月山富田城跡(安来市):大内を退けた城が毛利に落ちた理由と、七曲りの登城路

月山富田城は出雲の尼子氏が本拠とした山城で、日本五大山城のひとつに数えられます。大内義隆の大軍を退けたことで難攻不落の名を得ましたが、二十年あまりのちに毛利元就の前に開城しました。落としたのは力攻めではなく、兵糧を断ち、内側を切り崩す戦い方です。山にはいまも山中御殿の石垣と七曲りの登城路が残り、堅いとはどういうことかを体で確かめられます。

この記事のポイント
  • 尼子経久から四代、山陰山陽に広がった尼子氏の本拠
  • 大内義隆の侵攻は退けたが、毛利元就の兵糧攻めで開城した
  • 山中御殿を要に、七曲りの急坂が本丸まで続く縄張
  • 堀尾吉晴が松江城へ移ったことで廃城になった
目次

月山富田城とは:飯梨川が回りこむ要害

城があるのは島根県安来市広瀬町、標高およそ百八十メートルの月山です。高さそのものは大したことがないように見えますが、三方を飯梨川が回りこみ、残る一方も急な斜面という地形で、攻め口が極端に限られています。山腹の平坦地に山中御殿を置き、そこから本丸へは七曲りと呼ばれる急な折れ道を登らねばなりません。

上杉謙信が一年攻めあぐねた七尾城跡、春日山城跡、観音寺城跡などとならんで日本五大山城に数えられるのは、この一点に守りを集める構えの完成度によるものです。

月山富田城跡の曲輪の石垣

曲輪を支える石垣。山の斜面を削り、要所に石を積んで平坦地をつくり出している。

尼子経久と、山陰の覇権

尼子氏はもともと出雲守護の京極氏に仕える守護代でした。その立場から一国の主へのし上がったのが尼子経久です。一度は城を追われながら奪い返し、出雲を平定して山陰へ勢力を広げ、石見銀山を押さえたことで莫大な財力も手にしました。孫の尼子晴久の代には八か国の守護職を認められ、尼子氏は最盛期を迎えます。

この時期、周防の大内氏が大軍で出雲へ攻め込みました。数では圧倒していたはずの大内勢は、長い遠征のあいだに出雲の国人が次々と尼子方へ寝返り、退却の途中で大きな損害を出します。このとき大内方に従っていた若き毛利元就も、命からがら安芸へ引き上げました。

難攻不落の城は、なぜ落ちたのか

大内の大軍を退けた城が、二十数年後には毛利元就に明け渡されます。同じ山、同じ縄張なのに結果が分かれたのはなぜでしょうか。

▽ よく語られる話

難攻不落と言われた月山富田城も、毛利元就の大軍の前にはついに力で攻め落とされた。

▼ 史実ではこうです

元就も一度は力攻めを試み、大きな損害を出して退いています。そこで方針を変え、周囲の支城を先に落として城を孤立させ、米の持ち込みを断ち、城内へ内応を呼びかけました。飢えが進むなかで兵の脱落が相次ぎ、一年半ののちに尼子義久は城を明け渡します。大内の遠征が国人の離反で崩れたのに対し、元就は先に国人を味方につけてから城へ向かいました。城の堅さではなく、城の外側をどう固めるかで勝負がついたことになります。

のちに元就の孫の輝元が広島城を築き、毛利氏は吉田郡山城の山から平野へ下りていきます。山城の時代が終わっていく流れのなかで、月山富田城の落城はひとつの節目でした。

月山富田城跡の苔むした石垣

山中御殿を囲む石垣。苔をまとった石が斜面に沿って長く続く。

山中鹿介と、尼子再興の十年

尼子の家が滅んだあとも、旧臣の山中鹿介幸盛は主家の再興をあきらめませんでした。京にいた尼子勝久を擁して出雲へ渡り、各地で兵を挙げ、捕らえられては脱し、織田信長の後ろ盾を得て播磨へ移り、上月城で秀吉方として戦い、最後は毛利方に捕らえられて命を落とします。十年をこえる執念でした。

この鹿介について、三日月に向かって「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったという話が広く知られています。ただしこの逸話が見えるのは江戸時代の軍記物や講談で、同時代の記録には確かめられません。祈りの言葉が後世のものだとしても、主家の再興のために戦い続けた足跡そのものは、各地の記録に残っています。

堀尾吉晴が山を下りた日

毛利氏が関ヶ原ののちに領地を大きく削られると、出雲と隠岐には堀尾吉晴・忠氏の父子が二十四万石で入りました。父子はまず月山富田城に入りますが、山の上の城は政治の場としても暮らしの場としても不便で、城下を広げる余地もありません。そこで宍道湖のほとりに新しい城を築くことに決めます。これが松江城です。

松江の城が完成すると、月山富田城は役目を終えて廃城になりました。戦いのために磨き上げられた山城が、平地の城下町に取って代わられる。全国で同じことが起きていた時代の、出雲における一場面でした。以後、城跡には人が住まず、そのおかげで曲輪と石垣が大きく損なわれずに残ることになります。

月山富田城跡の登城路

山中御殿から本丸へ向かう登城路。七曲りと呼ばれる折れ道が急な斜面を縫って上がる。

いま歩く月山富田城跡

近年の整備で、山中御殿の石垣が積み直され、登城路も歩きやすくなりました。麓の道の駅には歴史資料館があり、尼子氏と城の歴史を学んでから登れます。城下には武家屋敷を模した建物も建てられ、当時の町の雰囲気が再現されています。

麓から本丸までは片道四十分ほど。山中御殿までは比較的なだらかですが、そこから先の七曲りは息が上がります。登り切った本丸からは、飯梨川の谷と広瀬の町、遠く中海までが見渡せます。ここに立てば、なぜこの山が選ばれたのかが説明なしにわかります。

月山富田城の城下に再現された建物

城下に建てられた武家屋敷風の建物。麓の一帯は城跡とあわせて整備されている。

月山富田城跡・場所とアクセス

島根県安来市広瀬町富田。JR安来駅からイエローバスで広瀬バスターミナルまで三十分ほど、そこから歩いて十分ほどで登城口です。車なら山陰道の安来インターから二十分ほどで、道の駅広瀬・富田城の駐車場が使えます。日本100名城のスタンプは安来市立歴史資料館に置かれています。松江城とは車で四十分ほどの距離で、山城から近世城郭への移り変わりを一日でたどれます。

山陰・山陽と五大山城
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