category><![CDATA[日本のお城]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[模擬天守]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://www.jp-history.info/?p=931</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/onomichi-681x1024.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>尾道の坂道を登ると、かつて千光寺山の中腹に白い天守が建っていました。尾道城と呼ばれたその建物は、歴史上の城を再建したものではありません。昭和三十九年に地元の商工会が観光施設として建てた、鉄筋コンクリートの模擬天守です。入 [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/931.html">尾道城：歴史に存在しなかった天守と、廃墟を経て視点場になるまで</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/onomichi-681x1024.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>尾道の坂道を登ると、かつて千光寺山の中腹に白い天守が建っていました。尾道城と呼ばれたその建物は、歴史上の城を再建したものではありません。昭和三十九年に地元の商工会が観光施設として建てた、鉄筋コンクリートの模擬天守です。入館者が減って閉鎖されたあとは長く廃墟のまま残り、近年になって解体され、跡地は展望の場として整えられました。</p>
<div style="background:#f7f5f0;border-left:4px solid #B08520;padding:16px 20px;margin:1.5em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;">この記事のポイント</div>
<ul style="margin:10px 0 0;padding-left:1.2em;">
<li>尾道城という城は歴史上に存在しない</li>
<li>昭和三十九年に商工会が建てた博物館兼展望施設だった</li>
<li>外観は弘前城の天守を手本にしたと伝えられる</li>
<li>閉鎖後は廃墟となり、近年解体されて視点場に生まれ変わった</li>
</ul>
</div>
<h2>尾道城とは：城ではなかった建物</h2>
<p>尾道城が建っていたのは広島県尾道市三軒家町、千光寺公園へ上がる坂の途中です。三層三階の望楼型で、白い壁と黒い屋根が坂の上から尾道水道を見下ろしていました。尾道駅を出て正面の山を仰ぐと目に入る位置にあり、長く町の景色の一部になっていた建物です。</p>
<p>ただし、この建物には城としての由来がありません。中身は全国の城にまつわる資料を集めた博物館で、天守の形はいわば看板でした。同じように、群馬の<a href="https://www.jp-history.info/castle/1676.html">一郷山城</a>も戦国の城跡に平成の天守が建てられた例で、昭和から平成にかけて各地で同じことが起きています。</p>
<p><svg viewBox="0 0 660 338" width="100%" style="max-width:660px;height:auto;display:block;margin:1.5em auto;font-family:sans-serif;"><rect x="0" y="0" width="660" height="338" fill="#fdfcf8" stroke="#e3dccb"/><text x="24" y="34" font-size="17" font-weight="bold" fill="#8a7530">尾道城が建ち、消えるまで</text><line x1="24" y1="48" x2="636" y2="48" stroke="#B08520" stroke-width="2"/><line x1="40" y1="70" x2="40" y2="273" stroke="#e3d6b4" stroke-width="2"/><circle cx="40" cy="93" r="4" fill="#B08520"/><text x="60" y="98" font-size="14" font-weight="bold" fill="#5b6b80">戦国期</text><text x="184" y="98" font-size="14" fill="#3a3630">千光寺山に杉原氏の城が置かれたと伝わる</text><circle cx="40" cy="129" r="4" fill="#B08520"/><text x="60" y="134" font-size="14" font-weight="bold" fill="#5b6b80">昭和三十九年</text><text x="184" y="134" font-size="14" fill="#3a3630">尾道商工会が観光施設として天守を建てる</text><circle cx="40" cy="165" r="4" fill="#B08520"/><text x="60" y="170" font-size="14" font-weight="bold" fill="#5b6b80">平成のはじめ</text><text x="184" y="170" font-size="14" fill="#3a3630">入館者が減り、施設が閉鎖される</text><circle cx="40" cy="201" r="4" fill="#B08520"/><text x="60" y="206" font-size="14" font-weight="bold" fill="#5b6b80">以後</text><text x="184" y="206" font-size="14" fill="#3a3630">手つかずのまま荒れ、廃墟として知られる</text><circle cx="40" cy="237" r="4" fill="#B08520"/><text x="60" y="242" font-size="14" font-weight="bold" fill="#5b6b80">近年</text><text x="184" y="242" font-size="14" fill="#3a3630">市が寄付を受けて解体し、跡地を整備する</text><circle cx="40" cy="273" r="4" fill="#B08520"/><text x="60" y="278" font-size="14" font-weight="bold" fill="#5b6b80">現在</text><text x="184" y="278" font-size="14" fill="#3a3630">千光寺公園の展望の場として生まれ変わる</text></svg></p>
<h2>この天守は何を模していたのか</h2>
<p>観光のための城が建てられた時代がありました。戦後の復興と高度成長のなかで、町のしるしとして天守を建てる動きが全国に広がった時期です。</p>
<div style="border:1px solid #dcd3bd;border-radius:8px;overflow:hidden;margin:1.8em 0;">
<div style="background:#eef1f5;padding:14px 18px;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#5b6b80;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▽ よく語られる話</div>
<p style="margin:0;line-height:1.8;">尾道城は、尾道にあった城の天守を再建したものである。</p>
</div>
<div style="background:#fdf8ec;padding:14px 18px;border-top:3px solid #B08520;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#8a7530;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▼ 史実ではこうです</div>
<p style="margin:0;line-height:1.8;">尾道城という名の城は、どの時代にも存在しませんでした。建物の外観は遠く離れた津軽の<a href="https://www.jp-history.info/castle/850.html">弘前城</a>の天守を手本にしたと伝えられ、尾道の歴史とは関わりがありません。同じ千光寺山には戦国末期に杉原氏の城が置かれたと伝わりますが、場所も性格も別のものです。復元でも再建でもなく、天守の形をした観光施設だったというのが、この建物の正確な説明になります。</p>
</div>
</div>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/onomichi.jpg" alt="尾道城の模擬天守" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">解体される前の姿。坂道の石段を上がった先に白い天守が見えた。尾道駅からも仰ぎ見ることができた。</p>
<h2>尾道にあった本当の城</h2>
<p>では、尾道に城はなかったのかというとそうではありません。千光寺山には戦国末期に杉原氏が城を構えたと伝えられ、山陽道と瀬戸内の海運が交わるこの港町は、押さえるだけの価値がある土地でした。尾道は中世から荘園の年貢を積み出す港として栄え、商人が寺を建て、山の斜面に町が伸びていきます。</p>
<p>戦国期の備後は、<a href="https://www.jp-history.info/castle/4353.html">三原城</a>を築いた<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/561.html">小早川隆景</a>の勢力圏にあたります。関ヶ原ののちに水野勝成が<a href="https://www.jp-history.info/castle/902.html">福山城</a>を築くと、備後の中心はそちらへ移りました。尾道は城下町ではなく、港町として近世を過ごした町です。城がないことのほうが、この町の性格をよく表しています。</p>
<h2>廃墟から、視点場へ</h2>
<p>平成のはじめに施設が閉じられたあと、建物は手入れされないまま残されました。壁は汚れ、窓は割れ、観光地の真ん中に廃墟が立っているという状態が長く続きます。訪れた人の記憶に強く残るのも、むしろこの時期の姿でした。</p>
<p>その後、所有者から市へ寄付が行われ、解体が決まります。工事を経て建物は姿を消し、跡地は千光寺公園の展望の場として整えられました。いまその場所に立つと、さえぎるもののない尾道水道と向島、行き交う渡船が一望できます。天守がなくなったことで、ようやくこの山がもともと持っていた眺めが戻ったことになります。</p>
<h2>尾道城跡・場所とアクセス</h2>
<p>広島県尾道市三軒家町、千光寺公園の一角です。JR尾道駅から歩いて十五分ほど、千光寺山ロープウェイを使えば数分で山頂へ上がれます。跡地の展望施設は自由に入れます。尾道は寺と坂と路地の町で、千光寺や天寧寺の三重塔をめぐりながら歩くのが楽しい場所です。城を訪ねるなら、海を渡って<a href="https://www.jp-history.info/castle/4353.html">三原城</a>や<a href="https://www.jp-history.info/castle/902.html">福山城</a>まで足を延ばすとよいでしょう。</p>
<p><iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d2665.096813324442!2d133.192237348637!3d34.40695391231476!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x3551003565ccbb89%3A0xb0e784ad2e12a661!2z44CSNzIyLTAwMzEg5bqD5bO255yM5bC-6YGT5biC5LiJ6LuS5a6255S677yS77yS4oiS77yS77yZIOWwvumBk-Wfjg!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1463707264311" width="100%" height="450" frameborder="0" style="border:0" allowfullscreen></iframe></p>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/1676.html">一郷山城：山上の天守は平成に建てられた ― 平井城を支えた上野の支城</a><br />こちらも山上に模擬天守が建つ城跡。建物と城跡の関係を確かめてから訪ねたい例です。</p>
</div>
<div style="background:#f7f5f0;border:1px solid #e3dccb;border-radius:8px;padding:16px 20px;margin:2em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:8px;">備後と瀬戸内の城</div>
<ul style="margin:0;padding-left:1.2em;">
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/902.html">福山城跡</a> ― 水野勝成が三年で築いた備後の城</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/4353.html">三原城</a> ― 小早川隆景の瀬戸内の浮城</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/909.html">広島城</a> ― 毛利輝元が築いた西国の大城郭</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/850.html">弘前城</a> ― 尾道城が外観の手本にしたとされる天守</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/1676.html">一郷山城</a> ― 山上に模擬天守が建つ上野の城跡</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/661.html">高松城跡（玉藻公園）</a> ― 海を渡った先の三大水城</li>
</ul>
