竹田城跡(朝来市):赤松広秀が総石垣に変えた虎臥城と、「天空の城」と呼ばれるまで

竹田城:赤松広秀が城主であった天空の城 竹田城

竹田城跡は兵庫県朝来市、円山川を見下ろす標高三百五十メートルほどの山の上にあります。尾根の形に沿って石垣だけが残り、建物はひとつもありません。それでも日本100名城に選ばれ、多くの人が登るのは、総石垣で築かれた山城の縄張がこれほどきれいに残っている場所がほかにないからです。秋から冬の明け方、川から立ちのぼる霧が山腹を埋めると、石垣の輪郭だけが雲の上に浮かびます。

この記事のポイント
  • 山名氏の但馬支配を支えた城を、赤松広秀が総石垣に造り替えた
  • 建物は残らないが、尾根に沿った縄張がそのまま地上に見える
  • 雲海に浮かぶ姿が知られるが、その呼び名は近年に広まったもの
  • 関ヶ原のあと城主が切腹し、そのまま廃城になった
目次

竹田城とは:尾根をなぞる総石垣の縄張

城は古城山の頂を中心に、南北およそ四百メートルにわたって曲輪が連なります。中央に天守台と本丸を置き、そこから南へ南二の丸と南千畳、北へ二の丸と北千畳、西へ花屋敷が張り出す形で、上から見ると鳥が翼を広げたようにも、虎が伏せたようにも見えることから虎臥城とも呼ばれました。

石垣は自然石をそのまま積み上げた野面積みで、隅は算木積みの手法で組まれています。城内に建物の礎石も残っており、かつては櫓や門が並んでいました。山城でありながら全域を石垣で囲むという造りは、出石城(有子山城)など但馬のほかの城と比べても徹底しています。

竹田城跡の石垣と曲輪

本丸のあたりから曲輪の連なりを見下ろす。尾根の形に沿って石垣が伸び、眼下に円山川の谷が開ける。(写真提供:吉田利栄)

山名氏の但馬と、太田垣氏の城代

竹田城が築かれたのは室町の半ば、但馬守護の山名氏の時代と伝えられます。山陰の要である生野の銀を運ぶ道と、播磨から但馬へ抜ける街道が交わるあたりを押さえる位置で、山名氏の重臣だった太田垣氏が代々城代をつとめました。ただし築城の年や経緯を確実に伝える同時代の記録は乏しく、伝承に頼る部分が残っています。

戦国の後半、織田信長の命で中国方面を任された羽柴秀吉が但馬へ攻め入り、竹田城も落ちました。弟の秀長がしばらく城を預かり、出石城(有子山城)とあわせて但馬の押さえとします。丹波では八上城や黒井城で明智光秀が苦戦していたころのことで、山陰と山陽をつなぐこの一帯は織田方にとって欠かせない足場でした。

赤松広秀が石垣の城に造り替えた

やがて城主となったのが赤松広秀、斎村政広とも名のった武将です。播磨の名門赤松氏の流れをくみ、竹田に入ると城の大改修に取りかかりました。それまで土づくりだった曲輪を石垣で囲み、尾根全体を総石垣の城に変えたのはこのときと考えられています。近江の穴太衆の手が入ったとする見方もあり、野面積みの積み方にはその特徴が見て取れます。

広秀は学問を好み、領内の治水や農政にも力を入れた人物として地元に伝えられています。ところがその最期は思いがけないものでした。関ヶ原の合戦で西軍に付いた広秀は、敗戦後に東軍の亀井茲矩とともに鳥取城を攻めます。ところが攻城の際に城下が焼けたことの責めを問われ、徳川家康から切腹を命じられました。茲矩の讒言があったとも、西軍に付いた分の始末をつけさせられたとも言われ、理由は今もはっきりしません。広秀の死とともに竹田城は廃城となり、以後、建物が建て直されることはありませんでした。

雲海に浮かぶ竹田城跡

雲海に浮かぶ城跡。秋から初冬の明け方、円山川から立ちのぼる霧が山腹を埋める。(写真提供:吉田利栄)

この山が押さえていたもの

なぜ但馬のこの山に、これほどの城が必要だったのか。答えは足もとを通る道にあります。竹田は播磨から生野の峠を越えて但馬へ抜ける街道の途中にあり、円山川に沿って日本海側へ下る道もここで合わさります。山の上から見下ろせば、谷を行き来する人と荷が一目でわかりました。

