- 仙台城には天守がない。焼けたのではなく、最初から建てられなかった
- 理由は「徳川への配慮」だけではない。断崖の地形と大広間という別の権威の見せ方が揃っていた
- 天守を持たない・再建しない城は各地にある。水戸城、相馬中村城、金沢城、そして江戸城まで
- 江戸時代を通じて、天守は「建てないほうが普通」になっていった
仙台城——青葉城を訪ねた人が最初に戸惑うのが、天守が見当たらないことである。
六十二万石。伊達政宗。日本100名城。条件はすべて揃っているのに、天守だけがない。しかもこれは焼失の結果ではなく、最初から建てなかったのだ。
なぜか。そして、これは仙台城だけの話なのか。

仙台城本丸の高石垣。この城が誇示したのは高さではなく、石垣と地形だった
天守とは、そもそも何だったのか
天守を「城の中心の軍事施設」だと思うと、話がわからなくなる。
高層の天守を城の顔として完成させたのは織田信長の安土城で、そこから秀吉の大坂城、聚楽第へと受け継がれた。天守は戦うための建物というより、見せるための建物である。遠くから見えること、そこに主がいると知らしめること。それが第一の機能だった。
だから逆に言えば、見せる必要がない、あるいは見せたくない事情があれば、天守は建てなくていい。
政宗が建てなかった三つの理由
慶長六年(1601)、政宗が青葉山に築城を始めたとき、彼が天守を上げなかった理由としては三つが挙げられる。
一、徳川への配慮。関ヶ原の直後である。六十二万石の外様大名が壮大な天守を上げれば、要らぬ疑いを招く。政宗は「野心家」として見られ続けた人物だから、なおさらだった。
二、地形が要らないと言っていた。青葉山は南を竜ノ口渓谷、東を広瀬川に断ち切られた天然の要害で、本丸の台地は川面から百メートル以上切り立っている。この高さの上に、さらに高い建物を足す意味は薄い。
三、権威は別の形で示した。本丸には壮大な大広間が置かれ、大名や使者はそこへ通された。見上げさせるのではなく、通させて圧倒する。天守がないぶん、この大広間が仙台城の顔だった。
三つのうちどれが本当か、という問いの立て方はあまり意味がない。三つが同じ方向を指していたから、天守は建たなかったのだと思う。

本丸跡の伊達政宗騎馬像。いま仙台城でいちばん写真に撮られているのは、天守ではなくこの像である
「建てなかった城」は各地にある
ここからが面白いところで、天守を持たない城、焼けても再建しなかった城は、仙台城だけではない。
水戸城(茨城県)… 徳川御三家の居城でありながら、天守も石垣もない。那珂川と千波湖に挟まれた台地を巨大な空堀で断ち切っただけの、中世以来の土の城のままだった。格式でいえば仙台藩を上回る家が、それで通している。
相馬中村城(福島県)… 慶長十六年(1611)の築城時には三重の天守が建った。しかし寛文十年(1670)に落雷で焼失し、以後ついに再建されなかった。この城が天守を持っていた期間は、持たなかった期間よりずっと短い。
白石城(宮城県)… 仙台藩の南の要。天守にあたる建物はあったが、「三階櫓」と呼んだ。幕府への遠慮である。名前を変えれば角が立たない、という時代の作法だ。
金沢城(石川県)… 前田家百万石の居城だが、天守は慶長七年(1602)に落雷で焼け、その後は再建されていない。
そして極めつけが江戸城である。明暦三年(1657)の大火で天守が焼けたあと、幕府自身が再建をやめた。天下人の城が天守を持たないまま、二百年以上続いたことになる。