</div><p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/931.html">尾道城：歴史に存在しなかった天守と、廃墟を経て視点場になるまで</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://www.jp-history.info/castle/931.html/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>広島城：毛利輝元が山を下りて築いた鯉城と、「広島」という名の始まり</title>
		<link>https://www.jp-history.info/castle/909.html</link>
					<comments>https://www.jp-history.info/castle/909.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[Jphistory]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 20 May 2016 00:49:09 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お城・城跡]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本100名城]]></category>
		<category><![CDATA[アクセス]]></category>
		<category><![CDATA[ガイド]]></category>
		<category><![CDATA[地図]]></category>
		<category><![CDATA[城]]></category>
		<category><![CDATA[場所]]></category>
		<category><![CDATA[広島]]></category>
		<category><![CDATA[広島城]]></category>
		<category><![CDATA[日本のお城]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[毛利輝元]]></category>
		<category><![CDATA[浅野家]]></category>
		<category><![CDATA[浅野長晟]]></category>
		<category><![CDATA[福島正則]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://www.jp-history.info/?p=909</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/hiroshima02.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>広島城は毛利輝元が山を下りて築いた城です。太田川の河口に広がる三角州へ本拠を移し、そこにあった村の名を改めて「広島」としました。町の名が城とともに生まれたことになります。輝元は関ヶ原ののちに萩へ移され、代わって福島正則、 [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/909.html">広島城：毛利輝元が山を下りて築いた鯉城と、「広島」という名の始まり</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/hiroshima02.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>広島城は毛利輝元が山を下りて築いた城です。太田川の河口に広がる三角州へ本拠を移し、そこにあった村の名を改めて「広島」としました。町の名が城とともに生まれたことになります。輝元は関ヶ原ののちに萩へ移され、代わって<a href="https://www.busho-zukan.info/tokai/994.html">福島正則</a>、そして浅野氏が入りました。天守は国宝に指定されていましたが、原子爆弾によって崩れ落ちています。</p>
<div style="background:#f7f5f0;border-left:4px solid #B08520;padding:16px 20px;margin:1.5em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;">この記事のポイント</div>
<ul style="margin:10px 0 0;padding-left:1.2em;">
<li>毛利輝元が山城を捨てて三角州に築いた、百十二万石の城</li>
<li>「広島」という地名は、この築城のときに名づけられた</li>
<li>福島正則の改易は、石垣の無断修築が理由とされる</li>
<li>国宝だった天守は原子爆弾で倒れ、のちに外観が再建された</li>
</ul>
</div>
<h2>山を下りた毛利輝元</h2>
<p>毛利氏は<a href="https://www.jp-history.info/castle/4663.html">吉田郡山城</a>という山城を本拠としてきました。元就が<a href="https://www.jp-history.info/castle/1223.html">月山富田城</a>の尼子氏を降し、中国地方の大半を手中に収めたあとも、拠点は山の上のままです。それを改めたのが孫の<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/591.html">毛利輝元</a>でした。豊臣政権に組み込まれ、五大老の一人として政権の中枢に加わるなかで、山城では領国の経営も客の応対も追いつかないと判断したのでしょう。</p>
<p>選ばれたのが太田川の河口に広がる三角州です。海と川の水運を使え、山陽道が通り、広い城下町を置く余地もあります。天正17年（1589年）に普請が始まり、十年ほどで城と町の形が整いました。縄張は大坂城を参考にしたと言われ、<a href="https://www.busho-zukan.info/kinki/960.html">黒田官兵衛</a>が助言したという伝えも残ります。</p>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/hiroshima03.jpg" alt="広島城跡の石碑と石垣" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">城跡を示す石碑と石垣。城域は三角州の低地に広がり、堀には川の水が引き入れられている。</p>
<h2>「広島」という名の生まれた場所</h2>
<p>築城の前、この一帯は五ヶ村などと呼ばれる砂州の集まりでした。輝元が城を築くにあたって新しい名をつけ、それが広島として定着します。名の由来については、広い三角州の島という地形から取ったという説、毛利の祖である大江広元の「広」と、普請に功のあった福島元長の「島」を合わせたという説などが伝えられ、どれが正しいとは決められていません。</p>
<p>城下町は碁盤の目に区切られ、川の分流に沿って舟入が設けられました。町人地と武家地がきれいに分かれ、中国地方最大の都市の骨格がこのときに引かれます。輝元にとっては、山の城で守りを固める時代から、町を経営する時代への切り替えでもありました。</p>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/hiroshima04.jpg" alt="木立ごしに見る広島城の天守" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">木立の向こうに姿を見せる天守。平地の城なので、近づくまで全体が見えない。</p>
<h2>福島正則はなぜ改易されたのか</h2>
<p>関ヶ原で西軍の総大将に担がれた輝元は、戦後に周防と長門の二か国へ大きく減らされ、<a href="https://www.jp-history.info/castle/998.html">萩城跡</a>へ移ります。広島に入ったのは、東軍の先鋒として働いた福島正則でした。ところがその正則も、二十年足らずで領地を失います。</p>
<div style="border:1px solid #dcd3bd;border-radius:8px;overflow:hidden;margin:1.8em 0;">
<div style="background:#eef1f5;padding:14px 18px;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#5b6b80;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▽ よく語られる話</div>
<p style="margin:0;line-height:1.8;">福島正則は幕府に無断で城を改造したため、武家諸法度に背いたとして改易された。</p>
</div>
<div style="background:#fdf8ec;padding:14px 18px;border-top:3px solid #B08520;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#8a7530;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▼ 史実ではこうです</div>
<p style="margin:0;line-height:1.8;">正則が直したのは、洪水で壊れた石垣と建物でした。届け出をめぐるやりとりはあり、幕府から壊すよう命じられた分を十分に壊さなかったことが咎められています。ただ、豊臣恩顧の大名のなかでも最大級の勢力を持つ正則を、幕府が警戒していたことも背景にありました。届け出の不備が処分の理由であることは確かですが、それだけで五十万石が消えたと見るのは話を単純にしすぎでしょう。正則は信濃と越後の四万五千石へ移され、そこで生涯を終えました。</p>
</div>
</div>
<p>代わって入った浅野長晟の家が、十二代にわたって幕末まで広島を治めます。<a href="https://www.jp-history.info/castle/902.html">福山城跡</a>の水野氏とともに、幕府は西国の要をこの二つの城で押さえました。</p>
<h2>浅野家の二百五十年と縮景園</h2>
<p>浅野長晟が広島へ入ったとき、家老としてついてきたのが上田宗箇でした。武将でありながら茶と作庭に通じた人物で、城の東に藩主の別邸の庭を作ります。これが縮景園で、池を中心に山や谷を縮めて配した造りは、宗箇が<a href="https://www.jp-history.info/castle/3759.html">徳島城</a>でも手がけたと伝わる庭と同じ発想でできています。</p>
<p>浅野家は四十二万六千石で十二代、幕末まで広島を治めました。瀬戸内の海運と太田川の舟運を握り、城下は中国地方最大の町として栄えます。幕末には長州征討をめぐって幕府と長州のあいだに立たされ、二度目の出兵では動かずに終わりました。やがて薩摩・長州と結んで新政府の側に立ち、明治を迎えています。</p>
<h2>国宝だった天守と、あの朝</h2>
<p>広島城の天守は五重で、大天守に二つの小天守を渡櫓でつないだ連結式でした。黒い下見板に白い破風という姿は<a href="https://www.jp-history.info/castle/100.html">岡山城</a>とも通じ、豊臣の時代の城らしい重厚さをたたえています。江戸時代を通じて建ち続け、近代になって国宝に指定されました。</p>
<p>明治以降、城内には軍の施設が置かれ、日清戦争のときには大本営が広島に移されて、天皇と政府の中枢が一時ここに滞在しています。城が軍の中心であったことは、のちの出来事と無関係ではありませんでした。</p>
<p>昭和二十年八月六日の朝、原子爆弾の爆風によって天守は崩れ落ちます。城内の建物もほとんどが失われました。いまの天守は戦後に鉄筋で建て直されたもので、内部は歴史博物館になっています。二の丸の表御門と平櫓、多聞櫓、太鼓櫓は木造で復元され、本丸の一角には爆風を受けながら生き残った樹木が立っています。</p>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/hiroshima01.jpg" alt="広島城の天守" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">正面から見た天守。黒い下見板と白い破風の対比が、豊臣期の城の姿を伝えている。</p>
<h2>三角州の城を歩く</h2>
<p>広島城の見どころは、平地の城ならではの水の使い方にあります。内堀には太田川の水が引き込まれ、石垣の足もとまで満ちています。石垣は川の石を使った野面積みが基本で、角では長短の石を組み合わせて立ち上げてあり、時代によって積み方が変わっているのも見比べられます。</p>
<p>二の丸は出入り口の前に張り出した馬出のような構えで、表御門をくぐって平櫓、多聞櫓、太鼓櫓と続く一角は、木の香りのする復元建物のなかを歩けます。本丸には広島護国神社が鎮座し、大本営の跡や被爆樹木の説明板も点在しています。城跡というより、この町が通ってきた時間が層になって置かれている場所です。</p>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/hiroshima05.jpg" alt="広島城の堀と石垣" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">堀に沿って続く石垣と土橋。内堀には太田川から水が引き込まれている。</p>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/237.html">松江城：祈祷札の再発見で国宝になった千鳥城と、堀尾吉晴が下りた宍道湖のほとり</a><br />一枚の札が天守の築年を決めました。地下に井戸をもつ唯一の現存天守です。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/1214.html">鳥取城跡：渇え殺しの前に米を買い占めた秀吉と、天球丸の丸い石垣</a><br />山城と近世城郭が一つの山に重なる城跡。球面に積まれた石垣は国内で唯一です。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/931.html">尾道城：歴史に存在しなかった天守と、廃墟を経て視点場になるまで</a><br />城ではなかった天守。観光のために建てられ、廃墟を経て姿を消しました。</p>
</div>
<div style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#8a7530;letter-spacing:.08em;margin-bottom:4px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> この続きを読む</div>