峠の南には生野の銀山があります。戦国の終わりから江戸にかけて、この銀は織田・豊臣・徳川の財政を支える大きな柱となりました。銀を運ぶ道の途中を押さえる城が、軍事的にも経済的にも重い意味を持ったことは想像に難くありません。赤松広秀が城を石で固めたのも、単なる見栄ではなかったはずです。城が廃されたのは、天下が定まって山の上から街道を見張る必要がなくなったからでもありました。

「天空の城」という呼び名について

竹田城といえば雲海、という結びつきはすっかり定着しました。ただ、この呼び名がいつからのものかを確かめておくと、城の見方が少し変わります。

▽ よく語られる話

竹田城は昔から天空の城と呼ばれ、雲海に浮かぶ姿を目指して築かれた城だった。

▼ 史実ではこうです

江戸時代の記録に天空の城という呼び方は見えません。城の別名として伝わるのは虎臥城で、山の形に由来します。雲海に浮かぶ姿が広く知られるようになったのは写真が出回ってからのことで、比較的新しい呼び名です。もちろん霧そのものは昔からこの谷に立ちこめていましたが、城を築いた人々が目指したのは絶景ではなく、街道と川筋を見張れる高さでした。

雲海が出やすいのは、晩秋から初冬にかけて、昼と夜の気温差が大きく風の弱い朝です。城跡そのものからも霧を見下ろせますが、浮かぶ城の姿を眺めるなら向かいの立雲峡から見るのが定番になっています。

雪をかぶった竹田城跡

雪化粧した城跡。木々が葉を落とし雪が積もると、石垣の線がかえってくっきり浮かび上がる。(写真提供:吉田利栄)

石垣を守りながら歩く

建物がないぶん、この城の価値は石垣そのものにあります。訪れる人が増えたことで土が踏み固められ、石垣の根元がゆるむ問題が起きたため、いまは見学できる範囲が定められ、順路に沿って歩くきまりになっています。観覧には料金がかかり、冬季は積雪や凍結のため閉山する期間があります。

登り口はいくつかあり、駅の裏手から登山道をたどる道のほか、中腹の駐車場からバスで上がる方法もあります。山頂までは坂と階段が続くので、歩きやすい靴が要ります。石垣のすぐ横を通る場所も多いので、手をついたり腰かけたりしないだけで、この城跡は次の世代まで残ります。

▶ 姉妹サイト「幕末歴史ガイド」で読む

竹田藩/赤松家2万2千石:赤松広秀(斎村政広)関ヶ原の戦いの地方戦で鳥取城を攻めるも城下が火災に包まれた責を負い切腹となり廃城

竹田城の地を治めた竹田藩が、幕末をどう生きたかをまとめています。

【現地取材】天空の城・竹田城跡から生野銀山へ—維新の魁となった「生野義挙」を歩く

運営者が実際に現地を歩いた、写真つきの記録です。

竹田城跡・場所とアクセス

兵庫県朝来市和田山町竹田。JR播但線の竹田駅が最寄りで、駅裏の登山道からおよそ四十分、中腹の山城の郷からバスと徒歩で二十分ほどです。車の場合、山頂近くまで上がることはできず、中腹の駐車場に停めることになります。日本100名城のスタンプは情報館や竹田駅などに置かれています。生野銀山や出石城(有子山城)を組み合わせれば、但馬を一日で回る行程になります。

朝霧のなかに浮かぶ竹田城跡

朝霧のなかに現れる石垣。建物がひとつも残らない城跡が人を呼ぶのは、この眺めがあるからでもある。(写真提供:吉田利栄)

▶ 旅の計画に

【実録】国宝姫路城と天空の城・竹田城 ― 生野銀山・生野義挙碑、津山城、赤穂城・大石神社から明石城へ|成田発 飛行機2泊3日
姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」の行程。姫路城とあわせて但馬・播磨を回れます。

但馬・丹波・播磨の城
  • 出石城(有子山城) ― 但馬の山名氏と、秀吉の但馬攻め
  • 鳥取城 ― 赤松広秀が最後に攻めた城
  • 八上城 ― 明智光秀が丹波で苦しんだ山城
  • 黒井城 ― 赤井直正が光秀を退けた城
  • 姫路城 ― 播磨の白い城、竹田からの定番の組み合わせ
  • 篠山城跡 ― 藤堂高虎が六か月で仕上げた丹波の城
  • 観音寺城跡 ― 安土より早く石垣を積んだ近江の山城
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