瀬田城(せたじょう)は、琵琶湖から流れ出る瀬田川のほとりにあった城です。城主の山岡景隆は織田信長の信任を受け、信長が上洛する際の宿としてこの城を使ったと伝えられます。本能寺の変が起きると、景隆は明智光秀の誘いを断り、瀬田の唐橋を焼いて甲賀へ退きました。合戦をしないまま戦局を左右した判断です。城跡には石碑と標柱が残ります。
- 瀬田川に面した水の城で、東海道と京を結ぶ要所を押さえた
- 城主の山岡景隆は信長の信任を受け、城は上洛時の宿にもなった
- 本能寺の変のあと、景隆は光秀の誘いを断って唐橋を焼いた
- 橋を失った光秀は近江へ進むのに数日を要した

瀬田川に架かる唐橋。擬宝珠の並ぶ欄干が弧を描き、川面が広がる。古くから東国と京を結ぶ要路だった。
瀬田川をまたぐ道
琵琶湖の水は、瀬田川となって南へ流れ出します。この川をまたぐ橋が瀬田の唐橋です。古来、東国から京へ向かうには、この橋を渡るか、湖を船で渡るしかありませんでした。壬申の乱でも、承久の乱でも、この橋が戦いの舞台になっています。「唐橋を制する者は天下を制す」と言われてきたのは、そのためです。
瀬田城は、この橋のたもとに築かれました。川に面した水の城で、坂本城や膳所城とともに、琵琶湖の浮城に数えられることがあります。城の役目ははっきりしています。橋を押さえ、通る者を見張ることです。
山岡景隆という武将
山岡氏は近江南部の武士で、甲賀にも根を張っていました。景隆は織田信長に従い、伊勢攻め、雑賀攻め、伊賀攻めなどに加わっています。信長の信任は厚く、上洛の途中でこの城に泊まったとも伝えられます。大名というほどの家ではありませんが、要路を任される立場にありました。
橋を焼いた判断
景隆がなぜ断ったのかは、はっきりとはわかりません。信長への恩義とも、光秀の勝算を疑ったとも語られます。ただ、近江の武士たちの多くが去就に迷うなか、真っ先に態度を決めて行動した点は確かです。安土城を目指した光秀は、この足止めのあと、ようやく近江へ入りました。

住宅地の一角に立つ石碑と石垣。まわりは民家とフェンスで、城の遺構はほとんど残っていない。
城のその後
山岡景隆は甲賀に退いたのち、羽柴秀吉のもとへ戻りました。しかし、かつての立場をそのまま取り戻したわけではありません。瀬田城も城としての役目を終え、廃されます。以後、この地域の中心は膳所城に移りました。徳川家康が関ヶ原ののち、東海道の入口を押さえる城として新たに築いたものです。
同じ「橋と街道を押さえる」という役目でも、戦国の小さな城から、天下普請の城へ。瀬田と膳所の関係は、時代の変わり目をそのまま示しています。
瀬田城跡の訪ね方
城跡はJR石山駅や京阪の唐橋前駅から歩ける範囲にあります。石碑と標柱が住宅地の一角に立っているだけで、遺構は残っていません。むしろ見るべきは、すぐ近くの瀬田の唐橋です。橋の上に立って両岸を見ると、ここを断てば何が止まるのかが、すぐにわかります。
近江の城をめぐるなら、膳所城、坂本城、安土城と結ぶ行程が組みやすい位置です。琵琶湖の南端に城が集中している理由も、歩けば見えてきます。
所在地:〒520-2134 滋賀県大津市瀬田2-13