<p><a href="/blog/24275.html" style="font-weight:bold;">毛利秀元とは：秀長の娘きくを妻にした毛利の跡継ぎ、関ヶ原「宰相殿の空弁当」と長府藩のはじまり</a></p>
<div style="font-size:90%;color:#555;margin-top:4px;">南宮山で一度も戦えなかった毛利勢の大将。その妻は秀長の娘でした。</div>
</div>
<div style="background:#f0f4f8;border:1px solid #d6dde6;border-left:4px solid #5b6b80;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#41506b;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> 姉妹サイト「幕末歴史ガイド」で読む</div>
<p><a style="font-weight:bold;font-size:106%;" href="https://www.bakumatsu.info/all-han/1013.html">広島藩（芸州藩）／浅野家４２万６千石：浅野長訓 軍を京都に送るも鳥羽・伏見の戦いには参戦しなかった広島藩</a></p>
<p>広島城の地を治めた広島藩が、幕末をどう生きたかをまとめています。</p>
</div>
<h2>広島城・場所とアクセス</h2>
<p>広島県広島市中区基町21-1。広島電鉄の紙屋町東または紙屋町西の電停から歩いて十五分ほど、アストラムラインの県庁前や城北の駅からも近い距離です。天守と二の丸の復元建物は有料で、日本100名城のスタンプは天守の入口に置かれています。平和記念公園からは歩いて二十分ほどで、原爆ドームとあわせて歩く人も多い場所です。<a href="https://www.jp-history.info/castle/4663.html">吉田郡山城</a>へは車で一時間、<a href="https://www.jp-history.info/castle/4353.html">三原城</a>や<a href="https://www.jp-history.info/castle/902.html">福山城跡</a>は山陽道を東へ向かえばたどれます。</p>
<p><iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d5022.198310579679!2d132.45626825100803!3d34.401619799619574!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x0000000000000000%3A0xf57be92cb5339632!2z5bqD5bO25Z-O!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1463705307958" width="100%" height="450" frameborder="0" style="border:0" allowfullscreen></iframe></p>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/4663.html">吉田郡山城：毛利元就飛躍の城で広島城へ移転まで毛利家が本拠とした吉田郡山城</a><br />輝元が下りてくる前、毛利氏が本拠としていた山城です。</p>
</div>
<div style="background:#f7f5f0;border:1px solid #e3dccb;border-radius:8px;padding:16px 20px;margin:2em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:8px;">毛利氏と中国地方の城</div>
<ul style="margin:0;padding-left:1.2em;">
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/4663.html">吉田郡山城</a> ― 毛利元就が拠った安芸の山城</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/1223.html">月山富田城跡</a> ― 元就が兵糧攻めで落とした尼子氏の城</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/998.html">萩城跡（指月城）</a> ― 関ヶ原ののち毛利氏が移された城</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/4353.html">三原城</a> ― 小早川隆景の瀬戸内の浮城</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/902.html">福山城跡</a> ― 福島正則の改易のあとに築かれた城</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/100.html">岡山城</a> ― 同じ黒い下見板の城</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/829.html">津山城跡</a> ― 美作に築かれた三段の高石垣の城</li>
</ul>
</div><p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/909.html">広島城：毛利輝元が山を下りて築いた鯉城と、「広島」という名の始まり</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://www.jp-history.info/castle/909.html/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>福山城跡：福島正則の改易のあとに水野勝成が三年で築いた城と、北側だけ鉄板を張った天守</title>
		<link>https://www.jp-history.info/castle/902.html</link>
					<comments>https://www.jp-history.info/castle/902.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[Jphistory]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 20 May 2016 00:40:51 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お城・城跡]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本100名城]]></category>
		<category><![CDATA[アクセス]]></category>
		<category><![CDATA[ガイド]]></category>
		<category><![CDATA[地図]]></category>
		<category><![CDATA[城]]></category>
		<category><![CDATA[場所]]></category>
		<category><![CDATA[徳川家]]></category>
		<category><![CDATA[所在地]]></category>
		<category><![CDATA[日本のお城]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[最後に築城]]></category>
		<category><![CDATA[水野勝成]]></category>
		<category><![CDATA[福山]]></category>
		<category><![CDATA[福山城]]></category>
		<category><![CDATA[譜代大名]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://www.jp-history.info/?p=902</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/hukuyama02.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>福山城は、戦国が完全に終わったあとに築かれた、日本でも最後の時期にあたる近世城郭です。きっかけは福島正則の改易でした。安芸・備後五十万石を取り上げられた正則の跡へ、徳川譜代の水野勝成が備後十万石の領主として入り、三年をか [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/902.html">福山城跡：福島正則の改易のあとに水野勝成が三年で築いた城と、北側だけ鉄板を張った天守</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/hukuyama02.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>福山城は、戦国が完全に終わったあとに築かれた、日本でも最後の時期にあたる近世城郭です。きっかけは<a href="https://www.busho-zukan.info/tokai/994.html">福島正則</a>の改易でした。安芸・備後五十万石を取り上げられた正則の跡へ、徳川譜代の水野勝成が備後十万石の領主として入り、三年をかけてこの城を構えます。十万石の大名がつくる規模をはるかに超えた城で、それは西国の外様大名をここで押さえるという幕府の意図があったからです。しかも建物のいくつかは伏見城から運ばれてきたもので、いま残る伏見櫓と筋鉄御門は国の重要文化財。城跡に立つ石碑には、この城の来歴がきちんと刻まれています。</p>
<div style="background:#f7f5f0;border-left:4px solid #B08520;padding:16px 20px;margin:1.5em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;">この記事のポイント</div>
<ul style="margin:10px 0 0;padding-left:1.2em;">
<li>福島正則の改易を受けて、水野勝成が備後十万石で入り三年で築いた城</li>
<li>伏見櫓と筋鉄御門は伏見城から移されたと伝わり、国の重要文化財</li>
<li>天守の北側の壁には鉄板が張られていた。ほかに例のない造り</li>
<li>城主は水野氏五代・松平氏一代・阿部氏十代と替わった</li>
<li>幕末には長州軍の攻撃を受け、城の一部を失っている</li>
</ul>
</div>
<h2>福島正則の改易と、水野勝成の入封</h2>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/hukuyama04.jpg" alt="福山城跡に立つ史跡指定の石碑" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">城跡に立つ石碑。「史跡 福山城跡」と題し、築城の経緯から現存する建物、歴代の城主まで刻まれている。</p>
<p>写真の石碑にはこう刻まれています。この城は元和五年、福島正則の改易により備後十万石の領主として入封した水野勝成が、三年の歳月を費やし構築した近世の城郭である、と。福島正則は関ヶ原で東軍について安芸・備後を与えられた大名ですが、広島城を無断で修築したことを咎められて領地を失いました。武功で名を上げた者が幕府の法度によって切り捨てられていく、その象徴的な事例です。<a href="https://www.jp-history.info/blog/19188.html">賤ヶ岳の七本槍</a>と呼ばれた男たちのその後を追うと、正則だけが例外でないことがよくわかります。代わって入った水野勝成は、<a href="https://www.busho-zukan.info/kanto/944.html">家康</a>の従兄弟にあたる譜代中の譜代で、父は<a href="https://www.jp-history.info/castle/5615.html">刈谷城</a>の水野忠重。若いころは父と衝突して各地を放浪したという、経歴のおもしろい人物でもあります。その勝成にこの地を任せたということ自体が、幕府が備後をどれほど重く見ていたかの表れでした。</p>
<h2>三年で築かれた、十万石には大きすぎる城</h2>
<p>石碑はこの城の構えについても具体的に書いています。小山を利用した平山城で、東・南・西に堀をめぐらし、北には川を通して天然の防塁とした、と。つまり四方すべてに水の備えがあったわけです。現在は内外の堀が埋められ、三之丸とともに市街地になっていますが、本丸は築城当時の姿をよく伝えていると石碑は記しています。城の縄張そのものは、十万石の大名の居城としては明らかに過大でした。天守は五重、櫓は二十を超え、門も多い。これは福山藩のための城というより、西国へ向けた幕府の城だったからです。同じころ幕府が同じ発想で築かせた<a href="https://www.jp-history.info/castle/2011.html">篠山城</a>とくらべると、片方は京の西の入口、片方は瀬戸内の要衝と、押さえる場所こそ違うものの、考え方はそっくりです。瀬戸内という海の道の重みは、この地で<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/561.html">小早川隆景</a>が<a href="https://www.jp-history.info/castle/4353.html">三原城</a>を築いた時代から変わっていませんでした。</p>
<h2>伏見城から運ばれてきた櫓と門</h2>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/hukuyama10.jpg" alt="福山城の伏見櫓を石垣の下から見上げる" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">石垣の上に載る白壁の櫓。下層の壁は板張りで、格子の窓が並ぶ。手前の坂道から見上げる形になる。</p>
<p>福山城でいちばん価値があるのは、じつは天守ではありません。石碑が重要文化財として名を挙げている伏見櫓と筋鉄御門です。この二つは、京都の伏見城から解体して運ばれてきたものと伝えられています。伏見城は<a href="https://www.busho-zukan.info/tokai/47.html">秀吉</a>が晩年を過ごし、家康が将軍宣下を受けた城でしたが、一国一城令のあとに廃されました。その建物が各地の城へ配られていったわけで、福山城はその受け取り手の一つだったことになります。つまりここには、豊臣から徳川へ天下が移る場面に実際に立っていた建物が、いまも建っている。福山城が空襲で天守を失いながら、それでも城として重い意味を持ち続けているのは、この二棟が焼けずに残ったからです。</p>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/hukuyama03.jpg" alt="福山城の筋鉄御門を内側から見る" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">門をくぐる位置から見た厚い扉。鉄の鋲が打たれ、両側は大きく切りそろえた石で固められている。</p>