ライトアップされた大手門脇櫓。国宝だった大手門は昭和二十年の空襲で焼け、この脇櫓は昭和四十二年の再建である
天守は「建てないほうが普通」になった
並べてみると、流れが見えてくる。
元和元年(1615)の一国一城令と武家諸法度以降、城の修築には幕府への届出が必要になった。天守を新たに建てる、あるいは焼けたものを建て直すというのは、そのたびに幕府の目を通す行為になる。手間もかかるし、疑いも招く。
加えて、太平が続けば天守は維持費のかかる空き家でしかない。中に住むわけではなく、政務も二の丸で行われる。焼けたら焼けたまま——という判断は、けちというより合理である。
つまり仙台城に天守がないのは例外ではなく、江戸時代の城のありようとしてはむしろ本流だった。私たちが「城といえば天守」と思うのは、現代に残った十二の現存天守と、戦後に建てられた大量の復興天守が作ったイメージなのである。
「天守と呼ばなければいい」という発明
もう一つ、江戸時代の城には抜け道があった。天守にあたる建物を、天守と呼ばないことである。
白石城の「三階櫓」がまさにそれだ。三層の立派な建物が本丸に建っているのに、書類の上では櫓ということになっている。金沢城も、焼けた天守のかわりに三階櫓を置いた。
弘前城にいたっては、話がもっとはっきりしている。慶長十六年(1611)の築城時には五重の天守が建ったが、寛永四年(1627)に落雷で焼失。それから百八十年以上、弘前城に天守はなかった。文化七年(1810)になって本丸の櫓を改築し、三重の建物を上げる。これが現在「現存天守十二」に数えられている弘前城天守である。
つまり現存天守のひとつは、もともと櫓として届け出られた建物なのだ。天守か櫓かは、建物の姿ではなく手続きと呼び方の問題だった。仙台城が天守を建てなかったことも、この文脈に置くと理解しやすい。建てる・建てないは、幕府との関係の表明でもあった。
大河ドラマで描かれない話
政宗は城を建てる前に、まず地名を書き換えている。
この地はもともと「千代(せんだい)」と呼ばれ、青葉山には国分氏の千代城があった。政宗はこれを「仙臺」と改める。唐詩から採ったとされる、仙人の住む高殿を意味する字である。読みはそのまま、文字だけを入れ替えた。
天守を建てないかわりに、町の名前を仙人の高殿にした——と言うと出来すぎだが、この人が何を大事にしていたかはよく表れている。目に見える建物ではなく、名前と格式と、実際に動く仕組み。城下町は広瀬川の河岸段丘に沿って碁盤目状に引かれ、寺院を外周に配して防御を兼ねさせた。城ではなく町ごと設計するという点で、政宗は同時代の天下人と同じことをしている。
よくある質問
Q. 仙台城に天守はあったのですか?
A. ありません。焼失したのではなく、最初から建てられませんでした。かわりに本丸の大広間が城の中心的な建物でした。
Q. 青葉城と仙台城は別の城ですか?
A. 同じ城です。青葉山に築かれたことから青葉城とも呼ばれ、どちらの名前も広く使われています。
Q. 天守がないのに日本100名城なのはなぜですか?
A. 選定の基準は天守の有無ではありません。仙台城は本丸の高石垣と、断崖を生かした縄張が評価されています。天守を探しに行くと肩透かしを食いますが、石垣を見に行くつもりで登ると圧倒的に面白い城です。

桜の季節の脇櫓。仙台城で最も古くから立つのは、実は空襲を免れた大手門北側の土塀である
ゆかりの地をめぐる
- 仙台城(青葉城)(宮城県仙台市)… この記事の舞台。石垣と登城路、現地の見どころはこちら
- 岩出山城(宮城県大崎市)… 仙台へ移る前、政宗が十二年を過ごした城
- 米沢城(山形県米沢市)… 政宗が生まれた城
- 白石城(宮城県白石市)… 天守を「三階櫓」と呼んだ、仙台藩の南の要
- 水戸城(茨城県水戸市)… 天守も石垣もない御三家の城
- 相馬中村城(福島県相馬市)… 落雷で天守を失い、再建しなかった城
政宗という人物そのものについては、伊達政宗:出生から家督相続 摺上原の戦いまで、摺上原の戦いから関ヶ原の戦いまで、関ヶ原の戦いから大阪の陣そして晩年の三本で追っています。
まとめ
仙台城に天守がないのは、政宗がけちだったからでも、造る力がなかったからでもない。建てないという選択に、はっきりした理由があった。
徳川の目を意識し、断崖という地形を信頼し、権威は大広間で示す。三つが揃えば、天守は要らない。そして江戸時代が進むにつれ、同じ判断をする城が次々に現れた。天守のない城を見て「何もない」と思うのは、少しもったいない。そこには、建てなかった理由のほうが残っている。