<p>筋鉄御門は本丸の正門で、写真のとおり扉に鉄の鋲が打たれています。門の名にある「筋鉄」は、扉の板に鉄の筋金を打ちつけて補強したことから来ていて、燃やされることと破られることの両方に備えた造りです。両脇を大きな切石で固め、通路を狭くして、くぐった先ですぐ折れる。城門の設計としては完成形といっていい形が、ここでそのまま見られます。</p>
<h2>天守の北側だけが黒かった理由</h2>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/hukuyama02.jpg" alt="福山城の復元天守と付櫓" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">五重の天守と、右手に寄り添う小さな櫓。最上階には高欄がめぐらされ、朱色の欄干が見える。</p>
<p>福山城の天守には、ほかの城に例のない特徴がありました。北側の壁に鉄板が張られていたのです。城の南から東にかけては何段もの堀と城下町が広がっていますが、北側は山がすぐ迫っていて、堀を十分に取れなかった。つまりここが唯一の弱点で、しかも高いところから天守を直接狙われる恐れがある。その一面だけを鉄で覆ってしまったわけです。白漆喰の城が、北から見たときだけ黒い壁になっている。見た目の統一より実用を取ったこの判断は、この城が装飾のためではなく本気の備えとして建てられたことを示しています。逆に、天守そのものを必要としないと判断した城もあって、<a href="https://www.jp-history.info/blog/5291.html">仙台六十二万石が天守を建てなかった理由</a>と並べると、この時代の大名が天守をどう見ていたかの幅がわかります。もとの天守は戦災で焼け、いま建っているのは外観を復原したもので、石碑には天守閣・月見櫓・湯殿が昭和四十一年に、鐘櫓が昭和四十九年に復原されたと刻まれています。鉄板張りは長らく再現されていませんでしたが、近年の大がかりな改修で北面によみがえりました。</p>
<h2>水野・松平・阿部 ― 十六代の城主</h2>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/hukuyama01.jpg" alt="木々の向こうに見える福山城の櫓" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">木立の向こうに白い櫓が顔を出す。入母屋の屋根が幾重にも重なり、壁には細い窓が並ぶ。</p>
<p>石碑の末尾には城主が列挙されています。水野氏五代、松平氏一代、阿部氏十代。あわせて十六代がこの城の主でした。築いた水野家は五代で無嗣断絶となり（家を残せるかどうかで大名の運命がどれほど変わるかは、<a href="https://www.jp-history.info/blog/20527.html">改易から大名に戻った仙石秀久</a>の例が示すとおりです）、一時は幕府の直轄地となったあと松平家が短く入り、そのあと阿部家が幕末まで続きます。この阿部家から出たのが阿部正弘です。二十代の若さで老中となり、やがて老中首座としてペリー来航に向き合った人物で、諸大名に広く意見を求めるという前例のない手を打ち、幕末の政治のかたちを変えました。備後十万石の城主が、日本の開国を実務で引き受けたことになります。石高でいえば決して大きくない藩から、時代の分かれ目に立つ人物が出てくる。城主の一覧を眺めると、そういうことが起こりうるのが江戸という時代だったことに気づかされます。</p>
<h2>幕末の福山城</h2>
<p>譜代大名の城であるということは、幕府が倒れるときには敵として狙われるということでもありました。長州との戦いのなかで福山城は長州勢の攻撃を受け、城の一部を失っています。三年をかけて築かれ、二百四十年ものあいだ一度も戦火にさらされなかった城が、最後の最後で戦場になった。築城の目的が「西国を押さえること」だったことを思えば、皮肉な結末です。そしてその西国から来た勢力が新しい政府をつくり、城は不要なものとして多くの建物を失っていきました。それでも伏見櫓と筋鉄御門が残ったのは、幸運としか言いようがありません。<a href="https://www.jp-history.info/blog/17100.html">関ヶ原の戦い</a>で福島正則が得た土地が、水野に移り、阿部に移り、最後は新政府のものになる。この城の二百数十年は、そのまま江戸時代のかたちをなぞっています。</p>
<h2>訪ね方と見どころ</h2>
<p>所在地は広島県福山市丸之内。日本100名城の七十一番です。この城の最大の特徴は、アクセスが日本一よいこと。JR福山駅の新幹線ホームから石垣と櫓が見えていて、改札を出て歩き出せばもう城内です。新幹線の窓から城が見える駅は、ほかにありません。見る順番としては、まず駅側から石垣を見上げ、筋鉄御門をくぐって本丸へ。天守に上がって展示を見たら、忘れずに天守の北側へ回ってください。鉄板が張られた面がそこにあります。それから伏見櫓を間近で見る。四百年前の伏見城の建物がそのまま立っているのだと思って眺めると、同じ板壁が違って見えてきます。城跡は公園として開かれていて、桜の季節には人が集まります。<a href="https://www.jp-history.info/category/castle/japan-100-castle">日本100名城の一覧</a>もあわせてどうぞ。</p>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/1688.html">岩国城跡：完成から七年で壊された南蛮造りの天守と、幕末まで藩と認められなかった吉川家</a><br />関ヶ原での一つの判断が、二百五十年にわたって尾を引いた城の話です。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/1208.html">平戸城：松浦鎮信が自ら焼いた城と、九十年後に山鹿素行の縄張で建て直された海の城</a><br />完成間際の城を藩主が自分で焼いた。その理由と、九十年後の再築の話です。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/1160.html">大分府内城：海際に築かれた白雉城と、竹中半兵衛の従弟・竹中重利が整えた縄張</a><br />荷落を荷揚へ改めた港の城。天守は焼けましたが、櫓は江戸のまま残っています。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/1294.html">大洲城：古写真とひな型模型が支えた木造復元天守と、江戸のまま残る台所櫓・高欄櫓</a><br />鉄筋ではなく木で建て直せたのはなぜか。資料と制度の両方がそろった例です。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/998.html">萩城跡（指月城）：毛利が百二十万石を失って移った城と、倒幕の司令塔にならなかった理由</a><br />正月に倒幕の可否を問う儀式が二百五十年続いた、という話を検証しています。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/885.html">伊予松山城：連立式の本壇と二十一棟の重要文化財、現存十二天守でいちばん新しい天守</a><br />現存天守ではあるけれど、築城当初のものではありません。その経緯を追いました。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/715.html">島原城：四万石が築いた十万石の城と、大名でただ一人斬首された松倉勝家</a><br />城の壮麗さと島原の乱は、まっすぐつながっています。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/100.html">岡山城：宇喜多秀家が旭川を付け替えて築いた烏城と、不等辺五角形の天守台</a><br />川を動かしてまで築かれた黒い城。梟雄と呼ばれた宇喜多直家の実像にも触れています。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/829.html">津山城跡（鶴山公園）：森蘭丸の弟が十三年かけて築いた城と、七十七の櫓</a><br />丘ごと石垣で固めた三段の高石垣。櫓の数は姫路城を上回りました。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/909.html">広島城：毛利輝元が山を下りて築いた鯉城と、「広島」という名の始まり</a><br />町の名が城とともに生まれた三角州の城。福島正則改易のいきさつも扱っています。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/931.html">尾道城：歴史に存在しなかった天守と、廃墟を経て視点場になるまで</a><br />城ではなかった天守。観光のために建てられ、廃墟を経て姿を消しました。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/1660.html">伏見桃山城：あの天守は昭和の建物 ― 秀吉の最後の城と、鳥居元忠の十三日</a><br />秀吉が最期を迎え、徳川三代が将軍宣下を受けた城。天守の来歴には注意が要ります。</p>
</div>
<h2>福山城跡・場所とアクセス</h2>
<p>〒720-0061 広島県福山市丸之内1-8</p>
<p><iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d3288.4698777585786!2d133.35875401499865!3d34.49097020192986!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x0000000000000000%3A0x28298d57b2d4f3a7!2z56aP5bGx5Z-O!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1463705018136" width="100%" height="450" frameborder="0" style="border:0" allowfullscreen></iframe></p>
<div class="jph-related" style="background:#f7f5f0;border:1px solid #e3dccb;border-radius:8px;padding:16px 20px;margin:2em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:8px;">あわせて読みたい</div>
<ul style="margin:0;padding-left:1.2em;">
<li><a href="https://www.jp-history.info/blog/19188.html">賤ヶ岳の七本槍とは：七人のその後と、秀吉が英雄をつくった理由</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/5615.html">刈谷城：家康の生母於大の方の実家で水野信元・忠重が城主だった城</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/4353.html">三原城：小早川隆景が築城した瀬戸内海の浮城</a></li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/2011.html">篠山城跡：藤堂高虎が六か月で仕上げた三つの馬出と、ついに建たなかった天守</a></li>
</ul>
</div><p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/902.html">福山城跡：福島正則の改易のあとに水野勝成が三年で築いた城と、北側だけ鉄板を張った天守</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://www.jp-history.info/castle/902.html/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>津山城跡（鶴山公園）：森蘭丸の弟が十三年かけて築いた城と、七十七の櫓</title>
		<link>https://www.jp-history.info/castle/829.html</link>
					<comments>https://www.jp-history.info/castle/829.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[Jphistory]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 17 May 2016 07:35:51 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お城・城跡]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本100名城]]></category>
		<category><![CDATA[アクセス]]></category>
		<category><![CDATA[ガイド]]></category>
		<category><![CDATA[力丸]]></category>
		<category><![CDATA[地図]]></category>
		<category><![CDATA[坊丸]]></category>
		<category><![CDATA[城]]></category>
		<category><![CDATA[場所]]></category>
		<category><![CDATA[小姓]]></category>
		<category><![CDATA[日本のお城]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[森３兄弟]]></category>
		<category><![CDATA[森忠政]]></category>
		<category><![CDATA[津山]]></category>
		<category><![CDATA[津山城]]></category>
		<category><![CDATA[織田信長]]></category>
		<category><![CDATA[蘭丸]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://www.jp-history.info/?p=829</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/tsuyama01.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>津山城跡は鶴山という小高い丘の全体を石垣で固めた城です。天守も櫓もすべて明治に取り壊されましたが、段々に積み上げられた石垣はそっくり残り、麓から見上げると壁が何段も重なって迫ってきます。記録によれば櫓は七十を超え、その数 [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/829.html">津山城跡（鶴山公園）：森蘭丸の弟が十三年かけて築いた城と、七十七の櫓</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/tsuyama01.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>津山城跡は鶴山という小高い丘の全体を石垣で固めた城です。天守も櫓もすべて明治に取り壊されましたが、段々に積み上げられた石垣はそっくり残り、麓から見上げると壁が何段も重なって迫ってきます。記録によれば櫓は七十を超え、その数は姫路城を上回りました。築いたのは<a href="https://www.busho-zukan.info/tokai/354.html" target="_blank" rel="noopener noreferrer">森可成</a>の末子、本能寺で三人の兄を失った森忠政です。</p>
<div style="background:#f7f5f0;border-left:4px solid #B08520;padding:16px 20px;margin:1.5em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;">この記事のポイント</div>
<ul style="margin:10px 0 0;padding-left:1.2em;">
<li>森蘭丸の弟、森忠政が十三年かけて築いた美作十八万石の城</li>
<li>丘全体を石垣で固め、櫓の数は七十を超えたと記録される</li>
<li>天守は破風を持たない層塔型で、装飾より合理を選んだ姿だった</li>
<li>建物はすべて明治に取り壊され、いまは備中櫓が復元されている</li>
</ul>
</div>
<h2>津山城とは：丘ごと石垣で固めた平山城</h2>
<p>津山城は岡山県津山市の中心、吉井川に臨む鶴山に築かれています。丘の頂に本丸、一段下に二の丸、さらに下に三の丸を置き、それぞれを高い石垣で囲む造りで、下から見ると石垣が三段の壁になって立ちはだかります。高さは麓から本丸まで四十メートルを超え、<a href="https://www.jp-history.info/castle/243.html">姫路城</a>や<a href="https://www.jp-history.info/castle/885.html">伊予松山城</a>とならんで日本三大平山城に数えられてきました。</p>
<p>建物は残っていません。それでも城跡を歩く価値があるのは、石垣の配置そのものが城の設計図として読めるからです。どこに櫓が建ち、どこで道が折れ、どこから横矢が掛かるのかが、石の線を追うだけでわかります。</p>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/tsuyamajo02.jpg" alt="津山城の備中櫓と本丸" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">本丸に復元された備中櫓。築城四百年を機に木造で建て直され、内部を見学できる。</p>
<h2>森忠政、三人の兄を失った末子</h2>
<p>森家は<a href="https://www.jp-history.info/castle/5803.html">兼山城（美濃金山城）</a>を本拠とした一族で、当主の森可成は<a href="https://www.busho-zukan.info/tokai/32.html">織田信長</a>の重臣として姉川の戦いののち宇佐山で討ち死にしました。長男の可隆も早くに戦死し、次男の蘭丸と、坊丸・力丸の兄弟は本能寺で信長とともに果てます。残されたのが末子の忠政でした。</p>
<p>忠政は信濃川中島を経て、慶長8年（1603年）に美作十八万六千石余りを与えられます。当初は院庄のあたりに城を構えようとしましたが、鶴山のほうが地の利に勝ると見て計画を改め、翌年から普請を始めました。城が完成したのは元和2年（1616年）で、十三年におよぶ大工事です。あわせて城下町も整えられ、出雲街道の宿場と吉井川の水運を結ぶ町がつくられました。</p>
<h2>破風のない天守は地味だったのか</h2>
<p>津山城の天守は五重で、絵図や古写真から姿がよくわかっています。特徴は、屋根に飾りの破風がほとんどなかったことです。</p>
<div style="border:1px solid #dcd3bd;border-radius:8px;overflow:hidden;margin:1.8em 0;">
<div style="background:#eef1f5;padding:14px 18px;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#5b6b80;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▽ よく語られる話</div>
<p style="margin:0;line-height:1.8;">津山城の天守は破風もなく飾り気がない、見栄えのしない地味な天守だった。</p>
</div>
<div style="background:#fdf8ec;padding:14px 18px;border-top:3px solid #B08520;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#8a7530;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▼ 史実ではこうです</div>
<p style="margin:0;line-height:1.8;">破風がないのは、階を規則的に積み上げていく層塔型という新しい形式を選んだからです。同じころ藤堂高虎らが手がけた天守にも同じ考え方が見られ、工期と費用を抑えながら高さを出せる合理的な設計でした。しかも城全体で見れば櫓は七十を超え、門も数多く構えられています。天守一棟の装飾ではなく、丘全体に建物を並べることで格式を示した城だったと見るほうが実情に近いでしょう。</p>
</div>
</div>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/tsuyama07.jpg" alt="津山城の高石垣と石段" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">三段に積まれた石垣のあいだを縫って石段が上がる。建物がなくても、道の折れ方から守りの意図が読み取れる。</p>
<h2>櫓の数が語るもの</h2>
<p>江戸時代の絵図や書上には、津山城の櫓の数がはっきり記されています。その数はおよそ七十七棟。<a href="https://www.jp-history.info/castle/243.html">姫路城</a>が六十棟あまりとされることを考えると、規模の大きさが際立ちます。門も数多く、丘の斜面のあちこちで道が折れ、そのたびに櫓から横合いを狙える仕組みでした。</p>
<p>ではなぜ、美作十八万石の城にこれほどの構えが必要だったのでしょうか。美作は山陰と山陽をつなぐ位置にあり、出雲街道が町を貫いています。西には毛利の旧領、北には出雲、東には播磨。関ヶ原のあと、幕府が西国の大名をにらむうえでこの盆地は重要な結節点でした。忠政に与えられた仕事は領地の経営だけでなく、この道を押さえることでもあったわけです。</p>
<h2>城下町と吉井川</h2>
<p>忠政は城を築くのと並行して町をつくりました。城の東西に武家地を置き、出雲街道沿いに商人と職人の町を並べ、吉井川の河原に舟着き場を設けています。この川は下って岡山へ、さらに瀬戸内へつながる道で、美作の米や木材、鉄が運ばれました。中国山地では古くからたたら製鉄が行われており、その鉄も川を下っています。</p>
<p>町の骨格はいまも残っていて、城の東側には出雲街道に沿った城東の町並みが、西側には城西の寺町が続きます。白壁となまこ壁の家が並ぶ通りを歩けば、城が町とひとつづきに設計されていたことが体感できます。</p>
<h2>森家の改易と、松平家の二百年</h2>
<p>森家は忠政のあと四代続きましたが、元禄の世に当主が跡継ぎを残さないまま没し、改易となりました。一族は別家として存続しますが、津山の城は幕府に召し上げられます。その後に入ったのが、<a href="https://www.busho-zukan.info/hokuriku/6048.html">結城秀康</a>の流れをくむ松平宣富で、以後、津山松平家が幕末まで城主をつとめました。</p>
<p>石高は森家の十八万六千石から松平家は十万石へと下がり、のちにさらに削られた時期もあります。それでも城の規模はそのままで、藩は維持費に苦しみながら櫓と塀を守り続けました。幕末には洋学者の箕作阮甫を輩出し、蘭学の土壌が育った町でもあります。</p>
<h2>すべて壊された城と、よみがえった備中櫓</h2>
<p>明治の廃城令によって、津山城の建物は天守も櫓も門も、ひとつ残らず取り壊されました。売却されて解体された建物も多く、城山には石垣だけが残ります。城跡は鶴山公園として開かれ、桜が植えられて花の名所になりました。いまでは千本を超える桜が石垣を縁取り、春には石の壁が薄紅色に包まれます。</p>
<p>築城四百年を機に復元されたのが備中櫓です。本丸の南西に建つこの櫓は、内部がすべて畳敷きで天井も張られており、櫓というより御殿に近いつくりでした。藩主の生活の場として使われていたことが、発掘と絵図の調査でわかっています。名は忠政の娘婿にあたる池田備中守長幸に由来すると伝えられます。</p>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/tsuyamajo03.jpg" alt="見上げた津山城の備中櫓" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">石垣の上にそびえる備中櫓。内部は畳敷きで、櫓というより御殿に近い造りだった。</p>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/947.html">赤穂城跡：軍学が形にした折れ曲がる堀と、刃傷から討ち入りまでの城</a><br />山鹿素行の軍学が縄張に写し取られた城。一度も戦いを経験しませんでした。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/1714.html">上月城跡（佐用町）：三国境の城と、救援が来なかった尼子再興軍の最後</a><br />山中鹿介の再興運動が終わった城。境目の城の宿命が見えてきます。</p>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p><a href="https://www.jp-history.info/castle/5516.html">沼城跡（亀山城・岡山市）：宇喜多直家の十五年と、中国大返しが休んだ城</a></div>
<div style="background:#f0f4f8;border:1px solid #d6dde6;border-left:4px solid #5b6b80;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#41506b;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> 姉妹サイト「幕末歴史ガイド」で読む</div>
<p><a style="font-weight:bold;font-size:106%;" href="https://www.bakumatsu.info/all-han/969.html">津山藩／松平家１０万石：松平慶倫 幕末時は尊皇攘夷派を排斥したが無事に戊辰戦争を乗り切った津山藩</a></p>
<p>津山城の地を治めた津山藩が、幕末をどう生きたかをまとめています。</p>
<p><a style="font-weight:bold;font-size:106%;" href="https://www.bakumatsu.info/bakumatsu-blog/9249.html">【現地取材】日本三大平山城・津山城を歩く—尊皇攘夷派を抑え無事に幕末を乗り切った津山藩</a></p>
<p>運営者が実際に現地を歩いた、写真つきの記録です。</p>
</div>
<h2>津山城跡（鶴山公園）・場所とアクセス</h2>
<div class="jp-tripbox" style="border:1px solid #c9a227;border-radius:6px;background:#faf7ef;padding:clamp(16px,4vw,24px);margin:28px 0;">
<p style="margin:0;line-height:1.95;"><span style="display:inline-block;font-size:11px;letter-spacing:.12em;color:#9a7b16;border:1px solid #c9a227;border-radius:3px;padding:2px 9px;margin-bottom:10px;">旅の計画に</span><br /><strong style="font-size:clamp(17px,3.6vw,21px);color:#3a3226;">ここを歩くコースがあります</strong><br /><span style="font-size:.88em;color:#6b6252;">姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」に、行程・所要時間・駐車場までまとめた実走コースがあります。</span><br /><a href="https://history-trip.info/hyogo/1824.html?utm_source=jp-history&#038;utm_medium=referral&#038;utm_campaign=trip" style="font-weight:700;color:#2a5d8f;text-decoration:none;">国宝姫路城と天空の城・竹田城 ― 生野銀山・生野義挙碑、津山城、赤穂城・大石神社から</a><span style="color:#8b8375;font-size:.86em;">（2泊3日）</span></p>
</div>
<p>岡山県津山市山下135。JR津山駅から歩いて十分ほど、吉井川を渡ればすぐ城山の下に出ます。公園は有料で、備中櫓も同じ券で見学できます。日本100名城のスタンプは備中櫓の受付に置かれています。桜の時期は夜間も開園し、石垣がライトアップされます。<a href="https://www.jp-history.info/castle/100.html">岡山城</a>とは車で一時間ほど、<a href="https://www.jp-history.info/castle/57.html">竹田城跡</a>へも山を越えて行ける距離です。</p>
<p><iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d2644.026637777645!2d134.00410399065637!3d35.06287298897467!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x0000000000000000%3A0x0b1de4b666549c7d!2z5rSl5bGx5Z-O6Leh!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1463470398165" width="100%" height="450" frameborder="0" style="border:0" allowfullscreen></iframe></p>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/05/tsuyama01.jpg" alt="津山城の復元イメージ" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">建ち並んでいたころの姿を描いた復元イメージ。天守を頂に、段ごとに櫓と塀が連なっていた（写真ではなく復元図です）。</p>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/5803.html">兼山城（美濃金山城）：織田信長の重臣森可成の居城で蘭丸・坊丸・力丸が生まれた兼山城</a><br />津山城を築いた森忠政が生まれた、美濃の森家の城です。</p>
</div>
<div style="background:#f7f5f0;border:1px solid #e3dccb;border-radius:8px;padding:16px 20px;margin:2em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:8px;">中国地方と森家ゆかりの城</div>
<ul style="margin:0;padding-left:1.2em;">
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/5803.html">兼山城（美濃金山城）</a> ― 森可成と蘭丸たちの城</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/100.html">岡山城</a> ― 旭川を付け替えて築かれた烏城</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/243.html">姫路城</a> ― 三大平山城のひとつ</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/885.html">伊予松山城</a> ― 三大平山城のひとつ</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/57.html">竹田城跡</a> ― 山陰へ抜ける道を押さえた総石垣の城</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/909.html">広島城</a> ― 毛利輝元が築いた西国の大城郭</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/902.html">福山城跡</a> ― 備後に築かれた水野勝成の城</li>
</ul>
</div><p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/829.html">津山城跡（鶴山公園）：森蘭丸の弟が十三年かけて築いた城と、七十七の櫓</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://www.jp-history.info/castle/829.html/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>松江城：祈祷札の再発見で国宝になった千鳥城と、堀尾吉晴が下りた宍道湖のほとり</title>
		<link>https://www.jp-history.info/castle/237.html</link>
					<comments>https://www.jp-history.info/castle/237.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[Jphistory]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 26 Apr 2016 04:07:49 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お城・城跡]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[国宝天守]]></category>
		<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本100名城]]></category>
		<category><![CDATA[現存天守]]></category>
		<category><![CDATA[アクセス]]></category>
		<category><![CDATA[マップ]]></category>
		<category><![CDATA[京極氏]]></category>
		<category><![CDATA[城]]></category>
		<category><![CDATA[堀尾吉晴]]></category>
		<category><![CDATA[場所]]></category>
		<category><![CDATA[山陰地方]]></category>
		<category><![CDATA[所在地]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<category><![CDATA[松平氏]]></category>
		<category><![CDATA[松江]]></category>
		<category><![CDATA[松江城]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://www.jp-history.info/?p=237</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/04/matsue-02.jpeg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>松江城は宍道湖のほとりに建つ現存天守で、黒い下見板に覆われた重厚な姿から千鳥城とも呼ばれます。堀尾吉晴が月山富田城の山を下りて築いた城で、以後、京極氏、松平氏と受け継がれました。長く重要文化財だった天守が国宝に指定された [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/237.html">松江城：祈祷札の再発見で国宝になった千鳥城と、堀尾吉晴が下りた宍道湖のほとり</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/04/matsue-02.jpeg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>松江城は宍道湖のほとりに建つ現存天守で、黒い下見板に覆われた重厚な姿から千鳥城とも呼ばれます。堀尾吉晴が<a href="https://www.jp-history.info/castle/1223.html">月山富田城</a>の山を下りて築いた城で、以後、京極氏、松平氏と受け継がれました。長く重要文化財だった天守が国宝に指定されたのは近年のことで、その決め手になったのは一枚の古い札でした。</p>
<div style="background:#f7f5f0;border-left:4px solid #B08520;padding:16px 20px;margin:1.5em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;">この記事のポイント</div>
<ul style="margin:10px 0 0;padding-left:1.2em;">
<li>堀尾吉晴が山城を捨て、宍道湖のほとりに築いた出雲の城</li>
<li>現存十二天守のひとつで、地下に井戸をもつ唯一の天守</li>
<li>祈祷札の再発見で築年が確定し、国宝に指定された</li>
<li>廃城令のとき、地元の人々が私財を投じて天守を買い戻した</li>
</ul>
</div>
<h2>松江城とは：宍道湖のほとりに開かれた城下町</h2>
<p>松江城は島根県松江市殿町、亀田山という小高い丘の上にあります。北に宍道湖、東に中海が広がり、その間を大橋川が結ぶという水に囲まれた土地で、堀にはその水が引き込まれています。城のまわりをめぐる堀は今もほぼ完全な形で残り、船で一周できるのはこの城ならではです。</p>
<p>天守は四重五階、地下一階。外観は黒い下見板に覆われ、装飾の少ない実戦的な姿をしています。屋根に載る千鳥破風が羽を広げた鳥を思わせることから千鳥城と呼ばれてきました。<a href="https://www.jp-history.info/castle/41.html">松本城</a>や<a href="https://www.jp-history.info/castle/75.html">犬山城</a>と同じく、大きな入母屋の上に望楼を載せる古い形式です。</p>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/04/matsue-03.jpeg" alt="松江城の大手前の広場と石垣" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">大手の広場から見る石垣と櫓。城域は堀に囲まれ、いまも水がめぐっています。</p>
<h2>堀尾吉晴と、五年の普請</h2>
<p>関ヶ原ののち出雲と隠岐を与えられた<a href="https://www.busho-zukan.info/tokai/966.html">堀尾吉晴</a>と子の<a href="https://www.busho-zukan.info/tokai/968.html">忠氏</a>は、まず月山富田城に入りました。ところが山の上の城では城下を広げられず、政務にも不便です。父子は新しい城地を探し、宍道湖に臨む亀田山を選びました。忠氏が先に世を去ったため、普請を指揮したのは老齢の吉晴です。慶長12年（1607年）に始まった工事は五年ほどで仕上がりました。</p>
<h3>なぜ天守は黒いのか｜完成を急いだ吉晴</h3>
<p>松江城の天守は、壁の大部分が黒い下見板張りで覆われています。白い漆喰の壁は、塗っては乾かすことを何度も繰り返さなければならず、仕上がるまでに長い時間がかかります。これに対して板を張る黒い壁は、はるかに早く仕上げることができました。吉晴が完成を急いだ背景には、跡継ぎと頼んだ忠氏が慶長九年（1604年）に二十八歳の若さで急死したことがあったと考えられています。残されたのは幼い孫の忠晴で、老いた吉晴は、自分が生きているうちに孫のための城を仕上げなければなりませんでした。天守の完成を祈る祈祷札には慶長十六年（1611年）正月の年号が記されていますが、吉晴はその年の六月、城の完成からおよそ半年で世を去ります。黒い天守は、息子を失った父が孫に遺した城でもあったのです。吉晴の生涯は<a href="https://www.jp-history.info/blog/2216.html">堀尾吉晴：戦に明け暮れた生涯</a>をご覧ください。</p>
<p>ところが堀尾氏は三代で跡継ぎを失って断絶し、次に入った京極忠高も一代で絶えます。三度目に入ったのが、<a href="https://www.busho-zukan.info/hokuriku/6048.html">結城秀康</a>の子で<a href="https://www.busho-zukan.info/kanto/944.html">徳川家康</a>の孫にあたる松平直政でした。以後、松平家が十代にわたって明治まで松江を治めます。七代の治郷は不昧の号で知られる茶人で、この時期に松江の菓子と茶の文化が育ちました。</p>
<h2>国宝になるまでに何があったのか</h2>
<p>現存十二天守のうち、国宝に指定されているのは五つです。松江城はそのなかで最も遅く国宝になりました。理由は、天守がいつ建てられたのかを示す確かな証拠が長らく見つからなかったことにあります。</p>
<div style="border:1px solid #dcd3bd;border-radius:8px;overflow:hidden;margin:1.8em 0;">
<div style="background:#eef1f5;padding:14px 18px;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#5b6b80;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▽ よく語られる話</div>
<p style="margin:0;line-height:1.8;">現存天守なのだから、松江城の天守はずっと国宝だったはずです。</p>
</div>
<div style="background:#fdf8ec;padding:14px 18px;border-top:3px solid #B08520;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#8a7530;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▼ 史実ではこうです</div>
<p style="margin:0;line-height:1.8;">戦前には国宝でしたが、戦後の法改正で重要文化財という扱いに変わりました。ほかの天守が国宝へ戻っていくなかで松江城が残されたのは、築造の年代を裏づける史料が欠けていたためです。手がかりになったのは、城の完成を祈って打ちつけられた祈祷札でした。慶長十六年の年号が入ったこの札が松江神社で見つかり、天守の地下の柱に残る釘穴の位置と大きさがぴたりと合ったことで、建築年代が確定します。地元の研究者が長年探し続けた成果で、平成二十七年に国宝に指定されました。</p>
</div>
</div>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/04/matsue-05.jpg" alt="松江城の天守" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">黒い下見板に覆われた天守。屋根に載る千鳥破風が羽を広げた鳥を思わせ、千鳥城の名がつきました。</p>
<h2>天守を支える工夫</h2>
<p>松江城の天守には、見学するとすぐ気づく特徴がいくつもあります。ひとつは地下に井戸があること。籠城したときに水を得るための備えで、現存する天守のなかではここだけです。もうひとつは柱に板を巻いて金輪で締めた包板という手法で、太い良材が足りないなかで強度を確保するための工夫でした。三百本を超える柱のうち、かなりの数にこの処理がほどこされています。</p>
<p>階と階をつなぐ通し柱の使い方も独特で、二階分ずつを一本の柱で貫き、それを互い違いに積み上げていく構造になっています。長い材を上まで通さずに高さを出せるため、材の調達が楽になります。実際に上ってみると、階段の段差の大きさや床の板の厚みから、この建物が見せるためではなく使うために建てられたことが伝わってきます。</p>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/04/matsue-04.jpeg" alt="松江城跡の石碑" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">城跡を示す石碑。木立の下に静かに立っています。</p>
<h2>取り壊されかけた天守を救った人たち</h2>
<p>明治の廃城令によって、松江城の建物も次々と売り払われました。天守も競売にかけられ、解体して材木として売られる寸前まで進みます。これを止めたのが、地元の豪農だった勝部本右衛門と、元藩士の高城権八らでした。私財を投じて天守を買い戻し、保存にこぎつけます。</p>
<p>もし彼らが動かなければ、現存十二天守は十一になっていました。城跡には後年、その働きを伝える碑が建てられています。国宝の指定を伝える知らせが松江に届いたとき、真っ先に喜ばれたのはこの人たちの名だったといいます。</p>
<h2>堀をめぐる船と、城下の町</h2>
<p>松江城のもうひとつの魅力は、城を守った内堀と外堀がほとんど埋められずに残っていることです。堀尾吉晴が城と城下町を築いたときに掘られたこの堀を、屋根つきの小舟でめぐるのが「ぐるっと松江堀川めぐり」です。約五十分かけて城のまわりを一周し、途中で十七もの橋の下をくぐります。橋のなかには高さの低いものがあり、そのたびに船の屋根が下がって、乗っている人も身をかがめてくぐり抜けます。冬の間はすべての船がこたつ船になり、雪の城を水面から眺める人も少なくありません。</p>
<p>水面から見上げると、陸を歩いているときには気づきにくい城の守りが見えてきます。堀に沿って高い石垣が続き、その上の塀や櫓には、鉄砲を撃つための「鉄砲狭間（てっぽうざま）」と、弓を射るための「矢狭間（やざま）」が並んでいます。丸や三角の小さな穴は外からは狙いにくく、内側からは堀を渡ろうとする敵を狙い撃てるように開けられたものです。狭間だけではありません。塀の内側には板の足場が設けられ、兵はその上に乗って塀の上から上半身を乗り出し、鉄砲や弓で真下の敵を撃つこともできました。堀と石垣と狭間をひと続きの仕組みとして見られるのは、船ならではの楽しみです。</p>
<p>北側の塩見縄手には武家屋敷が残り、松江に暮らした文学者の小泉八雲の旧居と記念館が並んでいます。城と堀と屋敷町がひとつづきに残っている町並みは全国でも数が限られており、城跡だけを見て帰るのはもったいない場所です。</p>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p><a href="https://www.jp-history.info/castle/4545.html">浜田城跡（浜田市）：城を焼いたのは長州軍ではない ― 石州口の戦いと自焼退城</a></div>
<div style="background:#f0f4f8;border:1px solid #d6dde6;border-left:4px solid #5b6b80;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#41506b;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> 姉妹サイト「幕末歴史ガイド」で読む</div>
<p><a style="font-weight:bold;font-size:106%;" href="https://www.bakumatsu.info/all-han/961.html">松江藩／松平家１８万６千石：松平定安 ご親藩のため藩論が割れたが結局は新政府軍に従った松江藩</a></p>
<p>松江城の地を治めた松江藩が、幕末をどう生きたかをまとめています。</p>
</div>
<h2>松江城・場所とアクセス</h2>
<p>島根県松江市殿町1-5。JR松江駅からバスで十分ほど、県庁前で降りればすぐです。天守は有料で、日本100名城のスタンプは天守内の受付に置かれています。<a href="https://www.jp-history.info/castle/1223.html">月山富田城跡</a>へは車で四十分ほど、<a href="https://www.jp-history.info/castle/1214.html">鳥取城</a>や<a href="https://www.jp-history.info/castle/909.html">広島城</a>とあわせれば、山陰から山陽への流れをたどれます。出雲大社や足立美術館とも組み合わせやすい立地です。</p>
<p><iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d3249.1853866061915!2d133.04818460492825!3d35.47495675126018!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x35570505c6fbc5d5%3A0x68b13c010b978ce0!2z44CSNjkwLTA4ODcg5bO25qC555yM5p2-5rGf5biC5q6_55S677yR4oiS77yV!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1461643257869" width="100%" height="450" frameborder="0" style="border:0" allowfullscreen></iframe></p>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/04/matsue-02.jpeg" alt="松江城の天守を見上げる" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">見上げた天守。最上階には高欄をめぐらせた望楼があり、宍道湖まで見渡せます。</p>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/1223.html">月山富田城跡（安来市）：大内を退けた城が毛利に落ちた理由と、七曲りの登城路</a><br />堀尾吉晴が松江へ移る前に入った山城。山を下りた理由がよくわかります。</p>
</div>
<div style="background:#f7f5f0;border:1px solid #e3dccb;border-radius:8px;padding:16px 20px;margin:2em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:8px;">現存天守と山陰の城</div>
<ul style="margin:0;padding-left:1.2em;">
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/1223.html">月山富田城跡</a> ― 堀尾氏が最初に入った尼子氏の山城</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/1214.html">鳥取城</a> ― 因幡の山城と久松山の石垣</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/41.html">松本城（深志城）</a> ― 同じ望楼型の国宝天守</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/75.html">犬山城</a> ― 木曽川を見下ろす国宝天守</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/793.html">丸岡城</a> ― 石の瓦を戴く現存天守</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/150.html">丸亀城</a> ― 現存十二天守でいちばん小さい天守</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/909.html">広島城</a> ― 同じ黒い下見板の城</li>
</ul>
</div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p><a href="https://www.jp-history.info/castle/5988.html">八幡山城：十八歳の豊臣秀次が築いた城と、琵琶湖につながる八幡堀</a><br /><span style="font-size:93%;color:#6b6355;">秀次が近江八幡に開いた城と町。金箔瓦の居館跡と、舟でめぐれる八幡堀。</span></div>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p><a href="https://www.jp-history.info/blog/22126.html">越前松平家はなぜ二度も改易されたのか：松平忠直と光長</a><br /><span style="font-size:93%;color:#6b6355;">結城秀康の子と孫。大坂の陣の大手柄から豊後への配流、越後騒動での改易まで。</span></div><p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/237.html">松江城：祈祷札の再発見で国宝になった千鳥城と、堀尾吉晴が下りた宍道湖のほとり</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://www.jp-history.info/castle/237.html/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
		<item>
		<title>岡山城：宇喜多秀家が旭川を付け替えて築いた烏城と、不等辺五角形の天守台</title>
		<link>https://www.jp-history.info/castle/100.html</link>
					<comments>https://www.jp-history.info/castle/100.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[Jphistory]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 22 Apr 2016 07:47:25 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[お城・城跡]]></category>
		<category><![CDATA[中国]]></category>
		<category><![CDATA[戦国時代]]></category>
		<category><![CDATA[日本100名城]]></category>
		<category><![CDATA[アクセス]]></category>
		<category><![CDATA[お城]]></category>
		<category><![CDATA[マップ]]></category>
		<category><![CDATA[乱世の梟雄]]></category>
		<category><![CDATA[偕楽園]]></category>
		<category><![CDATA[城]]></category>
		<category><![CDATA[場所]]></category>
		<category><![CDATA[宇喜多直家]]></category>
		<category><![CDATA[宇喜多秀家]]></category>
		<category><![CDATA[岡山城]]></category>
		<category><![CDATA[所在地]]></category>
		<category><![CDATA[日本の歴史]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://www.jp-history.info/?p=100</guid>

					<description><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/04/okayama-02-1024x768.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>岡山城は旭川の流れを堀に見立てて築かれた城で、下見板を黒漆で塗った外観から烏城と呼ばれてきました。築いたのは宇喜多秀家。父の直家が小さな城を奪って足がかりにした場所を、秀家が川筋を付け替えてまで作り直し、五十七万石の城と [&#8230;]</p>
<p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/100.html">岡山城：宇喜多秀家が旭川を付け替えて築いた烏城と、不等辺五角形の天守台</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><img src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/04/okayama-02-1024x768.jpg" class="webfeedsFeaturedVisual" /></p><p>岡山城は旭川の流れを堀に見立てて築かれた城で、下見板を黒漆で塗った外観から烏城と呼ばれてきました。築いたのは<a href="https://www.busho-zukan.info/chugoku/997.html">宇喜多秀家</a>。父の直家が小さな城を奪って足がかりにした場所を、秀家が川筋を付け替えてまで作り直し、五十七万石の城として完成させています。関ヶ原で秀家が失脚したあとは<a href="https://www.busho-zukan.info/kinki/890.html" target="_blank" rel="noopener noreferrer">小早川秀秋</a>、そして池田氏が入り、幕末まで岡山を治めました。</p>
<div style="background:#f7f5f0;border-left:4px solid #B08520;padding:16px 20px;margin:1.5em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;">この記事のポイント</div>
<ul style="margin:10px 0 0;padding-left:1.2em;">
<li>宇喜多直家が奪った石山の城を、秀家が大城郭に造り替えた</li>
<li>旭川を東へ付け替えて天然の堀とし、城下町を新しく開いた</li>
<li>天守台は不等辺の五角形で、天守もその形に合わせて建った</li>
<li>天守は空襲で焼け、月見櫓と西手櫓が江戸時代から残る</li>
</ul>
</div>
<h2>岡山城とは：黒い天守と川の堀</h2>
<p>岡山城は岡山市の中心、旭川の西岸にあります。城が建つのはもともと石山と呼ばれた小高い土地で、その東を流れていた川を人の手で付け替え、本丸の背後に回して堀の代わりにしました。城の東側には川しかなく、西側に城下町が広がるという構えです。天守の壁は黒い下見板で覆われ、<a href="https://www.jp-history.info/castle/243.html">姫路城</a>の白と対をなす姿から烏城の名がつきました。</p>
<p>この天守がのっている台は、四角ではなく不等辺の五角形をしています。石山という自然の高まりの形に合わせて石垣を積んだためと考えられ、天守自体も土台に合わせていびつな平面を持っていました。城を造るときに地形を優先した結果が、そのまま建物の形になっているわけです。</p>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/04/okayama.jpg" alt="岡山城の天守を見上げる" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">天守を真下から見上げる。黒漆を塗った下見板が幾重にも重なり、烏城の名の由来になった。</p>
<h2>宇喜多直家は「梟雄」だったのか</h2>
<p>岡山城の出発点をつくったのは宇喜多直家です。備前の小さな国人の家に生まれ、祖父の代に没落した家を一代で立て直し、<a href="https://www.jp-history.info/castle/5516.html">沼城（亀山城）</a>を経てこの石山の城に入り、城下に商人を集めて町を開きました。ところがその名は、謀略と暗殺を重ねた男としてのほうがよく知られています。</p>
<div style="border:1px solid #dcd3bd;border-radius:8px;overflow:hidden;margin:1.8em 0;">
<div style="background:#eef1f5;padding:14px 18px;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#5b6b80;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▽ よく語られる話</div>
<p style="margin:0;line-height:1.8;">宇喜多直家は舅も義弟も謀殺した戦国三大梟雄のひとりで、裏切りと暗殺だけで成り上がった。</p>
</div>
<div style="background:#fdf8ec;padding:14px 18px;border-top:3px solid #B08520;">
<div style="font-size:83%;font-weight:bold;color:#8a7530;letter-spacing:.1em;margin-bottom:5px;">▼ 史実ではこうです</div>
<p style="margin:0;line-height:1.8;">直家が敵対する国人を討ち、縁戚を切ったことは記録に見えますが、梟雄という人物像そのものは江戸時代の軍記物のなかで形づくられた面が大きいものです。備前は小さな勢力が割拠して浦上氏の下で争う土地で、生き残るためには同じことを誰もがしていました。直家は同時に城下町の整備や商人の招致を進めており、岡山という都市の骨格はこの時期に引かれています。悪名だけで語ると、その仕事が見えなくなります。</p>
</div>
</div>
<h2>宇喜多秀家が川を動かして築いた城</h2>
<p>直家の跡を継いだ秀家は、<a href="https://www.busho-zukan.info/tokai/47.html">豊臣秀吉</a>の養女を妻に迎え、備前・美作に備中の一部を加えた五十七万石の大名として五大老に列しました。その秀家が天正18年（1590年）ごろから七年ほどをかけて進めたのが、石山の東にあらためて本丸を築き、旭川を東へ付け替える大工事です。川は城の背後を守る堀となり、西側には広い城下町が開かれました。</p>
<p>五重六階の天守が上がったのもこのときです。金箔を押した瓦が使われたことから金烏城とも呼ばれました。ところが関ヶ原の合戦で秀家は西軍の主力として戦い、敗れて薩摩に身を隠したのち八丈島へ流されます。島で五十年を過ごし、八十代まで生きたと伝えられ、関ヶ原に参じた大名のなかで最も長い晩年を送った人物になりました。</p>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/04/okayama-03.jpg" alt="旭川越しに望む岡山城の天守" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">旭川の対岸から見る天守。この川は秀家が城の東へ付け替えたもので、そのまま堀の役目を果たした。</p>
<h2>小早川秀秋の二年と、池田氏の二百五十年</h2>
<p>関ヶ原で東軍に寝返った小早川秀秋は、その功で備前と美作の五十一万石を与えられ岡山城に入りました。秀秋は二の丸と三の丸を広げ、城下の外周に堀をめぐらせる工事を進めますが、入城から二年ほどで急死します。跡継ぎがおらず、小早川家はここで絶えました。</p>
<p>次に入ったのが<a href="https://www.busho-zukan.info/tokai/912.html" target="_blank" rel="noopener noreferrer">池田輝政</a>の子、忠継です。以後、池田氏が三十一万石余りで幕末まで岡山を治めました。四代綱政の代には城の北側に大きな庭が造られ、これがのちに日本三名園に数えられる後楽園になります。旭川の中州を丸ごと使った庭で、天守を借景として眺められるよう設計されました。備前焼や児島の綿など領内の産物も育ち、岡山は西国の大きな城下町として成熟していきます。</p>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/04/okayama-04.jpg" alt="岡山城の堀と石垣" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">堀に架かる橋と石垣。水面にはスイレンが広がり、城の外周がそのまま公園として開かれている。</p>
<h2>城下町の広がりと、後楽園</h2>
<p>岡山の町は、旭川を付け替えたことで生まれた土地の上に広がりました。城の西から南へ武家地と町人地が帯のように並び、川湊から瀬戸内の航路へつながる商いの道が開かれます。備前焼の里が近く、干拓で生まれた新田は綿や藺草を産み、城下の市は西国でも有数のにぎわいを見せました。</p>
<p>四代綱政が旭川の中州に造らせた庭は、当初は藩主が客をもてなし、自らくつろぐための場所でした。広い芝地に池と築山を配し、田畑や茶畑まで取り込んだ造りで、天守をそのまま景色の一部として借りています。幕末の岡山藩は、<a href="https://bakumatsu.info/all-han/985.html">姉妹サイト「幕末歴史ガイド」の岡山藩のページ</a>にまとめたとおり、新政府側に立って明治を迎えました。城は取り壊されずに残り、天守が失われるのはそれから七十年以上あとのことです。</p>
<h2>空襲で焼けた天守と、残ったもの</h2>
<p>岡山城の天守は江戸時代を通じて建ち続け、国宝にも指定されていました。それを失わせたのは戦争です。昭和二十年の岡山空襲で天守は焼け落ち、石山門も失われました。いま建っている天守は戦後に鉄筋コンクリートで再建されたもので、外観は焼失前の姿を写しています。</p>
<p>焼け残った建物もあります。本丸の北東に建つ月見櫓と、西の丸の西手櫓です。どちらも池田氏の時代に建てられた櫓で、国の重要文化財に指定されています。本丸の中の段では発掘によって宇喜多時代の石垣が見つかり、地下に保存されて見学できるようになりました。秀家が積んだ石垣の上に、後の時代の石垣が重なっている様子がそのまま見て取れます。</p>
<p><img decoding="async" src="https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2016/04/okayama-02.jpg" alt="岡山城の天守と塩蔵" width="650" class="aligncenter" /></p>
<p style="font-size:93%;color:#6b6355;">再建された天守を横から見る。手前の白壁は塩蔵で、黒い天守との対比が城の顔になっている。</p>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/1214.html">鳥取城跡：渇え殺しの前に米を買い占めた秀吉と、天球丸の丸い石垣</a><br />山城と近世城郭が一つの山に重なる城跡。球面に積まれた石垣は国内で唯一です。</p>
</div>
<h2>岡山城・場所とアクセス</h2>
<p>岡山県岡山市北区丸の内2-3-1。JR岡山駅から路面電車で城下電停、そこから歩いて十分ほどです。天守は有料で、後楽園との共通券も用意されています。城と庭は旭川をはさんで向かい合っており、月見橋を渡れば行き来できます。天守の最上階から見下ろすと、川が城の東を回りこむ形がよくわかり、秀家が何をしたのかが一目で理解できます。日本100名城のスタンプは天守の入口に置かれています。</p>
<p><iframe src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d3281.5834317611416!2d133.9337974150097!3d34.665221792625715!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x355406250dd6739f%3A0x64e9ae45d49efb6d!2z44CSNzAwLTA4MjMg5bKh5bGx55yM5bKh5bGx5biC5YyX5Yy65Li444Gu5YaF77yS5LiB55uu77yT4oiS77yR!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1461311364121" width="100%" height="450" frameborder="0" style="border:0" allowfullscreen></iframe></p>
<div class="jph-related" style="background:#fdf8ec;border:1px solid #e3d6b4;border-left:4px solid #B08520;padding:14px 18px;margin:1.8em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:5px;"><img src="https://s.w.org/images/core/emoji/17.0.2/72x72/25b6.png" alt="▶" class="wp-smiley" style="height: 1em; max-height: 1em;" /> あわせて読みたい</div>
<p style="margin:0;"><a href="https://www.jp-history.info/castle/5516.html">沼城（亀山城）：宇喜多直家が岡山城へ移るまで拠点とした沼城</a><br />直家が石山の城を手にする前に本拠としていた城です。</p>
</div>
<div style="background:#f7f5f0;border:1px solid #e3dccb;border-radius:8px;padding:16px 20px;margin:2em 0;">
<div style="font-size:85%;color:#8a7530;font-weight:bold;letter-spacing:.08em;margin-bottom:8px;">中国地方の城</div>
<ul style="margin:0;padding-left:1.2em;">
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/5516.html">沼城（亀山城）</a> ― 宇喜多直家が岡山へ移る前の本拠</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/829.html">津山城</a> ― 森氏が美作に築いた総石垣の城</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/243.html">姫路城</a> ― 池田輝政の城、白と黒で岡山城と対をなす</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/909.html">広島城</a> ― 毛利輝元が築いた西国の大城郭</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/902.html">福山城跡</a> ― 水野勝成が三年で築いた備後の城</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/4353.html">三原城</a> ― 小早川隆景の瀬戸内の浮城</li>
<li><a href="https://www.jp-history.info/castle/661.html">高松城跡（玉藻公園）</a> ― 海を渡った先の三大水城のひとつ</li>
</ul>
</div><p>The post <a href="https://www.jp-history.info/castle/100.html">岡山城：宇喜多秀家が旭川を付け替えて築いた烏城と、不等辺五角形の天守台</a> first appeared on <a href="https://www.jp-history.info">日本の歴史ガイド〜日本のお城 城跡 史跡〜</a>.</p>]]></content:encoded>
					
					<wfw:commentRss>https://www.jp-history.info/castle/100.html/feed</wfw:commentRss>
			<slash:comments>0</slash:comments>
		
		
			</item>
	</channel>
</rss>
